1.弱り果てた時
今朝、皆さんと一つのことを聖書から聞きたいと思います。それは「どんな時でも生きる力と勇気を与えられる道」です。今、私は「どんな時でも」と申しました。それは「どんな状況の時でも」ということでもあります。そもそも私共は、どんな時に、どんな状況の中で、生きる力と勇気を必要とするのでしょうか。確かに、日々の日常生活の中で、私共はそれほど「生きる力と勇気が必要である」ということを意識することはないかもしれません。しかし、時として私共は、どうしてもこれを必要とする、これがなければダメだ、そう思う時があります。それは、私共が弱り果ててしまった時です。私は牧師になって30年が過ぎました。その間、色々な方から相談を受けたり、祈ってくださいと求められたりしてきました。元気な人は、あまり牧師の所に相談に来たりしません。私のところに相談に来たり、祈ってくれるように求めてくるのは、その人が本当に弱り果ててしまった時です。ちょっと頑張れば何とかなるかな。そんな時はまず牧師の所には来ません。
そのような、人が弱り果てる場合について、私の経験からだいたい二つの局面があると思っています。
第一は、近い、或いは遠い、将来への不安にさいなまれた時です。まだその事は起きていないのですが、それが起きたらどうしようというものです。これは、若い人にとっては、受験に失敗したらどうしよう、就職が上手くいかなかったらどうしよう、恋人に振られてしまったらどうしよう、といったことがあります。成人しますと、仕事や家庭のこと、また子供のことで、上手くいかなかったらどうしよう、といったこともあります。年をとれば、老後の生活について、年金のことや病気になったらどうしよう、といったことがありましょう。これらの場合は、まだ起きていないのですから、それほど深刻ではないことが多いです。しかし、これも馬鹿には出来ません。この不安が大きくなると、何もやる気が失せる、その人から明るい表情が消えていく、そういうことも起きます。
第二は、既に本当に困り果ててしまった状態で、どうすれば良いのか分からない、そういう時です。多いのは、病気や健康のこと、経済的なこと、そして人間関係でのトラブルなどです。人間関係のトラブルは、家庭の中でも起きますし、職場や地域の人との間でも起きます。自分が言ったり、したりしたことに対して、自分は全くそうは思っていないのに、非難されたりすることもあります。良かれと思ってやったことが曲げて受け止められてしまいますと、相当ショックです。もうその人の顔を見ることも出来ない、そんな状態にもなってしまいます。また、病気は自分自身の場合もありますし、家族や愛する者の場合もありましょう。そして、大抵これは突然やって来ます。どうして自分が、どうして自分の愛する者が、こんな病気になるのか。やりきれない。理不尽な現実への怒り、嘆きが心に湧いてきます。そして、経済的な問題。これも大変深刻な状況に私共を追い込むことがあります。そのような状況の中で、犯罪に手を染めてしまうということも起きることがあるのです。
2.心に刻む二つのこと
こうなったらどうしようという不安にさいなまれてしまった場合、或いは既に困り果てた状況になってしまった場合、私共は「生きる力と勇気」が自分の中から萎えていくことを感じるのではないかと思います。そのようなことは私共の人生において無い方が良いに決まっていますけれど、残念ながら、そういう時を全く過ごさないで済む人というのはまずおりません。では、そういう時に、私共はどうすれば良いのか。聖書はその事について、どう言っているでしょうか。実は、そのような状況になってから対処するのではなく、何もない、普通のごく日常の生活を過ごしている時に、その備えをしておかなければならないと教えます。しかしそれは、そのような様々な困難な状況を想定して、一つ一つそれに対しての備えをして日々を生きていくということではありません。中々そんなことはできません。愛する者が病気なることを想定して日々生きる。そんなことはとてもできません。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、私はそれはどうなのかと思っています。そんなことですと、私共は何十本も杖を用意しなければなりません。そして、しまいには杖の重さで自分から転びそうです。聖書は、そういうことではなくて、日々の日常生活において、二つのことをしっかり心に刻んで生きるようにと教えています。それは、第一に「神様が私をそして世界を造られた」ということ。第二に「その神様は私を愛してくださっている」ということ。この二つを心に刻んで生きるということです。
第一の「神様が私をそして世界を造られた」ということですが、これは「私の命、私の人生は、神様の御手の中にある」ということです。私共は、自分の人生を自分でデザインして、何でも自分で決めて生きているし、生きていけると勘違いしているところがあります。しかし、私共がこの時代の、この国の、この両親の元で生まれたことも、男や女に生まれたことも、背が高かったり低かったりすることも、みんな自分で決めたことではありません。生まれてきたらそうだったということでしょう。私共の命も人生も、実に神様がデザインされたものなのです。そして、神様は私共を造られただけではなくて、私共を守り、養い、導いてくださっています。私共は神様の御手の中で生かされているのです。
