富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ注がれる祝福」
詩編 121編1〜2節
マタイによる福音書 19章13〜22節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今、私共は幼子たちが祝福される場面に立ち会い、共に祈りをささげました。今朝与えられております御言葉は、そこで読まれた聖書の箇所と重なります。子供たちの祝福において読まれましたのはマルコによる福音書からでしたが、私共に今朝与えられておりますのは、それと同じ記事を記したマタイによる福音書の箇所です。そうなるように意図したわけではありません。順番に御言葉を受けていく中でそうなったのです。神様の導きの中でこのようになったことを嬉しく思います。
 先週私共は、結婚というものが神様の業であることを御言葉から教えられました。そして、それに続く今朝与えられております所で、子供たちがイエス様に祝福されたことが記されています。ここには一つの流れがあります。それは、神様の恵みの御業として結婚があり、その結婚によって子が与えられる。つまり、子が与えられるということもまた、神様の恵みの御業としての出来事であるということです。
 子供は私共が作るのではなくて、与えられるのです。私共は自分に与えられた子が、どんな子なのか分かりません。子が成長して青年になり大人になっていく中で、ああこういう子だったのかと段々分かっていくのです。私共の子供が、もし私共が作ったものであるのなら、生まれた時からこういう子と分かるはずですけれど、私共には分からない。それは、子は神様が与えてくださったものだからです。自分のものではない。神様のものだからです。私共には我が子を健やかに育てていく責任はありますけれど、こういう人に育てる、こういう人間に育つはず、そんなことは言えません。神様のものだからです。
ですから、我が子を育てるに当たっては、私共は祈るしかない。神様の祝福を求めて祈るしかありません。我が子の健やかな成長を願い祈る。これは、キリスト教においてだけ行われていることではありません。いつの時代、どの国においても行われていることです。これは普遍的なことです。子を与えられたすべての親の心にある思いだと言って良いかと思います。

2.天国はこのような者たちのもの
 今朝与えられております御言葉は、13節「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」と始まります。「手を置いて祈っていただくため」とありますが、これは当時、偉い先生がいると、子供の頭に手を置いて祝福を祈ってもらうという習慣がありました。この頭に手を置いて祈るという祈りの形は、キリストの教会に受け継がれました。牧師・長老・執事が任職される時、頭に手を置いて祈ります。これを「按手」と言います。
 多分この時、子供の親たちが、我が子が元気よく無事に育つことを願って、イエス様の所に連れて来たのでしょう。そして、子供の頭にイエス様の手を置いてもらって、祝福してもらおうと思った。とても自然な心の動きだったと思います。この子供たちの親は、イエス様を偉い方だと思った。だから祝福して欲しいと思ったのでしょう。イエス様が神の独り子であるとか、救い主であると信じていたかどうか、それは分かりません。でも、とにかくイエス様は偉い方だ。奇跡もされるし、立派な教えも語られる。この方に祝福してもらえば、我が子もきっと元気に、賢く育つだろう。そんな期待をもって、子供をイエス様の御許に連れて来たのでしょう。
 ところが、イエス様の弟子たちはこの人々を叱ったのです。どうして弟子たちはこの人々を叱ったのでしょうか。弟子たちに悪気はなかったと思います。単純に、イエス様を煩わせたくなかったのでしょう。でも、悪気はなくても、それはイエス様の御心から遠く離れていました。イエス様は子供たちを祝福されました。そして、弟子たちにこう言われたのです。14節「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」ここで重要なのは、イエス様が「天の国はこのような者たちのものである。」と告げられたことです。「このような者」とはどのような者のことなのでしょうか。話の流れからすると、イエス様がこの後で祝福された子供たちのことを指していると考えて良いでしょう。これと同じようなことは18章3節でも言われていました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」この「子供のようになる」とはどういうことなのか。また、「天の国はこのような者たちのものである。」と言われた「子供のような者」とはどういう者なのか。
 18章を説教した時にも申しましたけれど、聖書で「子供のようになる」「子供のような者」と言った時、この「子供のような」には、「純真な、汚れのない、素直な、罪のない、これから成長していく伸びしろがある」といったニュアンスはありません。この時代に「子供」が比喩として用いられる時、それは「何も出来ない、役に立たない」というニュアンスなのです。つまり、イエス様はここで、天の国は「何も出来ない、役に立つこともない」そういう者たちのものなのだと告げられたのです。この時、子供たちは、親たちによってイエス様の許に連れて来られたのであって、自分からすすんで自発的に来たのでもありません。子供たちは、イエス様の祝福に与る、イエス様に救われる、天の国に入れる、それに値すると思われるものを何も持っていなかった。ただ、親に連れられてイエス様の所に祝福を受けに来た。それで良い。いや、それこそが神の国にふさわしい。救われるのにふさわしい。イエス様はそう告げられたということなのです。

