富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第58回

7.「さいごの戦い」(11)

 牧師 藤掛順一


 さて七人のナルニアの友たち(ディゴリー、ポリー、ピーター、エドマンド、ルーシィ、ユースチス、ジル)とチリアンは、明るい野原に立っていました。青空が頭上にひろがり、すがすがしい風が吹いていました。狭いうまやの戸口をくぐって中に入ったはずなのに、そのような世界が広がっていたのです。
 その野原の真中に、一つの木の戸口がありました。戸の周りに枠があるだけで、壁も屋根もない奇妙なものでした。その戸口こそ、うまやの戸であり、チリアンたちはたった今そこから入って来たのでした。戸の板の隙間から覗いてみると、暗がりのなかに消えかかった焚き火が見え、カロールメン人たちが動き回っているのが見えました。戸口の周囲をぐるりと周ることができるのに、戸を開けた向こうには別の世界があるのです。
 「これはまるで」とチリアンがじぶんでもにこにこ笑いながらいいました。「うちがわから見たうまやと、そとがわから見たうまやと、ふたつはまるでちがった場所のようですね。」「そうだとも。」とディゴリー卿がいいました。「うちがわは、そとがわより大きいものだ。」
 ディゴリー卿のこの言葉は、「さいごの戦い」の、そしてルイスの世界観の根本に関わる大事な発言です。これはプラトンの哲学に基づくことなのですが、それについては後にもっとはっきり語られているところがありますのでそちらに譲るとして、ここでは、これに続くルーシィの言葉に注目しましょう。
 「そのとおりですわ」とルーシィ女王がいいました。「わたしたちの世界でも、むかしあるものがはいっていたうまやがありましたが、そこは全世界より大きかったのですよ」
 「あるものがはいっていたうまや」、それは聖書を知っている者には明らかに、主イエスがお生まれになったベツレヘムの馬小屋です。「あるもの」とは主イエス・キリストに他ならないのです。その馬小屋は、全世界より大きかった。全世界の造り主である神の独り子にして、全世界の救い主であられる方が、一人の幼な子として生まれ、飼葉桶の中に寝かされていたその馬小屋には、全世界の救いと希望が秘められていたのです。ルーシィのこの言葉は、わかる人にはわかる、主イエス・キリストへの信仰告白です。ルイスにおいてはこのように、プラトンの哲学とキリスト教信仰とが結合しているのです。またここには、この物語において「うまや」が重要な役割を果し、その戸口をくぐることに大事な意味が与えられていることの理由が示されています。さいごの戦いの最中、何とかうまやに入らないですむことはできないだろうかと震えながら言うジルに、一角獣のたから石が、「あれは、わたしたちにとっては、アスランの国への戸口かもしれません。」と言いました。うまやの中に追い込まれることは、彼らには恐ろしい死を意味していました。しかしそのうまやが「アスランの国への戸口」となった。そのことは、主イエス・キリストがうまやの中に生まれて下さったことによって実現したのです。ルイスはこの物語でそのことを象徴的に描いているのです。
 さて、ピーターたちがここに来たいきさつはこうでした。彼らは、ユースチスとジルと落ち合うために、駅で列車を待っていたのです。彼らの乗った列車が入ってきた時、大きな衝撃があり、気がつくと彼らはここに来ていました。しばらくするとあの戸口から、カロールメンの兵士が入ってきて、剣を抜いて戸口の傍らに立ちました。彼にいくら話し掛けても聞こえない様子です。彼は自分が暗いうまやの中にいると思っているのです。そして、あらかじめ言われていた者以外が戸口から入ってきたら切り殺すことを命じられていたのです。そのうちに戸が開き、ハジカミが入ってきました。すると突然タシが現われ、ハジカミを捕まえようとしたので、ハジカミは猛烈な勢いで逃げ出しました。ハジカミを捕まえ損なうとタシは消えうせました。次に、若いカロールメン人、つまりエメースが入ってきて、あの兵士と戦いになり、エメースは彼を殺して戸の外に放り出しました。彼はピーターたちを見ることができましたが、「タシよ、タシよ、タシはどこだ?タシのみもとにいくんだ」とうわごとのように言いながら歩いていってしまいました。次に戸があくと、ヨコシマが投げ込まれました。するとまたタシが現われ、毛ザルをひと飲みにしました。それからユースチスが、次に一団の小人たちが、それからジルがきました。彼らはカロールメン兵とのさいごの戦いで捕えられ、うまやに投げ込まれたのです。そして最後にチリアンがリシダと共に入ってきたのです。これが、戸口の内側から見た一部始終でした。
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