第二の「その神様は私を愛してくださっている」ということですが、これは私共の人生をデザインされた神様は、私共一人一人を、私共の思いを越えるほどの深い、大きな愛をもって導いてくださっているということです。
3.神のデザイン
私共が不安になったり、困窮した状況の中で途方に暮れてしまい、生きる力と勇気を失ってしまう時、私共はこの二つのことを大抵忘れてしまっています。私は牧師ですから、病気のことを相談されても医者ではないのでよく分かりません。人間関係のトラブルでも、このような場合はこうしなさいと言えるものでもありません。まして、お金のことで相談されても、私は何もできません。牧師として、私が相談に来られた方の話を聞きながら、その方と一緒に行うことは、この二つのことを思い出すということです。私の所に相談に来られる方はキリスト者ですから、「思い出す」ということになります。キリスト者は皆このことは知っているはずだからです。
様々な「こうなったらどうしよう」という不安の中で訪れる人に対して、私はよくこう言います。「人生はなかなか自分の思い通りにはいきません。それは、良い方に対してもそうだけれど、悪い方に対してもそうです。私共は、こうなったらどうしようと思って不安になりますが、そうは中々なりません。だって、私共は自分の将来を見通すことなどできませんから。私共の人生は神様によってデザインされていいます。しかも、そのデザインは私共の思いを超えた、大きな深い愛によって裏打ちされたデザインです。神様は私共に決して悪くされるはずがない。だから、大丈夫です。」そう言います。
私共は自分の人生を自分でデザインして、そうならなかったらどうしようと思うのですけれど、そもそも私共の人生は「自分でデザイン」したものではないし、「自分でデザイン」することなんてできないのです。ですから、自分が思い描いていたようには、今までもそうでしたけれど、これからもなりません。しかし、それで良いのです。私共の人生とは、そういうものなのです。
私共の子供だってそうです。私共は、自分の子はこんな風に育って欲しいと思うのですけれど、中々そうはなりません。しかし、それで良いのです。私共の小さな頭の中で思い描けることなど、本当に小さなものです。その小さな私共の頭の中に入ってしまうような人生であったなら、それは可愛そうです。しかし、私共の子供の人生は、親の思いを遙かに超えたところに進んでいきます。神様がデザインされたからです。
4.神の愛
確かに、自分の人生は自分の思い通りにはいかない。しかし、どうしてそれが愛に満ちた神様の御手の中にあることだと言えるのか。それは、イエス・キリストというお方が来られて、十字架にお架かりになってくださったからです。キリストの教会には、必ず十字架があります。「キリスト教=十字架」と言えるほどです。二千年前にエルサレムにおいてイエス・キリストが十字架にお架かりになった。それは、神様がどんなに私共を愛しているか、そのことをはっきり示すためでした。天地を造られたただ独りの神様が、天地を造られる前から御自身と共におられた独り子キリストを人間としてこの世界に送り、私共の一切の罪の裁きをその身に負ってくださった。それがイエス様の十字架です。誰かのために自分の子を捧げる人がいるでしょうか。先ほどお読みしました聖書、ローマの信徒への手紙5章6〜8節には「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。神様は、自分を愛し、自分に従い、自分を敬う者のために、イエス様を十字架の上で身代わりにされたのではありません。神様に敵対し、逆らい、神様に造られたことも認めず、自分のことしか考えない、まことに身勝手でわがままな者のために、我が子、主イエス・キリストを十字架の上で身代わりにされたのです。このような度外れた愛を私共は知りません。この愛が、私共一人一人に注がれているのです。私共はこの愛のお方の御手の中にあるのですから、どんな時でも、どんな状況の中にあっても、安心して歩んで行けば良いのです。
5.M・Y姉について
さて、今日は、この礼拝の後で、M・Y姉のオルガン演奏によるミニ・コンサートがあります。今日、ここに集われた方のほとんどの方は、M・Yさんのことをよく知っておられる方だと思います。「M・Yさんがまたオルガンを演奏される、これは聞きに行かなければ。」そう思ってここに集われた方が多いと思います。皆様のお手元にあります水色の「礼拝とコンサート」と記したものに、M・Yさんのプロフィールが記してあります。
M・Yさんは15才の時に時にこの教会で洗礼を受けられ、この教会で礼拝の奏楽をするようになりました。そして、フェリス女学院大学音楽学部に進まれます。この時には既に、筋肉が弱くなってくる進行性の難病を発症されていました。フェリスを卒業されて富山に戻り、再び私共の教会の礼拝の奏楽をされるようになりました。私はこの礼拝堂の下に住んでいるのですけれど、M・Yさんは毎日のようにこの礼拝堂に来て、オルガンを弾いておられ、その音をいつも聞いていました。私は15年前にこの教会に赴任してきて以来、ずっとM・Yさんの奏楽で礼拝をしてきました。私は説教の後の讃美歌は決めますが、それ以外の讃美歌はM・Yさんが決めてくださっていました。主の日の礼拝にはM・Yさんの奏楽ある。それが当たり前だと思い、そんな歩みがずっと続くものだと思っておりました。
