富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(15)

 今、旧約聖書創世記の第2章から、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。前回は2章18節を読みました。そこには「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」という神様のみ心が語られています。このみ心によって、人間は男と女として造られているのだ、と聖書は語るのです。「彼に合う助ける者」とは、向かい合って互いに助け合って生きるパートナーという意味だと前回申しました。男にとって女は、女にとって男は、そのようなパートナーなのです。
 けれども、創世記2章を読んでいくと、この18節にすぐ続いて女性が造られたとは語られていないのです。19、20節を読んでみます。

 「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」

 まず、動物たちが造られて、最初に造られた人、アダム、男性のところに連れて来られたのです。人はその動物たちに名前を付けました。名前を付けるというのは、そこである出会いが起こり、相手に対するある認識が生まれるということでしょう。自分にとって相手はどのようなものだ、ということがわかることによって、名前をつけることができるのです。人はそのように動物だちと出会っていきましたが、しかし、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」。動物たちの中には、本当に向かい合って共に生きる相手、パートナーは見出せなかったのです。人間が、共に生きるべき相手、パートナーは、動物たちの中にはいない。そこに、人間と動物の根本的な違いが見つめられているのです。人間のパートナーはやはり人間でなければならないのです。自分と同じ人間であり、しかも自分とは違う者こそが、共に生きるべき相手です。男にとって女は、女にとって男は、他の動物たちとは違う、そのような特別な存在なのです。

牧師 藤 掛 順 一

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