富山鹿島町教会

礼拝説教

「神のものは神に」
ヨシュア記 7章1〜26節
使徒言行録 5章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は11月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。先月は、ヨシュア記の6章でした。ヨルダン川を渡り、約束の地に入ったイスラエルは、巨大な城壁に囲まれたエリコの町を占領します。それは、イスラエルが強大だったからではなく、神様の不思議な業によるものでした。神様が告げたとおりに、一日一回、契約の箱を担ぎ、角笛を吹き鳴らして、エリコの町の周りを兵士たちが一周します。これを六日間続けました。そして、七日目には七周、エリコの町の周りを回り、七周目に鬨の声をあげると、エリコの巨大な城壁が崩れ、イスラエルはそこから突入してエリコの町を占領しました。この時神様はヨシュアを通して、エリコの町のものを欲しがるな、すべて滅ぼし尽くせと言われました。金・銀・銅器・鉄器は主の宝物倉に納め、それ以外のものはすべて焼き払うようにと命じられた。それは、エリコの町は神様が取られたもの、神様のものだから、すべて神様にささげよという意味でした。エリコの町はイスラエルの手に落ちました。
 しかし、その時問題が起きていました。神様のものを神様のものとしない者がいたのです。それがアカンでした。7章1節は「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」と告げます。このアカンの罪に激しく憤られた神様は、次のアイの町との戦いにおいて、イスラエルに勝利をお与えにならなかったのです。

2.慢心
 エリコの戦いに勝利したイスラエルの人々は、気分が高揚していたことでしょう。あの難攻不落のエリコでさえ滅ぼすことができた自分たちに、最早まともに立ちはだかることができる者などはいない。そんな気分ではなかったかと思います。しかし、エリコにおける勝利は、どう見てもイスラエルの軍事力による勝利ではありません。神様の不思議な業によってもたらされたものでした。しかし、イスラエルはその事を分かっておりながら、そうは思わない心が芽生えていました。神の勝利をどこかで自分の勝利と思い違いしたのです。これはしばしば私共にも起きることです。神様が自分たちを用いてくださったに過ぎないのに、自分は大した者だとうぬぼれる、調子に乗るのです。
 ヨシュアは、エリコで勝利するとすぐに、アイの町を探らせます。アイの町から戻って来た者はヨシュアにこう進言しました。3節「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」アイに対して「全軍が出撃するにはおよばない」「取るに足らない相手だ」と言うのです。ここにイスラエルの慢心が現れています。残念なことにヨシュアはこの進言を受け入れてしまいます。ヨシュアもまた慢心の罠に取り込まれてしまっていたのでしょう。イスラエルは三千の兵をもってアイを攻めます。結果は敗北でした。36人のイスラエル兵が殺され、イスラエルは敗走しました。
 ここで、イスラエルとヨシュアの慢心を敗北の原因に挙げることができるでしょう。そもそも、アイを攻めるに当たって、ヨシュアは神様に伺いを立てていません。エリコを攻める時には、神様の言葉が与えられ、それに従うことによって勝利したのです。しかし、アイを攻める時には、どうすれば良いのかを神様に伺うこともしていません。このアイを攻める戦いは、主の戦いではなくて、イスラエルの戦いになってしまった。その結果は敗北でした。神の民の戦いは、神様が戦われるのです。神の民はそれに用いられるだけです。これを忘れてしまえば、神の民は決して勝利することはできません。

