富山鹿島町教会

礼拝説教

「山上の変貌」
列王記 下 2章11節
申命記 34章10〜12節
マタイによる福音書 17章1〜8節

小堀 康彦牧師

1.キリスト告白から十字架・復活の予告へ
 イエス様は弟子たちと一緒に旅をされました。それは、弟子たちに御自身が誰であるかを教えるためでした。弟子たちは、イエス様のすべての言葉を聞き、イエス様のすべての業を見ました。弟子たちはイエス様と一緒に生活し、イエス様は素晴らしい方だ、力ある方であり、知恵ある方であり、とんでもない方だ、そう思っていたでしょう。幼い時から教えられてきた旧約聖書に出て来る預言者とはきっとこういう方だったのだろうとも思っていたでしょう。でも、イエス様が天地を造られた神様のまことの独り子、メシア、キリストであると分かるには少し時間がかかりました。しかし、遂にペトロがイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白するに至りました。マタイによる福音書16章16節のことです。勿論、このペトロの告白は、イエス様が言われたように、天の父なる神様が与えてくださったものであり、ペトロの洞察力によって遂にこの告白に至ったということではありません。しかし、この告白は、イエス様と一緒に旅をし生活を共にすることなしに与えられるものでもないでしょう。イエス様の様々な奇跡を見、教えを聞き、一緒に生活する中で、遂にこの告白へと導かれた。そういうことだったと思います。
 イエス様の弟子たちへの教育・訓練は、この告白に至って次の段階へと進んでいきました。それは、イエス様は確かに神の御子でありメシア、キリストであるけれども、それは十字架に架かって死に、三日目に復活することによって成し遂げられる神様の救いの御業であること、そして罪の赦しを与え、神様との交わりを回復し、永遠の命への道を開く、そのために来られたことを教えるということでした。ですから、ペトロの告白の後、イエス様は弟子たちに、御自分が殺されること、そして三日目に復活することをはっきりと告げ始められたのです。16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあるとおりです。
 弟子たちは、イエス様が神の子である、メシアであるということが分かるのにも時間がかかりましたけれど、その神の子、キリストが殺される、そして復活する、このことが分かるにもやはり時間が必要でした。どうして神の子が殺されなければならないのか、弟子たちには分かりませんでした。まして、復活するなんてことは全く考えることさえ出来ませんでした。ですから、イエス様が弟子たちに御自身の十字架と復活の予告をされた時、ペトロは、22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様をいさめたのです。ペトロは、イエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白しましたけれど、それがどういうことなのか、よく分かっていなかったのです。

2.六日の後か、八日の後か
 そこで、イエス様は弟子たちに御自身の本当の姿をお見せになりました。それが今朝与えられている御言葉です。順に見てみましょう。
 1節「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」「六日の後」とあるのは、この直前の16章の出来事、今お話ししましたペトロの告白とそれに続くイエス様の死と復活の予告をされた、その六日後ということでしょう。ルカによる福音書9章28節以下に同じ記事があるのですが、そこでは「八日ほどたったとき」となっています。六日なのか、八日なのか、私などはどっちでも良いとも思ってしまいますけれど、気になる人はこういう違いがとても気になるようです。ルカは、山に登られたのは「祈るため」であったと記しています。ということは、六日後に山に登られ、二日間祈って、八日目にイエス様のお姿が変わった、そう理解しても良いのだと思います。祈りの姿の中に、イエス様の本当の姿が現れたということです。

3.三人の弟子を連れて
 ここでイエス様は、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子だけを連れて行かれました。どうしてこの三人だったのかは分かりません。ただ、この三人だけにイエス様の為すことを見せた場面が、他に二箇所あります。まず、マルコによる福音書5章35節以下にあります、会堂長ヤイロの娘を「タリタ、クム」と言って復活させられた時、そしてもう一箇所、十字架に架けられて死ぬ前の夜、最後の晩餐が終わってゲツセマネの園で祈られた時です。この三回の時、イエス様は、この三人の弟子たちだけに御自分の姿をお見せになりました。それは、イエス様が誰であるのかを明らかにお示しになった時でもありました。 会堂長ヤイロの娘を復活させられた時、それはイエス様が死に打ち勝つ方であるということを示された時でした。ゲツセマネの祈りの姿は、イエス様が十字架にお架かりになることを、どんなに苦しみをもって受け止めておられたかを示す時でありました。つまり、まことの人として神様の御心に従うイエス様の御姿です。そして、今朝与えられております、山上での変貌の時です。これは、イエス様がまことの神の御子であることを示す時でした。イエス様が、死を打ち破るまことの人にしてまことの神なる神の御子であるということをはっきりとお示しになった時、この三人の弟子たちが呼ばれていたのです。何故この三人だったのかは分かりません。ただこの三人は、イエス様が誰なのか、そのことをはっきり教えられた者として、このことをはっきり伝えていく使命が与えられた者となったということは言えるでしょう。事実、ペトロとヨハネは生まれたばかりのキリストの教会の中心となりましたし、ヤコブは十二使徒の中で最初の殉教者となりました。神様の愛、神様の御心、神様の御業、神様の恵み、それを知らされれば知らされるほど、私共はそのことをまだ知らない人々に伝えて行く責任と使命を与えられるのでしょう。