3.永遠の命を求める青年
 このイエス様の御心は、16節以下の金持ちの青年との対話において、いよいよはっきりと示されます。イエス様が子供たちの頭に手を置いて祝福し、そこを立ち去りますと、一人の男がイエス様に近寄って来て、こう言いました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」この人は大変見所のある人だ、と私などは思います。「永遠の命を得る」ことを求めている。これを求めること自体、今の日本で出会うことはそうそうありません。しかも、20節を見ると、この人は「青年」であったというのです。私は一昨日、昨日とHG大学のセミナーで奉仕してまいりましたけれど、こういうものを求める若者は一人もおりませんでした。事前に「あなたの大切なものは何ですか。三つ挙げなさい。」というアンケートをとりましたが、「家族」「お金」「友人」この三つで8割方でした。しかも、これは全世代にたいして大規模に行われた日本人の意識調査の結果とあまり変わりありません。全世代に対してのアンケートにおいては「お金」の代わりに「健康」が入っているくらいの違いです。若い学生は、健康ですから「健康」を求めるなんてことは意識されない。そり代わりに「お金」です。これが現代の日本人の考え、求めているものなのです。それに比べれば、「永遠の命を得る」ことを求めるこの青年は大したものだ。私などはそんな風に思ってしまうのです。

4.青年の思い違い
 しかし、残念なことに、この青年は根本的に思い違いをしていました。それは、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」とイエス様に尋ねたわけですが、この問い方の中に、既に根本的な思い違いが表れています。それは、何か善いことをすることによって永遠の命を得ることが出来る、という思い違いです。イエス様は「天の国はこのような者たちのものである。」と言われました。何も出来ない、何の役にも立たない、親に連れられてイエス様の所に来ただけ、そういう者に天の国は開かれている。永遠の命が与えられる。そう告げられました。そのイエス様の御心から見れば、この青年の根本的な思い違いが何であるのか分かるのではないでしょうか。
 この青年とイエス様との対話をもう少し見てみましょう。17節「イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。』」青年は「どんな善いことをすれば」と尋ねたのに対して、イエス様は「善い方はおひとりである。」と答えられた。何か会話が成り立っていないように思われるかもしれません。「善いこと」と「善い人」では、少しずれています。しかし、イエス様は青年の言うことを聞き間違ったのではありません。青年は、自分は「善いこと」が出来ると思っていましたし、その善いことをすることによって、善い人になれると思っていた。そして、その善い人になることによって、永遠の命を得られると思っていたのです。しかし、イエス様は「善い方はひとりだけ。」と言われた。つまり、善い方は神様しかいない。イエス様がここで言われたのは「あなたは善い人にはなれない。あなたは、善いことをして、善い人になって、永遠の命を得られると思っている。しかし、善い人は神様しかおられない。人間は永遠の命に与れるほどに善い人になんてなれない。永遠の命を得るということは、ただ神様の憐れみによって与えられるものだ。」ということでした。このことを青年に知って欲しかったのです。
 この青年の思い違いの根本にあるのは、この世の常識と言っても良いでしょう。「善いことを行い、善い人になって、永遠の命を得る。」まことに当然と思える考え方です。しかし、これはイエス様が私共に与えてくださった救いとは全く違います。これは福音ではありません。もしその道で良いのならば、イエス様は十字架にお架かりになる必要はありませんでした。「みんな頑張って善いことをして、善い人になりましょう。」それで十分です。しかし、それはイエス様が十字架にお架かりになって私共に与えてくださった福音ではありません。福音とは、善き所などない私共が、ただ神様の憐れみによって救われるということです。
 大阪・和歌山・三重で伝道したヘール宣教師兄弟が言われた言葉に、「『善いことはやりましょう。』『悪いことはやめましょう。』私はそんなつまらないことを伝えに来たのではありません。」というものがあります。私はこの言葉が大好きです。善いことをして、善い人になって、救いに与る。それは実につまらないことです。福音ではないからです。