3.愚痴、しかし神様の御前で
 ヨシュアは、この敗北に意気消沈してしまいます。7〜8節「ヨシュアは神に言った。『ああ、我が神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。』」ヨシュアの言葉は、情けないほどに弱り果てた心を表しています。まるで、出エジプトの旅の途中での、イスラエルの民のつぶやきと同じです。強くもなければ、雄々しくもありません。神様に愚痴を言っているだけです。こういう所を読みますと、あのヨシュアでさえ失敗すればこんな風になるのか、と少しほっとするところがないではありません。私共も、うまく事が運ばずに、この時のヨシュアのように、「神様は何をしろというのか。もうダメだ。やってられない。」そう神様に言うしかない時があるでしょう。
 それでも、やっぱり私は、ヨシュアは大した者だと思うのです。敗北という、受け入れ難い現実を前に、彼は神様の前を離れないからです。「何が神様だ。何もしてくれないじゃないか。そんな神は必要ない。」とは言わないのです。これが聖書の信仰です。どんな時も神様を離れないのです。ヨシュアは愚痴をこぼします。しかし、神様の御前において、神様に対して、です。確かに、アイを攻める前に、神様の御心を問うべきだったでしょう。しかし、失敗した後でも良い。神様に愚痴っても良い。神様の前を離れないで、「どうして?」「なんで?」そう問うたら良いのです。これが聖書の信仰なのです。
 しかも、ヨシュアはこの時も、なお神様が事を起こしてくださることを信じています。だから、こう言うのです。9節「カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」「何をしてくださるのですか」です。神様が何かをしてくださる。それが何なのか、ヨシュアには分かりません。しかし、何かしてくださるはずだ。そう信じている。何故なら、そうでなければ、モーセを立ててエジプトから40年の旅をして来たのは、何の意味もなくなってしまうからです。そんなことは神様はなさらない。ヨシュアは神の真実を信じ、神の力を信じるのです。
 それは私共とて同じことです。信仰の挫折で終わってしまうのならば、信仰の歩みが終わってしまうのならば、イエス様の十字架は、復活は、今までの数々の神様の救いの御業の歴史は、意味の無いものになってしまうではないか。そんなことはあり得ません。神様はそんなことは決してなさらない。だから、何かしてくださる。何かが起きる。私共はそのことを信じて良いのです。

4.アカンの罪
 神様は、ヨシュアに意外なことを告げます。ヨシュアが知らなかったことです。10〜12節「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」あのエリコでの勝利の際に、滅ぼし尽くすべきものを、神様にささげなければならないものを、自分のものにしてしまった者がいる。それ故、神様はイスラエルと共におられず、敵に負けたのだ。神のものを自分のものにしてしまったが故に、滅ぼし尽くすべきものを自分のものにしてしまったが故に、イスラエルが滅ぼし尽くすべきものになってしまったと告げられたのです。ヨシュアは身に覚えが全くありません。調べてみると、ユダ族のアカンが、分捕り物の中からシンアルの上着、銀二百シェケル(2,320g)、金五十シェケル(580g)を取って、自分の天幕の下に埋めていることが分かりました。「アカンがアカンかった」わけです。
 21節、ここでアカンが、「見て、欲しくなって取りました。」と言っておりますが、これは創世記3章において、アダムとエバが、神様から決して食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまった時、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」と記されていることを思い起こさせます。アカンもアダムもエバも、いけないことは分かっている。でも、見たら欲しくなってしまった。そして、誘惑に負けてしまったのです。アカンとその家族は、石を投げつけられて殺され、全財産は火で焼かれ、アコルの谷に捨てられ、そこに石塚が積まれました。