4.山上の変貌
 2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」イエス様の姿が弟子たちの目の前で変わりました。「顔は太陽のように輝き」とは、神の栄光の輝きを示しています。出エジプト記34章に、モーセが十戒を刻んだ石の板を神様からいただいて山から下って来た時、モーセの顔が光を放っていたと記されています。これは神様の栄光を反射しての輝きだったのでしょう。しかし、イエス様の顔の輝きは神の栄光そのものでした。
 そして、「服は光のように白くなった」というのは、イエス様が天的存在であることを示しています。たとえば、イエス様が復活された時、墓には天使がいて、その「衣は雪のように白かった」とあります。聖書において「白く輝く衣」というのは、それが天的存在であることを示すものです。つまり、イエス様はまことの神の御子である本当の姿を、ここで弟子たちにお見せになったということです。これがイエス様の本当の姿です。馬小屋に生まれた時から、イエス様はこの本当の姿を隠しておられたのです。そして、この本当の神の御子としての栄光の御姿がはっきり現れるのが復活の時でした。イエス様は、救い主の十字架さえ受け入れることが出来ない弟子たちに、復活の姿をお示しになりました。それは、どうしても十字架と復活によって与えられる神様の救いというものを弟子たちに教えたかったからです。イエス様は、復活の備えとして、この姿を弟子たちにお見せになったのでしょう。

5.モーセとエリヤと語り合うイエス様
 イエス様は御自分の神の御子としての本当の姿を、もう一つのあり方でお示しになりました。それが3節です。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」イエス様は、何とモーセとエリヤと語り合っていたのです。モーセはイエス様より千数百年も前の人、エリヤだってイエス様より800年も前の人です。地上にいるはずがない人たちです。モーセは律法を代表する人であり、エリヤは預言者を代表する人です。この二人がイエス様と語り合っていた。これは、天の国の窓が開き、その様子を弟子たちが垣間見せていただいたということでしょう。
 この時、イエス様とモーセとエリヤの三人は何を話したのか。ルカによる福音書は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と記しています。つまり、十字架について、またその後の復活について話していたということです。それは、旧約聖書に記されている神様の救いの御業はイエス様の十字架と復活によって成就するということを話したということです。ちなみに、旧約聖書という言葉は、イエス様の時代にはありません。旧約聖書は、新約聖書が編纂されてから、それに対して旧約聖書と呼ばれるようになったのです。更に言えば、イエス様の時代には「聖書」という言葉もありませんでした。聖書ではなく、「律法と預言」或いは「律法と預言と詩」と呼ばれていました。モーセとエリヤは、まさに律法と預言、つまり旧約の代表としてここに出てきているわけです。モーセとエリヤに代表される旧約の神様の救いの歴史が、イエス様によって成就する、完成する。それは十字架と復活によってだ。そのことを三人は話したということです。
ここで一つ不思議なことがあります。それは、どうしてペトロたちは、イエス様と語り合っているのがモーセとエリヤだと分かったのかということです。大きな名札を付けていたわけではないでしょう。語り合っている内容から、そう判断したのでしょうか。そうでもないと思います。実にここに、天の国の秘密が明らかにされています。それは、天の国においては、名刺を出さなくても相手が誰だか分かるということです。天国に行ってイエス様が分からなかったら大変です。私共はイエス様を見たことがありません。しかし、分かる。ペトロもヨハネもわかる。アウグスチヌスもルターもカルヴァンも分かる。そう考えると楽しいですね。

