富山鹿島町教会

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「キリスト教とは何か」→第二章

キリスト教とは何か

第一章

牧師 藤掛 順一


(この文章は、当教会の藤掛牧師が執筆し、1989年に、全国連合長老会の「伝道パンフレット1」として出版されたものです。現在は品切れとなっており、再版の予定はありません。全国連合長老会出版委員会の承認を得て、ここに転載します)

はじめに
 このパンフレットを手にされたあなたは、今日生まれて初めて教会にいらっしゃった方かもしれません。あるいは、まだ一度も教会に行ったことはないけれども、クリスチャンである知人から、このパンフレットをもらわれたのかもしれません。すでにしばらく教会に通っているという方もおられるでしょう。いろいろな方々がおられると思いますが、このパンフレットは、未知の世界に足を踏み入れる勇気と興味をもって教会の門をくぐったあなたと共に、「キリスト教」というひとつの大きな家の中をいろいろと見てまわる、そんなつもりで書きました。「キリスト教」というこの家は、すでに約二千年の歴史を持っています。そこには様々な部屋があり、入口も一つではありませんから、とても全部を見てまわることはできません。けれども、この家の中には、私達にとってすばらしい発見があります。喜びに溢れる人生への秘訣があります。そのすばらしい発見を求めて、「未知との遭遇」の冒険を共にするようなつもりで、ご同行いただきたいと思います。

1.「キリスト教」という家に入ってみよう

まずは外からながめてみよう
 「キリスト教」というこの家の外観からまず見てみましょう。「信者の数」という点から見るならば、キリスト教は世界最大の宗教です。一九八四年の統計によれば、世界の人口四十七億六千万人のうち、キリスト教徒の数は十億六千万人で、約二二%です。ちなみに第二位はイスラム教で五億五千万人、第三位はヒンドゥー教の四億六千万人、仏教は第四位で二億五千万人です。ですから、世界の人々の五人に一人はキリスト教徒なのです。
 それでは日本においてはどうかというと、キリスト教系の信者は百十六万人、神道系が九千五百五十万人、仏教系が八千二百七十万人、その他が千七十万人です。これらの数字を足すと、一億九千万人にのぼり、日本の人口一億二千万人をはるかに上回ります。これは、日本人は一人でいくつもの宗教を信じている(つもりでいる)からで、ここに、日本人の宗教意識の特徴があります。それはともかく、日本においては、キリスト教徒は人口の約一%となっているわけです。
 さて、一口に「キリスト教」といっても、その中にいくつかの流れがあることをご存じでしょう。これを「教派」と言います。それは大きく分けるならば三つです。つまり、「キリスト教」という大きな家は、三つの棟から成り立っていると言ってよいのです。その第一棟は「ローマ・カトリック教会」です。ローマ教皇を頂点とした、全世界的な組織を持つ教会です。第二棟は「プロテスタント教会」です。一六世紀に、マルティン・ルターらによって行われた「宗教改革」によって、ローマ・カトリック教会から分かれた流れです。私達の教会は、この「プロテスタント」の流れです。この、第一棟と第二棟を合わせて、「西方教会」と呼ぶこともあります。ヨーロッパの西側を中心として歩んできた教会だからです。それに対して、第三の棟は「東方正教会」です。「ギリシャ正教、ロシア正教」とも呼ばれます。東京のお茶の水にある「ニコライ堂」が有名です。この教会は、ヨーロッパの東方、ギリシャや小アジア(現在のトルコ)地方で育ち、後にはロシア、東欧に広まっていったキリスト教です。この三つの流れに分けて人口を調べてみると、世界全体では、カトリックが六億三千万人、プロテスタントが三億七千万人、東方正教会が六千万人となっています。日本では、カトリック三十九万人、プロテスタント七十万人、東方正教会九千人となっています。世界全体ではカトリックの方が多数ですが、日本ではプロテスタントの方が多数なのです。
 以上が、統計から見たキリスト教です。私達は、キリスト教という世界一大きな家の、プロテスタント教会という棟の一つの入口の前に今立っているのです。いよいよ、そのドアを開けて、中に入ってみましょう。