5.持ち物を売り払え
 イエス様は続けて、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と告げます。青年は「どの掟ですか。」と問います。どんな新しい掟があるのかと青年は心躍らせ、耳をそばだてたことでしょう。するとイエス様は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。青年はがっかりしたことでしょう。何か新しい聞いたことのないような掟を示されるのかと思ったら、自分が幼い時から聞いている、当たり前のことばかり。青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と問います。この青年は本当に真面目な人だったのでしょう。幼い頃から聞いていたこの十戒を破ったことなどなかった。しかし、これで本当に永遠の命を得られるのだろうかと思っていた。彼は真面目に生きてきて、財産もあり、この世で生きていく上で必要なものは既にある。でも、何かが足りないと思っていた。この感覚は正しいのです。でも、なお欠けているものが何なのか、それが分からなかったのです。
 21節「イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」何ということをイエス様はこの青年に求めるのでしょう。青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら立ち去りました。しかし、このような求めをされたなら、誰でも立ち去るしかないのではないでしょうか。もし私が洗礼を受ける時にこのような求めをされたなら、きっと「ちょっと待ってください。そんなことを言われても困ります。」そう言ったと思います。イエス様がこう言われたのだからと、これと同じことを教会員に求める牧師はいません。これを同じことを求める人がいたら、それはカルト宗教ということになるでしょう。
 しかしイエス様は、一応言うだけ言っておく、そんなつもりでお語りになったのではないでしょう。富というものが、どれほど私共の目を曇らせてしまうものか、イエス様ははっきり分かっていました。私共もそうなのです。富だけではありません。私は真面目に生きてきた。自分は善い人間だ。そんなプライドもまた、神様の救いに与るには邪魔なものなのです。善い方は神様しかおられません。私共には天の国に入る値打ちなどどこにもない。愚かで、罪に満ちた、身勝手な者です。だから、神様の憐れみに頼るしかないのです。天の国の扉は、こちらから開けようとしても開きません。私はこれだけのことをしました。こんなに真剣に求めてきました。そういうことを山ほど積み上げても天の国の扉は開きません。しかし、ただひと言、「主よ、罪人である私を憐れんでください。」それさえ言えれば、それさえ分かれば、天の国の扉は向こうから開かれるのです。それが福音です。
この青年は善きことを積み上げて、天の国の扉を開けようとしました。そうである限り、これも足りない、あれも足りない。決して負いきれない課題を次々と与えられるだけです。「完全になる」とはそういうことです。この課題をクリアできる人などどこにもいません。しかし、イエス様が私共に求められるのはただ一つ、信仰です。イエス様を愛し、イエス様に従う信仰です。勿論、その信仰とて、「私はこれだけの信仰があります。」などと神様の御前に誇れるようなものではありません。「主よ、憐れんでください。」そう言って神様の御前に額ずくだけです。私共には天の国にふさわしい、永遠の命を受けるのにふさわしい所など何一つありません。それで良いのです。何もいらないのです。ただ、「主よ、憐れんでください。」と主の前に、神様の前に額ずくだけです。

6.永遠の命の価値
 イエス様は、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われました。「あなたは自分が求めているものの本当の価値を知っていますか。あなたの求める永遠の命というものは、あなたの持っている富などと比較出来ないほどに素晴らしいものでしょう。この永遠の命さえ与えられるのならば、他に何がいるというのですか。あなたは何にしがみついているのですか。自分の富ですか。自分の真面目さですか。自分の善き業ですか。そんなものにしがみついていてどうするのですか。本当に大切なのは永遠の命。だったら、それを与えられるのなら、あなたがしがみついているものなど、何も要らないでしょう。」イエス様はこの青年に、そのように問われ、促したのではないかと思います。
 私共は神様の憐れみに与る者として、今朝ここに集っています。永遠の命に与る者として、ここに集っています。この地上の歩みにおいて、私共は様々な課題があります。辛いこともあります。しかし、天の国は私のために開かれています。本当にありがたいことです。この恵みの事実、救いの事実に心を向け、今共々に主をほめたたえたいと思います。

[2019年11月10日]

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