富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(28)

旧約聖書創世記25章から27章の、エサウとヤコブの物語についてお話ししています。神様は、兄エサウではなく、弟ヤコブをお選びになり、祝福の継承者とされました。それは、彼らが生まれてくる前からそのように定められていたのです。人間が何かをしたりしなかったりすることによってではなく、ただ神様の選びによってそのことが定められていたと聖書は語っているのです。私たちはこの神様の選びということをなかなか納得できません。それでは、人間は神様のロボットのようではないか、人間の努力や意志はどうなるのか、と思うのです。

けれども、逆に問わなければなりません。私たちの人生は、私たちの努力や意志でどうにかなるものなのでしょうか。勿論、強い意志をもって目的のために努力するというのは大事なことです。しかし、努力すれば必ずその通りになるのでしょうか。強い意志で努力さえすれば、誰でもプロ野球の選手になれるでしょうか、流行歌手になれるでしょうか。勿論努力も必要ですが、やはり持って生まれた才能、天分というものに左右されるのではないでしょうか。それだけではありません。たとえ才能、能力を持っていたとしても、生まれ育った環境や、機会、チャンスに恵まれなければ、それを開花させることはできないでしょう。要するに私たちの人生には、意志や努力によってどうすることもできない要素が多分にあるのです。私たちは、自分の意志で生まれて来るのではありません。男に生まれるか女に生まれるか、いつの時代の、どの国の、どの地域の、どのような家庭に生まれるかを自分で選ぶことはできないのです。私たちの人生を成り立たせている基本的な要素は殆ど全て、私たちの意志とは関係なく与えられたものです。自分の意志や努力で左右できる部分というのは、むしろ少ないのです。

そして、私たちそれぞれに生まれつき与えられている条件は、人によって全て違っています。プロスポーツ選手になれるような能力を持って生まれた人もいれば、どう頑張ってもそうはなれない人もいる。たいして努力せずにテストで百点をとれる人もいれば、頑張っても70点の人もいる。美人でスタイルのよい人もいれば、そうでない人もいる。人づきあいの上手な人もいれば、それが下手な人もいる。努力や意志とは関係ないところで、人間はまことに不平等に出来ているのです。それは、そこに神様のご意志がある、と考える他ないことです。なかなか納得しにくいことではありますが、神様の選びというのは、実は人間の現実に即した教えなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年5月8日〜5月21日]

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