入口は「教会」
 キリスト教という大きな家の中を探検するためには、その中に入ってみなければなりません。この家のことを知るための方法として、キリスト教についてのいろいろな解説書を読んだり、「キリスト教思想」や「キリスト教文学」にふれたりということもあり得ますが、それらは結局、この家を外から眺めることにしかなりません。外からよく観察することも大事ですが、本当のところは、その家の中に入ってみなければわからないものです。そのための入口はどこにあるのでしょうか。それは、あなたの身近にある、あなたがこのパンフレットを手にするきっかけとなったひとつの「キリスト教会」なのです。その教会の門をくぐってみることから、あなたの、未知の世界への冒険が始まるのです。このパンフレットは、そのような冒険を始めたあなたに、キリスト教という大きな家の中を駆け足でご紹介する、というつもりで書かれています。ですから、自分の家でこのパンフレットを読んだだけでは不十分です。それでは、観光地の案内を読むだけで実際にそこに行かないのと同じです。ぜひ、このパンフレットを手に持って、教会の門をくぐり、「教会生活」を始めていただきたいのです。

いろいろな教会がある
 ひとつの教会の門をくぐることによって、「教会生活」が始まるのですが、「はじめに」において申しましたように、キリスト教という家に入るための入口は一つではありません。この家にはいくつかの棟(教派)があり、それぞれに入口があるのです。家全体は一つでも、どの棟の入口から入るかによって、ずい分中の感じが違っています。カトリックや東方正教会とプロテスタント教会とでは、かなり感じが違いますし、プロテスタントの中にも沢山の教派があります。その中で、このパンフレットを作っている私達の教会は、「長老派」という流れに属しています。この流れは、宗教改革者カルヴァン(一五○九〜六四、フランス人、主にスイスのジュネーヴで活躍)の伝統に立つためい、「カルヴァン派」と呼ばれることもありますし、その教理的な特徴においては「改革派」とも呼ばれています。各教派の特徴、違いについては、ここで述べるいとまはありません。然しとにかく、みなさんは、私達の教会の門をくぐることによって、プロテスタント教会という棟の、長老派、改革派(それを合わせて「改革長老教会」とも言います)という入口から、「キリスト教」という大きな家に入ることになるのです。このパンフレットは、「改革長老教会」という伝統に立って、そこから「キリスト教とは何か」を見つめようとしているものだ、ということを知っておいていただきたいと思います。
 キリスト教がそのように多くの教派に分かれていることについて、「同じキリスト教なのにどうして一つになれないのか」と疑問を持つ人もいると思います。確かに、沢山の「教派」に分かれてしまっていることは悲しい現実です。然し、私達はこの「教派」の存在を、必ずしも悲観的にのみ見る必要はないと思っています。何故なら、いろいろな教派があるということは、「ただ一つこれだけが正しい」という教会はない、ということです。教会は、神様によって集められたものですが、同時に人間の集団でもあります。人間の集団には誤りもあり、不十分な点もあります。ですから、いろいろな違いをもった教派が、互いに刺激し合いながら、切磋琢磨しながら歩むということによってこそ、神様の真理に近づいていくことができるのではないでしょうか。もしも、「我々は教派抜きのキリスト教だ」などと主張する人々がいたら、それは、「我々こそが、正しい、偏りのないキリスト教だ」ということですから、それはむしろ大変危険な、また傲慢なことだと言わなければならないでしょう。また、いろいろな教派があることによって、それだけ広くいろいろな人々が、イエス・キリストの救いにあずかることが出来ているということもあります。「教派」の存在は、人間の罪、理解の不十分によるという面もありますが、同時にそこに、神様の恵みの豊かさもある、と言うことができるのです。そして大事なことは、私達は、どこかの教派の教会を通してしか、「キリスト教」という家に入ることはできないということです。偏りのない、完全無欠な入口がどこかにある訳ではないのです。不完全な、それぞれに様々な特徴をもったいくつかの入口のどれかを通らなければ、この家に入ることはできないのです。そしてどんなに不完全な入口であっても、そこをくぐって入るこの家は、同じ一つの家です。中の感じはいろいろに違っているでしょうが、そこで私達が与えられる、イエス・キリストによる救いの恵みは同じものです。ですから私達は、「改革長老教会」の伝統に立って歩んでいますが、それ以外の他の伝統、プロテスタントの中の他の様々な教派、そしてさらには、カトリック、東方正教会などを、「あれは別の家だ。こちらの家こそが本物のキリスト教だ」とは考えていません。私達は皆、キリスト教という、同じ、一つの、大きな家に、共に属しているのです。

「キリスト教とは何か」→第二章