5.罪と罰
 この記事を読んで、何もそこまでしなくても、と思われる方も多いでしょう。上着一枚と銀2kgと金600g、そんな大したものではない。確かに、現代の感覚で言えば、決して死刑に当たるような罪ではないでしょう。しかし、ここに記されていることは、そういうことではないのです。このくらいならいいではないか。これはちょっとやり過ぎだ。そういう話ではないのです。ここでアカンが取ったものが、もし銀100gだけだったならばよかったのか。見逃してもらえたのか。そういう話ではないのです。
 聖書というものは、私共が「おや?」とか「なんだこれは?」と思うような所においてこそ、神の真実を私共に教えるものです。私共がこの記事を読んで、何故神様はそこまでするのだろうかと思う。そこまでしなくても良いではないかと思う。それは、神様の真実と私共の感覚がずれているからでしょう。私共は、罪と言えば、法律に違反するようなことをイメージする。そうすると、当然、重い罪・軽い罪という区別を想定します。重い罪には重い罰、軽い罪には軽い罰。それが私共の常識です。罪と罰との関係はそういうものです。それが私共の常識です。しかし、神様はこの私共の常識の中にはおられません。
 そもそも、人間は神様に似せて造られ、本来はなはだ良い者でありました。しかし、先ほども見ました創世記3章において、アダムとエバが、神様に食べてはいけないと言われた木の実を食べた。それだけのことでエデンの園を追われ、そして人間はその罰として死ぬ者となってしまった、と聖書は告げているわけです。木の実を食べただけで、たったそれだけのことで死ななければならない。これは私共の常識ではあり得ないでしょう。実に、罪とは、どんな小さなものであっても、本来死に値するものなのです。人はだれでも罪を犯すではないか。そのとおりです。だから、人は必ず死ぬのです。死とは、私共の罪に対する裁きなのです。
 では、聖書が告げる罪とは何なのでしょうか。法律に違反しているかどうかということではないことは明らかです。聖書が告げる罪とは、要するに、神様がしてはいけないと言われたことをしてしまうことです。それは、神様との信頼関係を壊すことであり、神様の愛を裏切ることだからです。神様が人間を造られた、その創造の意思を台無しにしてしまうからです。アダムとエバもそうでした。アカンもそうです。神様がしてはいけないと言われることをしてしまいました。この神様がいけないと言われたことの代表が十戒です。第六戒以降は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな」ですが、これは社会的にも罪と見なされることです。これとて、完全に守れる人はいません。まして、第一戒から第五戒までの「神以外の何ものをも神としない、刻んだ像を作らない、主の名をみだりに唱えない、安息日を聖とする、父と母を敬う」は神様との関係における罪です。心で犯す罪です。これを完全に守っている人なんて一人もいません。だから、私共は皆、死ななければならないのです。
これが罪と罰との関係です。聖なる神様から見れば、どんな些細な罪であっても、それは死罪に当たるということです。それが聖書の語る罪です。しかし、このことは神様の御前に出なければ分かりません。この世の常識とは全く違うからです。そして、この罪が自分にもあることが明らかにされる場、それがこの礼拝の場です。この礼拝の場、神様の御前においてはだれも、自分は正しい人です、善い人ですと言うことはできません。完全に聖なる神様の目から見れば、自分はただの罪人であることを認めざるを得ません。だから、「主よ、憐れんでください。」と言うしかない。これが神様と私共の関係です。こういうことばっかり言っていますと、「そんな神様なら要らない。」「神様なんて嫌い。」と言われそうですが、ここがとても大切な所です。  何故ならここに、イエス様が来られ、十字架にお架かりになった理由があるからです。私共の罪が、私共の常識で考えられているようなものなら、私共の多くは罪人ではありません。ですから、私のために身代わりとなって誰かが裁かれる必要なんてないのです。まして、身代わりに死ぬ必要なんて全くありません。しかし、そうではなかった。私共の罪は死に値する。それが神様の御前における私共の本当の姿です。けれど、神様は、私共が罪の値である死をもって滅びることを良しとされなかった。愛してくださっているからです。だから、罪なき神の独り子イエス様を人間として世に送り、私共が受けなければならない死の裁きを、十字架の死をもってイエス様に負わせられたのです。そのことによって、神様と私共との関係を回復し、私共を我が子として迎え入れる道を拓いてくださったのです。私共の罪が死に値するものでなければ、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになる必要はなかったのです。

6.アカンは私
実に、アカンは欲に目がくらみ、死ななければなりませんでした。このアカンに対して、「かわいそうに。こんなにまでされなくてもいいだろうに。」と思う人は、このアカンの死は、自分とは関係ない、遠い人だと思っているからでしょう。しかし、聖書は、このアカンこそ私共なのだと告げているのです。自分の欲に目がくらみ、神様のものを自分のものにしてしまい、神様の信頼を裏切り、愛の交わりを壊してしまっている者、それが私共なのです。そのことが分かれば、アカンの話は、「可愛そう」などと同情していられる呑気な話ではない。神様がアカンに対して為されたことに対して、私共は慄然とするしかありません。
 私共は自分の力、自分の能力、自分の努力で生きていると思っています。勿論、神様に与えられている賜物を十分に発揮するために努力することは大切ですし、美しいことです。しかし、忘れてはなりません。私共が持っていると思っているもの、自分のものだと思っているものは、皆、神様が与えてくださったものです。ですから、私共はその与えられているすべてを用いて、神様の栄光を現していくのです。神様の道具として、神様の御心に仕え、その御心に従っていくのです。それが私共に与えられている人生の意味です。
 神様に造られた私共には、神様の創造の意図がある。その意図とは、神様を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えることです。その創造の意図に沿って生きることができるように、神様は、愛する独り子を私共に与えてくださり、その十字架の死をもって私共が神の子、神の僕として生きる道を開いてくださったのです。
 この新しい命の道は、肉体の死では終わりません。イエス様が復活されたからです。私共も復活します。本来、アカンと同じようにアコルの谷、災いの谷に捨てられるはずであった私共に、天の御国への道が開かれたのです。イエス様が私共の身代わりとなられたからです。まことにありがたいことです。
 ですから、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神を愛し、隣り人を愛する者として、この一週もまた、御国への道を歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2019年11月24日]

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