1.ペトロの告白とイエス様の受難・復活の予告
今朝与えられております御言葉の小見出しには「イエス、死と復活を予告する」とあります。イエス様は、御自分が十字架にお架かりになり復活されることを御存知でした。それが神様の御心、神様の御計画だと知っておられました。そして、そのことを弟子たちに告げられました。その最初の予告が、今朝与えられた御言葉の箇所です。この後、17章22〜23節、20章18〜19節にも同様の予告をされたことが記されています。聖書は、イエス様が三回、御自分の受難と復活の予告をされたと記している。三という数字は聖書では完全数として特別な意味があります。この三回というのは単に回数を示すだけではなくて、完全に、否定できないほどはっきりと、明確に、イエス様は予告されたということです。この直前の所で、ペトロはイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白しました。そして、イエス様は御自分の受難と復活を弟子たちに予告された。このペトロの告白とイエス様の予告は別々のことではありません。イエス様はペトロの告白を聞いて、遂に十字架と復活のことを知らせる時が来た、そう判断し、自らの死と復活について予告されたのです。
イエス様の十字架と復活は、イエス様が天より降ってマリアから生まれた時から決まっていたことです。イエス様はそのために天より降って人となられたからです。しかし、イエス様の十字架の死は、まことのメシア、神の御子である方が私共の一切の罪を贖うためのことであって、時の権力者によってただ殺されるのではありません。また、イエス様が神の御子でありメシアであるということは、十字架にお架かりになり復活されることによって実現される、神様の救いの御業を成し遂げる者であるということでした。イエス様がメシア、神の御子であるということと、十字架と復活の出来事は分けることが出来ない、一つのことでした。ですから、イエス様は、ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白するまで、自らが十字架に架かり復活されることを明らかにされなかったのです。しかし、それは人々には分かりません。人々は、メシアであり神の子であるということは、この世の一切の力を圧倒し、神の民であるイスラエルに栄光をもたらす方であるとしか理解出来ないからです。それで、ペトロがイエス様を「メシア、生ける神の子です。」と告白した時も、20節にありますように「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」のです。イエス様がメシアであり神の御子であるということはそのとおりなのですが、十字架と復活抜きのメシア、十字架と復活抜きの神の子として受け止められることは御心に適わなかったからです。なぜなら、もしイエス様が十字架と復活抜きのメシアとして人々に祭り上げられてしまえば、イエス様の十字架への道は叶えられなくなってしまうかもしれないからです。だから、「だれにも話さないように」と命じられたのです。
しかし、イエス様は弟子たちにはそのことをきちんと弁えて欲しかった。弟子たちは、イエス様の救いを全世界に宣べ伝えていく者たちだったからです。それで、イエス様はペトロの告白に続いて、自らの受難と復活について弟子たちに語られたのです。この16章におけるペトロの告白以降、イエス様の歩みは明確に、エルサレムにおいて十字架にお架かりになるための歩みとなっていきます。21節の「このときから」とは、そういうことです。
この16章は、マタイによる福音書を前半と後半に分ける分水嶺のような所と言われます。それまでは、ガリラヤの春と呼ばれる、イエス様が弟子たちと共に旅をし、人々に神の国の教えを語り、様々な奇跡をされた時代です。そして、これ以降は、エルサレムに向かって、つまり明確に十字架へと向かうイエス様の歩みを記しています。この前半と後半を分けるのがペトロの告白であり、それに続くイエス様の受難と復活の予告なのです。
2.サタン、引き下がれ
イエス様は、弟子たちにエルサレムにおける受難と復活について語りました。すると、ペトロが、イエス様に対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言ったのです。22節です。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」ペトロは、文字通りイエス様の手を取るようにして、あるいは袖を引っ張るようにして脇に引いていった。そして、いさめたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」それは、エルサレムでの十字架に向かって歩もうとされるイエス様の道をわきへそらせようとするものでした。ペトロに悪気はなかったでしょう。ペトロはイエス様を本気でメシアと信じ、神の子と信じていた。しかし、イエス様がメシアであるということがどういうことなのか、この時はまだ分かっていなかったのです。この時だけではありません。ペトロはイエス様が十字架にお架かりになってもまだ分かりせんでした。ペトロは復活のイエス様に出会って、そして聖霊が降って初めて、イエス様がメシアであるということ、神の子であるということがどういうことなのか分かるのですから。
