1.ヨルダン川を前にして
8月最後の主の日を迎えています。毎月最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。今朝はヨシュア記の第3章です。
モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅の末、やっと約束の地を目前にしました。しかしモーセは、約束の地をピスガの山頂から見渡すことは許されましたけれど、ヨルダン川を渡ることなく地上の生涯を閉じます。モーセの後にイスラエルの民の指導者として立てられたのがヨシュアです。ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡って約束の地に入る、それがこの3章に記されていることです。
遂に約束の地に入る。エジプトを出発して40年、約束の地は目の前です。ヨルダン川さえ渡れば約束の地です。この時のイスラエルの民は、エジプトを出た時に幼子であったか、この旅の途中で生まれた者たちばかりです。彼らは幼い時から、生まれた時から、ずっと約束の地を目指して旅を続けてきました。旅が彼らの人生でした。そして今、やっと目的地に入ろうとしているのです。しかし、彼らはヨルダン川の岸に着いてから、三日間そこで野営したと聖書は記します。ヨルダン川の岸に着いたから「さあ、渡ろう。」とすぐに渡ったのではありませんでした。ヨルダン川を渡ることも、この40年の旅がそうであったように、神様の導きの中で、神様が共におられるというあり方で為されなければならなかったからです。いつ渡るのか、どのようにして渡るのか、それは神様がお決めになることです。彼らはヨルダン川を前にして待ちました。神の民の歩みとはそういうものです。
2.神様の指示に従って
神様はイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入るのに、指示を与えました。神様から指示を受けたヨシュアはイスラエルの民にこう告げます。3節b〜4節「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」
@契約の箱に続け
ここで告げられておりますことは、第一に「主の契約の箱の後に続け」ということです。「主の契約の箱」というのは、モーセによって神様から与えられた十戒を記した石の板二枚が入っている箱です。イスラエルの民は出エジプトの旅の間中、この契約の箱を幕屋の一番奥に納めて、そこに神様の御臨在を認めて歩んできました。出エジプトの旅の間中、神の民イスラエルはこの契約の箱と共にありました。ヨルダン川を渡るに際してこの契約の箱の後に続くということは、神様が先導してくださる、神様の導きの中で川を渡るということを意味していました。
A契約の箱とは二千アンマの距離をとる
第二に、「契約の箱との間に約二千アンマ(約900m)の距離をとる」ということです。それは聖なる神様の御臨在に対する畏れ、神様の聖さに撃たれないようにということであったでしょう。神様が共にいてくださることが神の民にとって安心、安全、祝福、平和の源でありますが、これは聖なる神様への畏れを失ったところではよく分からないのではないかと思います。神様は聖なる方であり、それ故罪ある人間が近づけば聖さに撃たれて滅びるしかない。その隔ての中垣を取り除いてくださったのがイエス様の十字架の贖いの業なのです。この神様の聖さに対しての備えは、ヨシュアが民に対し、5節で「自分自身を聖別せよ。」と言ったこととも重なります。契約の箱を先頭にしてヨルダン川を渡る。それは聖なる神様の御臨在の下での出来事です。神様が御業を行われる。だからそれに備えなくてはならない。それが、「自分自身を聖別せよ」ということです。この「聖別する」という言葉は、「専ら神様の業に用いるものとして、他のものと区別する」という意味です。それは、自分自身を神様の御業に用いられる者として整えよということです。衣服を洗う。体を洗う。そういうこともあるでしょうけれど、何よりも大切なことは、神様のものとなる、ただ神様の御心に従う者となるということです。この自らを聖別するということが、私共キリスト者というものを形作るるのです。キリスト者は神の栄光のために生きる。神様の御業に用いられることを何より喜びとし誇りとする者として生きる。それが、自らを聖別するということです。実に、キリスト者とは、神の民とは、「聖別された者」なのです。
B「あなたたちの行くべき道は分かる」
第三に、「これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」ということです。イスラエルの民の前にはヨルダン川があります。これを渡った向こう側は約束の地です。しかし、そこは地上の楽園ではありません。そこには他の民族が住んでおり、戦いも避けることは出来ないでしょう。しかも、その土地がどうなっているのか、全く分からないのです。しかし神様は、契約の箱を先頭にして行くならば、行くべき道は分かると言われるのです。これはとても大切なことでありましょう。私共の人生にしても、一度も通ったことのない道を歩んでいくしかありません。明日のことは誰も分からないからです。しかし、その時あなたの行くべき道は分かると言われる。これはどういうことなのでしょうか。
