富山鹿島町教会

礼拝説教

「結婚の秘義」
創世記 2章15〜24節
マタイによる福音書 19章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております御言葉、マタイによる福音書19章は「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」と始まります。イエス様はガリラヤを去ってどこに行こうとされているかと言いますと、エルサレムです。21章から、エルサレムでの一週間、受難週の出来事が記されます。イエス様がエルサレムに向けて出発される。それは十字架にお架かりになるためです。イエス様の歩みはいよいよ緊張に満ちたものになっていきます。そして、イエス様を十字架に架けることになるファリサイ派の人々との関係はますます険悪になっていきます。
今朝与えられた御言葉において、イエス様は結婚・離婚・独身ということについて語られました。

2.当時の離婚についての理解
 話の発端はファリサイ派の人々からの、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いでした。聖書は、この問いが「イエスを試そうとして」為されたものであると告げます。というのは、イエス様は5章31〜32節において、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と言われました。原則、離婚は出来ないと言われたわけです。
 しかし、私共の結婚生活というものは現実的に色々な問題がありますし、この「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という律法(申命記24章1節)の解釈にしても多様でした。申命記24章1節を読みますと、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とありますが、この律法の解釈は大きく分けて二つありました。一つは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とは性的不品行・姦淫を意味し、それ以外の理由はダメだというものです。これは厳しく受け止めているわけです。もう一つは、「気に入らなくなったとき」とあるから、夫は妻に気に入らないことがあれば離縁して良いというものです。「妻が自分より早く寝た」「自分より遅く起きた」「料理がまずい」等々何でも良い。これは一番緩い解釈です。
 何とも身勝手ですけれど、結婚についての理解は時代や国によって大きく違いますから、当時の常識からすればこれで問題なしということだったのでしょう。イエス様の時代、女性の権利などというものはほとんど認められていませんでした。何しろ、人数を数える時に女性と子供は数に入れないほどです。裁判の証人にも女性は認められていませんでした。当時、結婚する時には女性の親に結納金と言いますか、牛5頭とかを支払って、もらい受けるわけです。これはつまり、買うということです。ですから、妻は夫の所有物といった感覚なのです。ですから、妻の方から離縁を申し出ることは出来ません。でも、夫からは、どんな理由を付けてでも、離縁状を渡せば離縁出来るわけです。ひどいものだと思います。しかし、解釈の幅があるにせよ、律法の申命記に離縁の手続きが記されている。それなのに、離縁が原則禁止とはどういうことなのか。それはおかしいではないか。矛盾している。そうファリサイ派の人々はイエス様を問い詰めようとしたのです。

