富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第63回

7.「さいごの戦い」(16)

 牧師 藤掛順一


 一同はアスランの「さらにおくへ、さらに高く」という促しに従って歩き続けました。歩きながら彼らは、ここが、ナルニアととてもよく似ている世界であることに気づきました。ナルニアから見える景色が皆揃っているのです。しかしそのどれもが、実際よりもずっとすばらしいものに感じられました。ワシの遠見ぬしが空に舞い上がり、ナルニアの全てのものがここに揃っていることを確認して言いました。「ナルニアは、ほろびません。ここは、ナルニアです」。しかしピーターは、「アスランは、われら年上の者たちに、二度とナルニアにもどることはないと申された」と言い、エドマンドも、「それにぼくたちは、いっさいがほろびるところ、太陽がなくなるところを見たんだ」、ルーシィも、「それに、ここはすっかりちがいますもの」と言いました。するとディゴリー卿が語り出しました。
 「よくききなさい、ピーターよ。アスランが、あんたに、ナルニアにもどることはないといわれたのは、あんたがたみんなが考えているナルニアのことを指していわれたのだよ。けれども、そのナルニアとは、まことのナルニアではない。そこには、はじめがあり、また終わりがあった。そこは、まことのナルニアの、ただ影の国、まぼろしの国、ひきうつしの国だったのだ。まことのナルニアは、つねにここにあり、つねにここのまま変わることはないだろう。さながら、わたしたちの世界、イギリスやあらゆる国々のある世界もまた、アスランのまことの世界の夢かまぼろしの国、影かうつしの国であるようなものだ。もうナルニアのことをいたくなげく必要はないのだよ。ルーシィ。かかわりのあるよいナルニアのいっさい、親しい生きもののすべては、あの戸をふみこえて、まことのナルニアへひっこしてきたんだ。そしていうまでもなく、ここはちがうところだ。ほんものが水の鏡とちがい、目をさましている時が、夢みている時とちがうように、ちがうのだよ」。そしてディゴリーは付け加えます。「これはすべて、プラトンのいうところだ。あのギリシアのすぐれた哲学者プラトンの本に、すっかり出ているよ。やれやれ、いまの学校では、いったい何を教えているのかな?」。
 ルイスがディゴリーの口を通して語っているように、ここに語られているのはプラトンの哲学に基づく世界観です。常に変わることなく存在するまことのナルニアとは、プラトンの言う「イデア」の世界です。はじめがあり、終わりがある現実の世界はその「影、ひきうつし」に過ぎないというのがプラトンの世界観なのです。ここでのディゴリーはルイスの分身です。ルイスの、多分にプラトン主義的世界観がここに語られているのです。前回述べた二元論的傾向もこのプラトン主義から来ていると言えるでしょう。
 しかしこれもまた、聖書の語ることとは違います。聖書の語る「神の国」はイデアの世界ではありません。始めがあり、終わりがあるこの世界は、決して「ほんものの世界」の「影」や「ひきうつし」ではないのです。聖書には、この世界と別に、ほんものの世界が永遠不変にある、という考え方はありません。この点において、ルイスは聖書の教えから全く離れて自らのプラトン主義哲学を語っているのです。
 しかしルイスにおいては、このプラトン主義哲学とキリスト教信仰とが結合されています。聖書において、この世の終わり、終末は全ての終わりではありません。むしろ神の国(神のご支配)の完成であり、新しい始まりです。世の終わりにおける神の審判を経て、神のご支配が完成し、新しい世界、神の国が実現するのです。その神の国に生きる者とされることが、聖書の語る救いなのです。「さいごの戦い」はそのことを描いています。うまやの戸口におけるアスランの審きを経て、こちら側に入ることを許された者たちは、神の国に入れられたのです。そして戸口の向こうのナルニアは滅びますが、最後にうまやの戸口が閉じられる時、アスランは、「さあ、おわりとしよう」と言いました。それは原文では「Now make an end.」です。ナルニアの終わりは、The End ではなくて、an end 「一つの終わり」なのです。つまり、この世が終わり、滅びても、なおその先に新しい世界があるということです。神様と私たちの関係は、世の終わりにおいても終わることがなく、なおその先に救いがあるのです。ルイスはその信仰を、プラトンのイデア論と結びつけて、「影の国」から「まことのナルニア」への「ひっこし」として語っているのです。なお、ディゴリーの言葉で「ひっこしてきた」と訳されているところは、原文では have been drawn into です。つまり自分で「ひっこしてきた」のではなく、アスランによって、キリストによって、「引き入れられた」のです。私たちは神の国に「引越しをする」ことはできません。神によってそこへ引き入れられるのです。
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