しかし、M・Yさんは2017年の元旦礼拝の奏楽をいつものようにされて、その日の夜、急性肺炎になって市民病院に入院となり、その日のうちに人工呼吸器が付けられました。今付けなければ、今夜もつかどうか分からない。そう言われたのです。ICUに入って、生きるか死ぬかの境を何ヶ月も過ごされました。私は牧師として何度かICUに行って御家族の方と一緒に祈りましたが、それは本当に厳しい日々でした。私共は本当に祈りました。毎日毎日、何度も祈りました。多くの牧師たちに祈ることをお願いするメールも出しました。そして、私共の教会の者たちだけではなく、全国の多くの教会の牧師や信徒の方たちも祈ってくださいました。M・Yさんのために祈る、その為にこの教会の礼拝に来られた方も何人もおられました。数ヶ月が過ぎ、生きるか死ぬかの窮地を脱した時、私共は神様が本当に祈りを聞いてくださったことを知りました。
それから、金沢の医王病院においてリハビリの日々が始まりました。私が忘れることが出来ないのは、医王病院から外出の許可が出て教会に寄られた時のことです。M・Yさんは礼拝堂に上がり、いつものようにオルガンの前に来ました。オルガンを触りたいということでした。しかし、触っている内に「弾いてみようかな。」と言われて、オルガンを弾かれたのです。一年もの間、ベットで寝たきりだった人が、この足踏みオルガンを弾けるのだろうか。弾けるはずがない。そう思いました。しかし、彼女は弾きました。それは、細い、綺麗な、澄んだ音でした。私には、そのオルガンの音がM・Yさんの「主よ、主よ。」という声に聞こえました。お母様のYさんが、それを動画で撮っておられました。病院に帰り、お医者さんにM・Yさんがオルガンを弾いたと言っても、信じてもらえず、その動画をお医者さんに見せました。お医者さんは、ただただ驚いていたそうです。
私はM・Yさんが倒れて以来、「M・Yさんが再びオルガンが弾けるまでに回復させてください。」と祈っていました。けれど、正直なところ、それは無理なのではないかとどこかで思っていました。まことに不信仰な牧師です。しかし、神様はこのようにコンサートを開くことが出来るまでに、M・Yさんを支え、導いてくださいました。私共の思いを超えた、神様のデザインがここにはありました。
M・Yさんが倒れて、主の日の礼拝の奏楽はどうなるのだろうかと思いました。しかし、四人の奏楽者が起こされ、奏楽無しに礼拝をすることは一度もありませんでした。ここにも神様のデザインがありました。
6.祈りつつ、学ばされていく
私は、「神様が私をそして世界を造られた」「その神様は私を愛してくださっている」この二つのことを心に刻んでおくことが大切だと申し上げました。それがキリスト教信仰の中心にあります。しかし、本当に困り果てた時、私共はそれを忘れます。私共の信仰というものは、これを信じたら微動だにしない、完全な平安がいつもある、そういうものではありません。私共は動揺し、信じきれなくなり、嘆きます。M・Yさんが倒れた時、私共は動揺し、嘆き、「助けてください。」と神様に祈りました。そう、祈ったのです。嘆きながら、動揺しながら、そのままに祈ったのです。そして、神様はM・Yさんという存在を通して、「神様が私共をそして世界を造られた」「その神様は私共を愛してくださっている」このことを改めて教えてくださいました。そして、祈ることをも教えてくださいました。祈りつつ歩んで行く中で、私共はこの二つのことを繰り返し繰り返し教えられていくのです。私共が動揺し、嘆き、信じられなくなろうとも、神様のデザインは確かにあり、神様の私共への愛は少しも揺るぎはしない。ここに、私共の救いの確かさがあります。
聖書は告げます。ローマの信徒への手紙5章3節b〜4節「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
神様のデザインの中に、私共の苦難は入っています。しかし、その苦難の中で、苦難を通して、私共は自分という存在、自分の人生、それが自分のデザインによるものではないことを知るのです。そして、私を愛してくださっている神様を信頼することを学びます。何度も何度も、学び続けていきます。そこに「忍耐」が生まれます。そして、神様を信頼する故に忍耐することを学んだ者は、苦難の中にある者に対しての優しいまなざしも備えられていくでしょう。その苦難が、苦難だけでは終わらないことを知っているからです。そして、遂に私共の人生が肉体の死をもって閉じられても、永遠に生きたもう父なる神様との交わりは絶たれることはない。それで終わりではない、その希望に生きる者とされていくのです。そこに、「生きる力と勇気」は湧き上がってきます。共々に、私共を愛する神様の御手の中に私共の人生は既に置かれていることを信じ、生きる力と勇気を与えられ、健やかに歩んでまいりたいと心から願うものです。
[2019年9月29日]
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