3.神の業としての結婚
 それに対してのイエス様の答えは、4〜6節「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」というものでした。イエス様は、どういう場合に離縁出来るかとか言う前に、結婚とは何か、あなたがたはそのことが分かっていない、と言われたのです。ここでイエス様が引用された「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」は創世記2章24節の言葉です。神様がアダムを造り、そのあばら骨でエバを造られた、その場面で記されている言葉です。神様によって男が造られ、男の一部から女が造られた。その神様の人間を造るという創造の業は、男と女がもう一度結ばれることによって一体となって完成する。つまり、結婚とはそういう神様の大いなる恵みの業なのだ、とイエス様は告げられたのです。神様が結び合わされたのだから人が離すことなど出来ないし、そんなことをすれば神様の御心に反することは明らかではないか。そうイエス様は言われたのです。
 ここで、男の一部から女が造られたのだから男の方が優位であるとか、男が先に造られたのだから男の方が優れているとか、女は元々男の助け手として造られたのだから男が主であって、女は男を助ける補助的役割しかないといった聖書の読みは明らかな間違いです。神様は人間を御自分に似た者として造られた。父・子・聖霊なる神様はその内に永遠の愛の交わりを持っておられるのですから、神様に似た者として造られたということは、その愛の交わりを形作る者として人間を造られたということです。それが男と女に人間を創造されたということの意味です。神様はアダムを造り、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)と言って女、エバを造られたわけですが、この「彼に合う助ける者」というのは補助者という意味ではなくて、男にふさわしい、似つかわしい、相対して立つのにちょうど良い、そういう存在として女を造られたということです。つまり女性は男性のヘルパーではなく、パートナーなのです。  これがイエス様によって私共に教えられた結婚の秘義です。結婚は神様の創造の御業の完成としての意味があるわけで、何よりも結婚は神様の業なのです。私共はこのことをしっかり受け止めなければなりません。結婚についての理解の仕方は時代や国によって大きく違うと申しましたが、このイエス様が教えてくださった結婚の秘義、神様の業としての結婚という理解は、キリストの教会において普遍的な教えです。しかし、これが現代の日本において当たり前の理解となっているとは残念ながら言えません。旧来の日本人の結婚についての理解には、当然のこととして神様は介在しませんでした。最近でこそ結婚式を行うようになっていますが、伝統的には披露宴が結婚式でした。親族やご近所に結婚したことを披露する、それが結婚式でした。ですから、最近よく行われるようになっている人前結婚式は、日本人には何の違和感もないのだと思います。日本人にとっては結婚とはどこまでも人の業としてのものなのです。しかし、イエス様はそうではないと告げられました。私共は皆が教会で結婚式をしたのではないでしょう。神様の御前で結婚式を挙げたわけではないかもしれない。しかし、今朝このイエス様の御言葉を聞いた私共は、自分の結婚は神の業であったと受け取り直さなければなりません。

4.罪の現実の中にある結婚
ファリサイ派の人々は、このイエス様の答えを聞いて、だったら、なぜモーセは離縁状を渡して離縁するように命じたのかと問います。これに対してのイエス様の答えは、8節「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と言われました。これはどういうことかと申しますと、創世記の2章に、人間が男と女に造られたことが記されており、そこで「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」と言われているわけですが、その次の3章において、取って食べてはいけないと神様に言われていた木の実を食べてしまう罪を犯してしまうわけです。この罪によって、本来の結婚の姿がゆがめられ、どうしても離縁しなければならないような状況が生まれた。それでモーセは、妻と離縁することを許したのだと言われたのです。
 本来のあり方である、心においても体においても一体となり、麗しい愛の交わりを形作ることが出来なくなってしまった結婚。それが、私共の現実の結婚の姿なのだと言うのです。ファリサイ派の人々の発想は、律法にそう書いてある、だからそのとおり行えば正しい、というものです。離縁するのだって、離縁状さえ渡せば何の問題もない。そういう発想です。しかし、イエス様は、離縁しなければならないというその状況こそ、私共の罪の結果なのだと言うのです。それは本当にそうでしょう。現在、日本の離婚率は35%前後であるという厚生労働省の調査結果があります。三組に一組が離婚しているわけです。その一組一組に様々な事情があり、痛みがある。そして、そこには互いに心を通わせることが出来なくなった現実があるわけです。

5.離婚せざるを得ない現実
 9節でイエス様は、「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」と告げるわけですが、これを、「離婚は絶対にダメだとイエス様が言われた」といって、新しい律法として受け取ってはならないと思います。これは招きなのです。結婚は神の業であり、神様が結び合わせられたものを人は離してはならない、そのような恵みの中に招かれているのだということです。しかし、そうであるにもかかわらず離婚しなければならない現実、罪の現実がある。イエス様はそのこともよく御存知でした。
 私は結婚式を引き受ける時に準備会を必ず行うのですが、その中で離婚しなければならない三つの場合があると言います。それは、暴力、性的不品行(不倫)、経済的責任の放棄です。実際には、もっと色々な場合があるのでしょう。暴力にしても、肉体的なものだけではなくて、モラル・ハラスメントや言葉や行動によるものもあるでしょう。どうしても離婚しなければならない場合があるのです。しかし、そのような状況にならないように、前もって色々なアドバイス、カウンセリングのようなことを行うわけです。勿論、今挙げた三つのことがあったら離婚しなければいけないということではありません。それでも互いに赦し合うことが出来、やり直すことが出来るのなら、それで良いのです。しかし、この三つは、なかなかやり直すことが難しいというのが私共の現実だと思います。離婚などしない方がいいに決まっている。結婚は神の業なのですから。しかし、そうしないでは生きていけない、私共の現実がある。それは罪の現実です。