6.仮小屋を三つ
 ペトロはここでも余計なことを言います。4節「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです。』」とあります。ここではっきり「ペトロが口をはさんでイエスに言った。」と聖書は告げます。どうして口をはさむのか。モーセとエリヤとイエス様が話をしている。それはもの凄い場面です。生涯二度とない、聖なる体験です。どうしてこんな時に口をはさむのかと思います。けれど、それがペトロという人なんでしょう。
 ペトロは、イエス様とモーセとエリヤのために一つずつ仮小屋を建てましょう、と言いました。モーセとエリヤとイエス様が話し合っていた。天の窓が開くという大変な出来事を見た。それを記念しましょうということだったと思います。仮小屋というのは小さな祠のようなものを考えれば良いかと思います。人はこのように、記念碑のようなものを建てたがるのでしょう。イエス様はこの時、「それはいいアイディアだ。」とは言われませんでした。ペトロのこの申し出を、イエス様は全く無視されました。完全なスルーです。どうしてでしょう。イエス様はペトロたちに、御自分が誰であるかをお示しになりました。まことの神の御子である栄光の姿をお示しになった。イエス様は、そのことさえはっきりさせれば良かったのです。記念碑なんて全く興味がないのです。ここでも私共は、イエス様の思いと人間の思いのズレを知らされます。

7.これに聞け
 そして遂に神様が現れます。5節「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」神様の姿は見えません。ただ御臨在のしるしとして「光り輝く雲」が現れ、声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」この神様の言葉こそ、イエス様が誰であるのかをはっきりと示すものでした。神様御自身が、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げられたのです。実にこの神様の言葉こそ、ペトロが言った「あなたはメシア、生ける神の子です。」という告白が、神様から与えられたものであることを証ししています。
 そして、神様は言われました。「これに聞け。」イエス様に聞け。これが神様の御心なのです。イエス様に聞いて従う。これこそ神様が弟子たちに与えられた御命令なのです。律法や預言によって御心を告げてきた神様が、最終的に告げられたことは、イエス様に聞け、ということでした。それは、イエス様がまことの神の御子であり、神様の御心はイエス様に完全に現れ、示されているからです。神様の言葉を聞いて、これに従うということは、イエス様に聞いて従うことです。逆に言えば、イエス様を抜きにして律法や預言を学び、これに従ったとしても、それは的を外してしまう。神様の御心に適わないのです。イエス様に聞く。それがすべてです。ここに私共の信仰の歩みのすべてがあります。

8.イエス様が触れてくださる
 弟子たちは、神様の御臨在に接し、滅びるしかないと恐れ、おびえ、ひれ伏しました。聖なる神様に触れれば、罪ある人間は滅びるしかない。神様との親しい交わりは、アダムとエバが罪を犯して以来失われてしまいました。弟子たちはただただ恐れ、おびえるしかありませんでした。ところが、イエス様が弟子たちに触れて、こう告げられました。「起きなさい。恐れることはない。」弟子たちが顔を上げて見ると、そこにおられたのはイエス様だけでした。モーセもエリヤも姿はなく、神様の御臨在のしるしである光り輝く雲もありませんでした。しかし、イエス様はおられました。
 神様に触れれば滅びるしかない弟子たちです。しかし、イエス様には触れられる。イエス様の方から触れてくださる。まことの神の御子であるイエス様が弟子たちに触れるということは、神様が触れるということ。イエス様が共におられるということは、神様が共におられるということであり、神の国がそこにあるということです。イエス様の本当の姿は、いつもは隠されています。だから、弟子たちは、イエス様に触れることによって神様と触れることが出来、イエス様と共に生きることによって神の国に生きることが出来る。これが私共に与えられている恵みです。私共は、直接神様の姿を見たり、その声を聞くことは出来ません。それは私共が肉体を持った罪人だからです。このままで聖なる神様に触れれば、私共は滅びるしかありません。しかし神様は、私共が神様と共に生きることが出来るように、イエス様を与えてくださいました。そして、そのイエス様が私共と共にあることを知ることが出来るように、この主の日の礼拝を与え、御言葉を与えてくださいます。
 今、私共は聖餐に与ります。このパンと杯と共に、イエス様が私共の中に入り、私共と一つになって生きてくださいます。神の国に生きる者としてくださいます。ここに神の国は始まっています。

[2019年7月7日]

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