富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(101)

「十戒」の第六の戒め、「殺してはならない」についてのお話しを続けます。
「殺してはならない」とは、人を殺してはならない、つまり殺人を禁じた教えであることを前回申しました。それならば、殺人さえ犯さなければ、この戒めを守って生きていると言えるのでしょうか。

 このことについては、新約聖書マタイによる福音書第5章21節以下のイエス・キリストの教えを共に読んでおきたいと思います。イエス・キリストは、この「殺してはならない」という戒めをとりあげ、その本当の意味、神様がご自分の民にこの戒めを与えた真意をこのように語っておられるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

 兄弟に対して腹を立てること、「ばか」とか「愚か者」とか言って人を侮辱すること、それも、人を殺すことと同じだとイエス・キリストは言っておられるのです。人を憎んだり、さげすんだりすることは、その人を心の中で殺すことです。いわゆる殺人は、そういう憎しみや蔑みの思いがエスカレートしていくところに生まれるのです。それゆえに、「殺してはならない」という教えによって神様が私たちに求めておられるのは、ただ殺人を犯さないことではなくて、憎しみや嫉妬、また人を蔑み馬鹿にする思いから遠ざかることです。なぜ人を殺してはならないか、それは人間の命は神様のものであり、神様がそれぞれの人にお与えになったものだからだ、ということを前回申しました。つまり、神様を敬い尊重するがゆえに、その神様のものである人の命をも尊重し、大事にするというのが聖書の教えです。こういう信仰を持って生きる時に、私たちは、ただ人を殺さないというだけでなく、憎んだり、侮辱したり、傷つけたりすることからも遠ざかっていくのです。勿論人間ですから、怒る時もあります。憎しみを覚えることも、復讐の思いにかられることもあります。けれどもその時にこの戒めを思い、自分の命も、また相手の命も神様のもの、神様が与えておられるものであることを覚えるならば、私たちは度を超えた罪に陥らずにすむのです。「殺してはならない」というのは、子供でもわかる、当たり前の、単純な戒めですが、これが単なる道徳としてではなく、神様を信じる信仰に基づいて真剣に受け止められていくならば、私たちの人生を明るく作り変え、またこの世界に平和をもたらす戒めとなるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月2日〜6月15日]

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