6.十字架の前に立つ夫婦
 弟子たちはイエス様の言葉を聞いて、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」と言います。弟子たちは、イエス様が告げられた結婚の秘義、神の業として為される祝福に満ちた結婚というものを考えることが出来なかったのでしょう。当時は、親が決めた、会ったこともない女性と結婚するということだって珍しくなかったでしょう。結婚してみなければどんな女性なのかも分からない。それなのに離縁はダメだというのなら、そんな危ない橋は渡れない。それなら結婚しない方がましだ。そう考えたのでしょう。結婚するということがきちんと受け止められていなかった。そういう中で、離婚しても当然だと思われていたのでしょう。
 それに対してイエス様は、11節「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」と言われました。この「恵まれた者」とは、経済的に恵まれた者とか性格や能力において恵まれた者という意味ではありません。このイエス様の言葉を神の言葉として聞くことが出来る者、神様の前に立ち、自分たちの結婚を神の業として受け止めることが出来る者という意味です。神様の前に立つ時、私共は、自らの欠けや罪や過ちに気付かされます。そこにおいて、自分は正しく、相手が間違っている、この自己中心と言いますか、自分の正しさという殻から抜け出すことが出来るし、神様の前に自らの罪の赦しを求めることが出来るわけです。夫婦というものは、毎日一緒にいるわけですから、お互いに相手を傷付けてしまうということが起きます。私共は罪人ですから、必ずそういうことになるのです。自分は夫に対して、妻に対して、傷つけたことがないと言う人がいれば、それはよっぽど鈍感なのか、嘘をついているか、どちらかです。夫婦において、お互いに自分の正しさだけを主張するようなことになれば、一緒に生活していくことは出来ないでしょう。自らの罪を赦してもらい、相手の欠けた所も受け入れていくしかありません。それが私共の結婚生活です。
 イエス様が私共に求められる愛の交わりとは、そういうものです。互いに赦し合うしかない、受け入れ合うしかないのです。そして、それが出来るようにと、イエス様は私共のために十字架にお架かりになってくださった。イエス様は、御自分の十字架をもって私共に告げておられるのです。「互いに赦し合いなさい。受け入れ合いなさい。あなたがいつも正しく、相手がいつも間違っているのではないことを、あなたは分かっているはずだ。わたしの十字架の前に二人で立ちなさい。そうすれば分かるはずだ。」そう告げておられるのです。

7.独身について
 最後に、イエス様は独身について語られました。12節「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」ここで告げられているのは、様々な理由で結婚出来ない者もいるし、天の国のために結婚しない者もいる。それはそれで良いのだ。どのような状況であっても、神様の御前に歩みなさいと告げられたのです。結婚する人は神の御業としてそれを受け止め、それでも離婚しなければならない人は自らの罪を認めて悔い改め、独身の者はそのままでも、つまりどのような状況にあっても共に神様の御前に立って歩むことを求められたのです。

 私共は今から聖餐に与ります。私共が神様の御業の中に生かされている者として歩むことが出来るように、イエス様は十字架にお架かりになってくださいました。このことをしっかり受け止めることが出来るように、イエス様は聖餐を定められたのです。信仰をもってこのパンと杯とを受けることによって、イエス様が私共と一つとなってくださいます。そして、神の国において備えられている愛の交わりをこの地にあって現す者として召し出されていることを心に刻むことが出来るように、そこに向かって歩むことが出来るように励ましてくださいます。私共の形作る交わりがどんなに欠けがあっても、それでも御前において新しくされて歩んでいくことが出来ますよう、心から願い、祈り、求めるものであります。

[2019年11月3日]

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