富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第50回

7.「さいごの戦い」(3)

 牧師 藤掛順一


 更にヨコシマは、これからナルニア人で労働のできる者たち(馬、牛、ロバ…)はカロールメン国に送られてそこで働くことになる。その賃金はアスランの(つまり自分の)財産となり、アスランが(自分が)みんなのためにそれを使うと宣言します。ヨコシマは既にそういう相談をカロールメン国とつけており、それゆえに多くのカロールメン人がここに来ているのです。
 これを聞いた時、幼い小ヒツジが声をあげました。「おねがいします。」と小ヒツジはいいました。「ぼくにはわかりません。ぼくたち、カロールメンとどんなつながりがあるんですか?ぼくたちは、アスランのものです。カロールメンはタシのものです。あの人たちには、タシって神さまがあるんでしょ?その神さまには、四本の手があって、ハゲタカの顔をしてるんだっていってますよ。その神さまの祭壇にそなえて、人を殺すんですって。ぼくはタシみたいな神がいるとは信じません。でもかりにいるとしても、どうしてアスランは、そんな神と友だちになれるんですか?」
 ナルニアのあるじアスランと、カロールメンのあるじタシとは、全く別の神です。自分の命を捨ててナルニアを救ったアスランと、祭壇に人を犠牲として捧げさせるタシとは、全く相容れない存在なのです。だからアスランがタシの国カロールメンと手を握るなんてあり得ない、これは、事柄の本質をついた鋭い問いです。前回、一神教が狂信に陥る構造ということを述べました。「主人もちのライオンではない」ということが、「だからどんなことを新しく命じられるかわからない」となり、それが「どんなひどいことでも従わなければならない」ということにつながってしまう時に、それは狂信になるのです。そうならないために必要なことは、主人もちでない、自由な方である唯一人の神が、どのような方であるかをきちんとわきまえていることです。アスランがどのような方であるかをきちんとわきまえている者は、この小ヒツジのように、「これはおかしい」と感じ取ることができるのです。
 ところがヨコシマはこれに対して、まことに重大な発言をします。
「ばかなメーメー小僧め!おっかあのところへ帰って、おっぱいでものんでろ。いったいおまえに、そんなことがわかるか?だが、ほかの者は、耳をすましてよくきけ。タシとは、アスランの別の名前だぞ。おれたちの方がただしくて、カロールメン人たちの方がまちがっているというむかしからの考えかたは、みんなたわけだぞ。おれたちは、いまやもっとよく知ってるんだ。カロールメン人たちはちがうことばを使っているが、おれたちはみな、おんなじことをいってるんだ。タシとアスランは、おまえたちの知っているひとりのかたの、二つのちがう名前だというだけのことよ。だからして、その二つのあいだに、けんかがおこったためしがないわけよ。いいか、しっかりと頭におさめておけ、大ばかのけだものども。タシはアスラン、アスランはタシだ。」
 タシとアスランは同じ神の別の名前に過ぎない、同じ神が、ナルニアではアスランと呼ばれ、カロールメンではタシと呼ばれているのだ、というのです。これを言い直せばこういうことです。「いろいろな宗教が様々な別の神々を信じているが、それらは結局は一つの存在の別の名なのだ。諸宗教の違いは登る道の違いであって、頂上は一つ。結局のところ神は一つなのだ」。そしてこういう考え方は、まことに合理的に思えるのです。「おれたちの方がただしくて、カロールメン人たちの方がまちがっているというむかしからの考えかたは、みんなたわけだぞ」。それは私たちにあてはめて言えば、キリスト教だけが正しくて、仏教やイスラム教は間違っているなんていうのは、キリスト教の傲慢ではないか、ということです。そんなことは昔の無知な時代の考え方だ。二一世紀にもなった今、「おれたちは、いまやもっとよく知ってるんだ」。キリスト教も仏教もイスラム教も、同じ真理を違う仕方で語っているに過ぎないのだ…。そう言われれば、なるほどそうかもしれない、と思ってしまう。これがヨコシマの論理なのです。
 この主張は先ほどの小ヒツジの問いに対する反論です。つまり、「なるほどアスランとタシは、表面的に見ると正反対の相容れない存在のように見える、しかしそういう表面に現れた相違にこだわっていてはいけない。そういう具体的なことにこだわると、両者の間に争いや戦いが起こるのだ。具体的な違いは捨てて、神の本質を究めれば、両者は一つなのだ」ということです。このように、神からアスランとかタシとか、イエス・キリストという具体的な名を剥ぎ取って、抽象的理念における神を信じさせようとしているのがヨコシマです。そうするときに、あの小ヒツジが見つめている、アスランの具体的な恵みや愛が見失われるのです。そして、抽象的な神の具体的な教えを語っていると称するある者の言いなりになっていくのです。神が抽象的になればなる程、人間の勝手な思いが具体的な支配を握るのです。小ヒツジとヨコシマのやりとりには、このような含蓄があります。
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