私共は、右に行くか左に行くか、どうすればいいのか分からない、そういうことがあるでしょう。そういう時に、本当に「自分が行くべき道は分かる」のか。これは、こういうことではないかと思います。契約の箱を先頭にして後に続くということは、私共にとっては御言葉に従って生きるということでしょう。右か左、どちらに行くべきか、どちらが御心に適っているか、よく分からない時、私共は、本当に御心に従おうとしているのかどうか、そのことを第一に吟味すべきなのでしょう。こっちの方が上手くいくのではないか、こっちの方が得をしそうだ、そういうことが判断の基準になっているのでは、私共は先が見えないのですから、迷うに決まっているのです。そして、そのような基準で道を選ぶ限り、私共は必ず失敗する。何故なら、私共の見通しどおりになんて、世の中は決して回っていかないからです。しかし、この道が御心に適っていると信じたなら、そのとおりに歩んだら良い。右でも左でも、どっちでも良いのです。神様は必ず、御心と信じて歩む者と共にいてくださいますから。
3.モーセと共にいたように、あなたと共にいる。
さて、主はヨシュアにこう告げました。7節b〜8節「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」
ヨシュア記の1章において神様はヨシュアに対して、「強く、雄々しくあれ。」と何度も告げました。そして、その根拠として「モーセと共にいたように、あなたと共にいる」と告げました。ここで再び、主は同じことを告げるのです。モーセは、40年の出エジプトの旅において様々な奇跡を行いました。勿論、モーセに不思議な力があったわけではなくて、神様がモーセを用いて様々な奇跡を行われたのです。そして、それらの出来事によって、神様がモーセと共におられることが人々に明らかに示されました。それと同じように、今、ヨシュアと共にいることを示す、と神様御自身が告げられました。それは、神様が不思議な業や奇跡を行い、ヨシュアと共にいることを示してくださるという約束でした。
ここで神様がヨシュアに告げたことは不思議なことでした。8節「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」今の暦では4月頃のことで、水量が一番多い季節です。15節には「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」とあります。水深がどのくらいかは分かりませんけれど、腰の高さよりも上、あるいは身の丈を超えると考えて良いでしょう。そんな川を渡ることは普通ならとても出来るものではありません。膝より上になったら、流れのある水の中に入ることは大変危険です。腰まであったら、間違いなく流されてしまうでしょう。とても渡れる状態の川ではなかったのです。ここで主がヨシュアに告げたのは、契約の箱を担ぐ祭司たちに「ヨルダン川の中に立ち止まれ。」と命じることでした。祭司たちは、目の前の川の流れを見て、「そんなの無理!」と思ったでしょう。しかし、神様の御命令ですから行かなければなりません。その時、彼らに主の約束、主の言葉が与えられたのです。
13節「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、水がせき止められるというのです。そして、川の水が壁のように立つと告げられます。これは明らかに、出エジプト記14章にあります、葦の海の奇跡の再現です。前は海、後ろはエジプト軍。モーセに率いられたイスラエルの民は絶体絶命のピンチでした。その時、海の水が左右に分かれて壁のようになり、道が開かれたのです。その道を通って、イスラエルの民はエジプト軍から逃れることが出来ました。40年前のことです。イスラエルの民は幼い時からこの話を何度も聞いていたことでしょう。あの時のイスラエルの指導者はモーセでした。そして今、モーセの後継者であるヨシュアによって、同じことが起きようとしている。そのことがヨシュアの口を通して、イスラエルの民に告げられたのです。これが起きれば、まさに神様がヨシュアと共におられることの確かな証拠となります。
4.信仰によって踏み出す一歩
契約の箱を担いだ祭司たちは、濁流となって流れるヨルダン川に足を一歩踏み入れました。すると、ヨルダン川の水はずっと川上でせき止められ、壁のように立ったのです。この祭司たちの一歩、ヨルダン川への一歩、これが信仰の一歩です。彼らにはただ、ヨシュアが語る神様の約束の言葉「祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つ」、この約束の言葉しか与えられていません。彼らはその言葉を信じて一歩を踏み出したのです。
