富山鹿島町教会

礼拝説教

「99匹と1匹の羊」
詩編 34編2〜11節
マタイによる福音書 18章10〜14節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 マタイによる福音書を読み進めております。先週から入りました18章は、イエス様の弟子たちの交わりについて、つまり教会の交わりについて、そのあり方を記していると言われております。教会は神の国を指し示し、既に神の国が来ていることを証しするために立てられているわけですけれど、教会は神の国そのものではありませんので色々なことが起きるわけです。イエス様はそのことを前もって知っておられて、ここで注意してくださっている。このイエス様の言葉を聞いたのは弟子たちですけれど、イエス様は教会の交わりを形作っている私共、教会に生きる私共に向かって語っておられるわけです。

2.この世の秩序と天の国の秩序
 その発端となりましたのは、1節にあります弟子たちの、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」という問いでした。この弟子たちの問いの前提にありますのは、自分たちの能力や性格、自分たちは何が出来るのか、そのことによって神様は自分たちを評価してくださるはずだということでした。この世においては、学校であれ、会社であれ、どんな交わりでもそういう価値基準で動いている。それがこの世の秩序です。弟子たちは何の疑いもなく、天の国においてもそれを適用できると考えたのです。勿論、弟子たちは既にイエス様を知っておりますので、この世の考え方や価値観をそのまま天の国に適用できるとは思っていなかったでしょう。この世において価値のある富や力、それがそのまま天の国においても価値があるとは思っていなかった。だから、イエス様に尋ねたのでしょう。
 しかし、それに対するイエス様の答えは、弟子たちが期待していたものとは全く違っておりました。イエス様は、自分では何も出来ない「子供のように」ならなければ天の国に入ることはできないと言われたのです。何ができるとかできないとか、そんなことは天の国においては全く意味がない。ただ神様の恵み、神様の憐れみ。それだけが天の国の秩序なのだ。そう告げられたのです。そして、それが天の国なのだから、弟子たちもまた、神様の恵み、神様の憐れみをただ受ける者としての交わりを形作らなければならないと言われたのです。
 こんな能力がある、こんな奉仕が出来る、こんなに献金出来る、そのようなことが評価され、それによってランク付けされるような交わりであってはならないと言われた。イエス様は、何も出来ない者の代表、象徴として「子供」を挙げられたのです。そして、その「子供」を言い換えて、「これらの小さな者」と言われました。何も出来ない、能力もない、そういう小さな者を受け入れる。それが天の国の秩序であり、教会のありようなのだとイエス様は言われました。この世の秩序と天の国の秩序は違うのです。私共は皆、ただ神様の恵みによって、ただ神様の憐れみによって、招かれ、赦され、神の子としていただいた。この事実を忘れて自分の能力や力を誇り始めるならば、それは天の国にはふさわしくない、天の国を指し示す教会としてふさわしくない、ということなのです。

3.小さな者も軽んじないように
 今朝与えられております御言葉は、10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と始まっています。イエス様を信じている小さな者、子供のように自分では何もできない者、そのような人を軽んじるなとイエス様は言われる。この世と同じように、小さくない者、力があり、能力があり、見栄えもする、家も地位もある、そういう人が重んじられる。教会においてそういう人が重んじられる結果、そうでない人が軽んじられる、注意が向けられない、無視されるということが起きるのでしょう。教会においては、そのようなことがあってはならない。そうイエス様は告げられたのです。
 この世の秩序と天の国の秩序との決定的な違い。それは、神様がいるかいないかにあります。勿論、この世も神様と無関係にあるわけではありません。しかし、この世の秩序は、神様の御心をいうものを考えないで動いている。少なくとも、神様の御心が一番大切だというところでは動いていません。私は神様の御心というものを考え、意識し、それとこの世界の現実とどう折り合いを付けていくのか、それが政治の本当のあり方だと思いますけれど、そういう政治家は多くはない。実際の政治の世界では、どうすれば豊かになるか、勢力を拡大できるか、そのためにどうしたら効率良く事を運んでいけるか、そういう原理で動いています。しかし、天の国は違います。神様の御心に適っていることは何か、それがいつでも一番大切なことです。神様がおられる。神様の御心がある。神様のまなざしがある。それが一番大切なのです。
 子供のように何もできない小さな者にも、私と同じように神様の愛が注がれている。ことを忘れてはならない。10節の後半でイエス様がお語りになっているのはそういうことです。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」というのは、私共には少し分かりにくい表現です。この言葉の背景にはイエス様の時代の天使信仰があると思われます。当時の人々は、神様と人間との間にあって、神様の御心を知らせたり、おこなったりする者として、天使を信じておりました。ミカエルとかガブリエルとか聖書の中にも出てきますので、天使はいるのだろうと思います。しかし、私共はあまり天使を問題にしませんし、天使がいるとかいないとか、大した問題とも思っていません。それは、イエス様が神と人間との仲保者として来られた。このことによって、私共にとっては天使の存在は背景に退いたということなのでしょう。ここでイエス様は、小さな者にも天使がついていて、その天使が神様の御顔を仰いでいると言います。それは、天の父なる神様は、天使を用いて小さな者一人一人を心に掛けておられる。小さな一人一人をも大切にしておられる。だから、この世の秩序においては少しも評価されないような、何もできない者たちであっても軽んじてはならない。そうイエス様は言われているのです。

