富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第6回

1.「ライオンと魔女」(5)

 牧師 藤掛順一



 アスランは、魔女と二人きりで話がしたいと言います。そしてその話が終わった時、魔女がエドマンドの命を要求することをやめたことが告げられました。アスランは魔女とどんな話をしたのでしょうか。
 その後すぐ、アスランは皆に命じて、石舞台の丘を引き払い、「ベルナの渡り場」へと向かわせました。その道々、アスランはピーターに、魔女の軍勢との戦いにおける注意事項を話します。ピーターが「でも、あなたもいらっしゃるんでしょう」と聞くと、アスランは「その約束ができないのだ」と言うのです。
 その夜、スーザンとルーシィは寝付けませんでした。胸騒ぎがして起きてみると、アスランが石舞台の方へ歩いていくのが見えました。彼女たちがその後についていくと、アスランは気付いて振り返りました。彼女たちがいっしょに行かせてくれるように願うと、アスランは、「今夜は、おともがあるほうがうれしいよ。いいとも、おいで。だが、ここまでといったら、わたしだけをいかせて、あなたがたはそこにとどまると約束してもらいたいのだ」と言ったのです。アスランは苦しみにうなだれているようでした。「おからだがわるいのですか?アスラン」とスーザンが尋ねると、「ちがう。悲しくてさびしいのだよ。あなたがたの手を、たてがみにのせておくれ。そうすればわたしは、あなたがたがそばにいることがわかる。そうしていこう」と言いました。このあたりは、イエス・キリストが捕えられ、十字架につけられる直前に、「ゲッセマネの園」という所で、悲しみにもだえ、弟子たちの支えを求めた、という場面を彷彿とさせます。
 やがて石舞台の近くに来ると、アスランは子どもたちに別れを告げ、一人で上っていきます。石舞台には、魔女と、その手下の化け物たちが勢ぞろいしていました。魔女はアスランの姿を見ると、「おろか者め!おろか者がきたわ!あいつをきりきり、しばりあげよ」と命じます。アスランは黙ってされるままに縛られ、石舞台の上に乗せられました。化け物たちは縛られたアスランをからかい、あざけりました。魔女は石でできたナイフをふりかざし、こう言いました。「さて、勝ったのは、だれじゃ?おろか者め、こんなことで、裏切り者の人間がすくえると思ったのか?では約束どおり、あの子のかわりに、きさまを殺してやろう。それでこそ、むかしからの魔法がかなうというものよ。だがきさまが死んでしまえば、わらわがあの子を殺すじゃまのできる者があろうか?わらわの手から、助けだせる者があろうか?きさまはいのちをうしない、あの者を助けることもできずに、このナルニアを常永久(とことわ)に、わらわにゆだねたことが、わかったか?かくこころえた上で、あきらめて、死ね」そして魔女はアスランを刺し殺したのです。 アスランが魔女との会談で申し出たことは、自分がエドマンドの身代わりになって、石舞台の上で死ぬということだったのです。魔女はアスランの命と引き換えに、エドマンドの命を要求することをやめたのです。このことが、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを表わしていることは、私たちには明らかです。罪のゆえに死ななければならないはずの私たちが赦されて救われるために、神様の独り子が身代わりになって死んで下さったのです。この、キリスト教信仰の根本、かなめが、ここに描き出されています。石舞台は、罪人が罪のゆえに殺されるべき所でした。本来ならエドマンドがそこで殺されなければならなかったのです。それは、十字架の持つ意味を教えています。本来私たちが、十字架にかけられ、罪人として死ななければならないのです。しかし神の独り子イエス・キリストが、その苦しみと死を、私たちに代わって引き受けて下さったのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされているのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマの信徒への手紙第五章八〜十節)。
 アスランを殺した魔女たちは、勝ち誇って、今度はピーターたちを皆殺しにするために下っていきました。アスランさえ死んでしまえば、魔女が子どもたちを打ち破るのはやさしいことです。アスランの死は、魔女が言っているように、魔女の勝利、アスランの敗北を意味しているとしか思えないのです。主イエスの十字架の死は、たとえそれが罪の贖いのための死であったことを信じるとしても、それだけでは、罪の力の勝利、神の敗北を意味することになるのです。さてこのあとどうなるのでしょうか。
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