私には、この祭司たちの一歩は、ペトロが舟の上からイエス様の方に向かって水の上に踏み出した一歩と重なって見えます。マタイによる福音書14章22〜33節です。ガリラヤ湖の上で困り果てていた弟子たちに、イエス様が湖の上を歩いて近づかれます。最初は幽霊ではないかと恐れた弟子たちでしたが、イエス様だと分かると、ペトロはイエス様に「水の上を歩いて、そちらに行かせてください」と願い出ます。イエス様が「来なさい。」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩いてイエス様の方へ歩み出します。この時ペトロは強い風に怖くなり、溺れそうになってしまうのですけれど、あの踏み出した一歩は大変な一歩でした。船の上から水の上に一歩を踏み出す。ただイエス様がおられるからです。私共の常識を超えた一歩です。これが信仰の一歩です。この時、契約の箱を担いでヨルダン川に踏み出した祭司たちの一歩も、それと同じではなかったかと思うのです。
キリスト者は、キリストの教会は、この一歩を求められているのでしょう。目の前で濁流となって流れるヨルダン川。神様はそのヨルダン川の中で立ち止まれと命じられる。川の流れを止めるから大丈夫だと言われる。この神様の約束だけを信じて、祭司たちはヨルダン川に一歩を踏み入れたのです。そうすると、確かに流れは止まり、ヨルダン川は干上がり、川床が見えました。イスラエルの民は、その干上がった川床を渡って向こう岸へ、約束の地へと渡ったのです。
契約の箱を担いだ祭司たちは、神様の御命令どおり、ヨルダン川の真ん中に立ち止まり、そこに立ち続けました。イスラエルの民がヨルダン川を渡り切るまで立ち続けました。そして、4章17〜18節「ヨシュアが祭司たちに、『ヨルダン川から上がって来い』と命じ、主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。」のです。
5.将来の神様の御業への信頼
さて、この出来事はそれ自体、大変大きな出来事であったに違いありませんけれど、そこにはもう一つの意味がありました。それは、10〜11節「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。」とありますように、ヨルダン川を契約の箱が先立って渡り、続いてイスラエルの人々が渡ることによって、それから先のこと、約束の地に入ってからの他の民との戦いにおける勝利をも確信させるということでした。
イスラエルの民の歩みは、ヨルダン川を渡って約束の地に入ればすべてが終わるというものではありませんでした。40年の旅の間、何回かの戦いはありましたけれど、そんなに多くはありませんでした。しかし、ヨルダン川を渡ると、そこには多くの民が既に住んでおり、戦いを避けることは出来ません。イスラエルの試練は、このヨルダン川を渡ってからが本番と言っても良いほどです。約束の地を占領し、十二部族が分配するまで、戦いは続くのです。その戦いが始まる前に、神様はこのヨルダン川での出来事を経験させ、イスラエルの民に神様が共にいることをはっきりと分からせ、これからの歩みを励ましたのです。
私共は、イエス様と出会い、イエス様の十字架と復活を信じる者とされました。一切の罪を赦され、神の子としていただき、神様と共に歩む新しい命を与えられました。神の民に加えられました。それは、私共の歩みが主と共にあって、必ず勝利することを確信させることでもあるのです。この勝利とは、事業が成功するとか、この世の富を得るとか、人々から称賛されるとか、名誉を手に入れるとか、そういうことではありません。この勝利とは、信仰の勝利です。私共が神の御国に向かって確かに歩み通すという勝利、神様の御名がほめたたえられるという勝利です。神様による過去の勝利の経験は、今の私共の歩み、そして将来の私共の歩みを確かなものとしていくのです。
「主が共におられるから大丈夫。」私共はよくそう言います。人はこのような私共を見て、根拠のない自信、脳天気なお気楽者と言うかもしれません。しかし、これは真理です。主が共におられるのですから、私共の信仰の道は、神の御国に向かって一直線に続いているのです。この地上における私共の歩む道は、曲がりくねって、しょっちゅうぶつかって曲げられます。もっと真っ直ぐだったらいいのに、と思われるかもしれません。しかし、私共が天の御国に着いてから自分の歩んできた道を振り返るならば、それは御国に向かっての一直線の道になっていると私は信じています。だから安んじて、私共にとっての契約の箱である御言葉を高く掲げ、御言葉に従ってしっかり歩んてまいりたい。そう心から願うのであります。
[2019年8月25日]
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