4.迷い出た一匹の羊のたとえ
そして、「九十九匹と一匹の羊」のたとえを話されたのです。皆さん良く知っておられるたとえ話です。12〜13節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」とても印象深いたとえ話です。
 先ほど讃美歌250番を歌いましたが、これは「こどもさんびか」にも入っているもので、このイエス様のたとえ話から作られたものです。ここには、子供に伝えるための工夫と解釈が示されています。この讃美歌は一匹の羊に焦点を合わせていて、九十九匹は出て来ないのです。迷い出た一匹の羊こそ私であって、その私を羊飼いである神様、イエス様が捜し出してくださったという解釈です。これがこのたとえ話の代表的な理解の仕方です。迷い出た羊は私だ。この小さな者は私だ。何も出来ない、何も誇るところなどない私。その私のためにイエス様は十字架にお架かりになって、私の一切の罪を赦し、神の子としてくださった。何とありがたいことでしょう。これが私共に与えられている救いの恵みです。
 この迷い出た羊、罪人を捜し求める神。これは聖書全巻を通して示されている神様の姿です。創世記3章。神様に食べてはいけないと言われていた木の実をアダムとエバが食べてしまった時、神様が来られるとアダムとエバは木の間に隠れてしまいます。そのアダムに対して神様は、「どこにいるのか。」とアダムを呼ばれました。この「どこにいるのか」という神様の呼び声が聖書全巻に鳴り響いています。罪を犯したアダムに向かって「あなたはどこにいるのか。わたしはここにいる。わたしのもとに来なさい。わたしから逃げてはいけない。わたしと共に生きよう。」と、呼び求め、捜し求めた神様。その神様はアブラハムを選び、神の民を造り、十戒を与え、預言者を与えました。これは、罪人を捜し求める御心が出来事として現れた出来事です。そして、最後にこの神様の御心が形となって現れたのがイエス・キリストというお方です。
 イエス様は羊の持ち主が一匹の羊を捜しに行ったと語られますが、その捜し方は徹底的です。この羊には名前も付けられていたかもしれません。その名前を呼びながら、この羊の持ち主は谷底まで下りて行き、一つ一つの穴を覗き、迷い出た一匹の羊を捜しに捜した。その捜し方は、羊を財産の一部としてではなく、愛する対象を失い、それを見つけ出そうとする捜し方でした。もっと言えば、この捜し方を正しくイメージするには、我が子がいなくなってしまった時の、親の捜し方を思うのが良いでしょう。捜し出すまで諦めない。絶対に捜し出すのです。
 私はこのイエス様のたとえ話を読みますと、前任地の教会の幼稚園で親子遠足に行った時のことを思い出すのです。5月頃だったでしょうか、山の中腹にある、見晴らしの良い、気持ちの良い場所に親子遠足に行きました。さて、お昼を食べましょうという時になって、4月に幼稚園に入ったばかりの3歳のまーちゃんの姿が見えないことに気付きました。お母さん同士がちょっと話をしている間にいなくなってしまったのです。先生方もお母さんたちも皆で必死に捜しました。家の中でなくした物を捜すのとはわけが違う。本当に必死でした。皆声も枯れんばかりに、まーちゃん、まーちゃんと呼びながら捜しました。結局、小一時間ほどして、随分離れた所まで歩いて行っていたまーちゃんを見つけました。この時、他の50人ほどの子供たちはどうしたかと言えば、勿論、放って置いたわけではありません。何人かの先生とお母さんが残って、子供たちを見ていました。当たり前です。
 イエス様がここで「九十九匹を山に残しておいて」と言われているのは、九十九匹を放って置いたということが言いたいのではないのです。一匹に対する愛を告げているのです。羊がこの人にとって財産でしかなかったならば、間違いなくこんな扱いはしないのです。しかし、この一匹が1/100の財産ではなかったから、この羊がかけがえのない愛すべき者であったから、この羊飼いは必死に捜したのです。勿論、他の羊よりもこの羊が大切だったとか、特別だったということではありません。どの羊が迷い出たとしても、この羊の持ち主は同じことをしたでしょう。一匹一匹を愛しているからです。「イエス様の十字架が私のため」というのはそういうことです。まさに命懸けで、私共を罪の谷底から捜し出し、救い出してくださったのです。そしてこの愛は、私だけに向けられているのではありません。この小さな者にも向けられている。だから、私共はこの小さな者を軽んじてはならないということなのです。

5.残った九十九匹の羊
 さて今、一匹の羊と私共を重ねてこのたとえ話を読みました。この「九十九匹と一匹の羊」のたとえは、ルカによる福音書にも記されています。ルカによる福音書においては、徴税人や罪人たちがイエス様に話を聞こうとして近づいた時に、ファリサイ人々や律法学者たちが不平を言いだした。その時にこのたとえは語られています。ですから、一匹の羊こそが罪人を指していて、私共のことだと読むことは正しいのです。しかし、このマタイによる福音書の文脈では、イエス様は九十九匹の羊と私共を重ねて読むことを求めておられると思います。迷い出たのは小さな者です。つまづき、迷い出てしまった羊です。私共はこのように礼拝に集っている。しかし、この交わりから迷い出てしまった人、つまずいてしまった人もいる。私共はその人を軽んじていなかったか。その人のためにもイエス様は十字架にお架かりになった。イエス様の十字架はその小さな人のためでもあった、このことの故に、その小さな人を私共が受け入れていたかどうか。そのことが問われているのです。これは大変厳しい問いです。14節「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」とはっきり告げられている。ここで私共の何が問われているかと言えば、私共の愛が問われているのです。
 愛を問われるということは大変厳しいものです。夫や妻に「私を愛している?」と面と向かって問われたら、「愛している。」と即答できるでしょうか。どこか口ごもってしまうところがあるでしょう。私共が愛を問われる時、自分の愛の欠けを思わざるを得ない。そもそも、面と向かって愛を問われるというのは、その交わりが壊れてしまうような何かが起きた時かもしれません。そうであればなおのこと、「愛している。」と即答できないということにもなります。また逆に、自分の方から愛を問うということも大変難しい。他の人に愛を問うのは、「わたしはあなたを愛しているけれど、あなたはどうなの?」と問うわけでしょう。私共は自分の愛に欠けがあることを知っています。ですから、「わたしは愛しているけど」という前提に立って、そうそう誰かに愛を問うことはしないし、できないのでしょう。
 しかし、イエス様は違います。イエス様は私共を愛してくださっています。十字架の苦しみを担ってまで、私共を罪の谷底から救い出してくださいました。そして、どんな小さな者、この世では少しも評価されない者であっても、その人が神の子として新しい命に生きる者となることを心から喜んでおられる。だから私共に愛を問えるし、問うのです。「あなたは小さな者を愛していますか。軽んじていませんか。」イエス様は私共を「あなたもわたしと一緒に喜ぼう。」と招いておられるのです。「私と同じ愛に生きよう。小さな者を軽んじることのない、天の秩序に生きよう。」と招いてくださっています。このイエス様の喜びと一つにされて、イエス様と共に喜ぶ者の群れ、それがキリストの教会です。

6.M・Sさんの受洗
 8月25日(日)にM・T姉の御主人、M・Sさんが自宅で洗礼を受けられました。M・T姉宅では、14年ほど前から毎月一回東部集会が開かれています。その集会では、私はいつもテーブルを挟んでM・Sさんの真ん前に座って、M・Sさんに向かって語っていました。いつか奥さんと一緒に礼拝に集って、洗礼を受けることを願って、語ってきました。誤解を恐れずに言えば、東部集会はM・Sさんのために開いてきたのです。しかし、その思いが伝わっているようにはなかなか見えませんでした。M・Sさんは、以前は特別伝道礼拝やクリスマス礼拝などに御夫妻で来ておられましたけれど、この数年は目が悪くなり、来られなくなっていました。聖書も讃美歌も見づらくなり、この二年ほどは全く見えなくなっておられました。そういう中、いつもの集会が終わって帰る時に、私は「洗礼をうけませんか。」と勧めました。すると、次の月の集会の時に、「洗礼を受けます。」と言われました。ただ、目がほとんど見えなくなったため、外出は出来ないので、教会には行けませんということでした。そこで、長老会はM・Sさんの自宅で洗礼試問会を行い、そこで洗礼を行うことにしました。そして、週報にありますように、先週の東部集会において聖餐を守りました。東部集会には昨年天に召されたK・T兄と今年召されたS・S姉も出席されていましたから、この方たちが今いたらどんなに喜ばれたことだろうと思います。
 M・Sさんは目が見えなくなった。教会にも来られない。勿論、奉仕は出来ない。しかし、それが何だというのでしょう。この小さな者がイエス様によって救われる。このことを誰よりも喜んでいるのはイエス様です。そして、このイエス様の喜びと一つにされて喜ぶ者として、私共は招かれている。本当にありがたく嬉しいことです。イエス様の喜びが私の喜びとなる。この教会の喜びとなる。聖霊なる神様の導きの中でそういう交わりを形作っていくことが出来るようにと、心から願うのです。

[2019年9月8日]

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