イエス様は御自分をいさめるペトロに対して、「サタン、引き下がれ。」と言われた。これは強烈な言葉です。私は、この言葉はイエス様にしか語ることが許されていない言葉だと思います。これは他の人に対して、私共が決して言ってはならない言葉です。このことはよく弁えていなければなりません。この言葉を口にする時、私共は自分がイエス様・神様になってしまうからです。
ペトロは、イエス様に対して初めて「メシア、生ける神の子です。」と告白した者です。その告白によって、イエス様から「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とまで言われた人です。ところが、その口が乾かぬ間に、今度は「サタン」と言われてしまう。急上昇・急降下のジェットコースターのような変わりようです。けれども、イエス様はここで、ペトロ自身をサタンそのものと見なしているわけではありません。イエス様はペトロの言葉、行動に、サタンの働きを見た。ペトロがサタンの誘い、計略に引っかかったのを見たということです。
では、イエス様はペトロの言葉、行動のどこにサタンの働きを見たのでしょうか。23節「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」イエス様がメシア、神の子であるということは、完全に神様の御心と一つになっておられる方だということであり、イエス様が十字架にお架かりになるということも神様の御心そのものです。しかし、ペトロの考えるメシアは、「そんなことがあってはならない」メシアであったということです。何故なら、メシアこそイスラエルに栄光をもたらす方であり、この世のすべての力を打ち破るお方だと考えていたからです。つまり、ペトロは神様の御心よりも、自分のメシア、神の子のイメージに囚われていたということでしょう。もっと言えば、ペトロはイエス様をメシア、神の子と告白していながら、イエス様を肉体の死で終わるただの人間と思っていたのではないかと思います。そして、このペトロの考えは結局の所、イエス様を十字架への道からそらすことになる。そして、そのことこそサタンの一番の目的だったのです。ペトロは自分がサタンの誘い、サタンの計略に引っかかっているなどとは少しも思っていなかったでしょう。しかし、そうなってしまっていた。
私共はここで、サタンの賢さに気付かなければなりません。「自分は大丈夫。」そんな風に言える人は誰もいないからです。イエス様の一番弟子のペトロでさえそうだったのですから、誰も自分は大丈夫なんて言えません。
3.イエス様に従う
では、私共はどうしたら良いのでしょうか。イエス様は続けてこう言われました。24〜25節「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」大変有名な言葉です。そして同時に、私共を尻込みさせるような厳しい言葉です。
このイエス様の言葉を私共はどう受け止めれば良いのでしょうか。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う」これは本当に厳しい言葉です。しかし、イエス様がここで言おうとされているのは、神様のため、イエス様のため、隣人のために、自分のことは後回しにして生きるというようなことではないと思うのです。自分のことなど少しも考えないで、神様のため、隣人のために生きる。そんなことを求められても、私共にも日々の生活がありますし、家族もいます。思わず、「無理だ。」と言ってしまうでしょう。イエス様はここで、私共が思わず「無理だ」と言ってしまうような歩みを私共に求めておられるのでしょうか。だとすれば、一体誰がこのイエス様の言葉に従うことが出来るでしょうか。このイエス様の言葉は、24節だけを読んでいては正しく受け取れないと思います。勿論、この言葉を「自分のことなど少しも考えないで、神様のため、隣人のために生きることをイエス様は私に求めておられる。」そのように読むことが全く間違いとは言いません。実際、そのように受け取って生きた先達を私共は知っています。所謂、聖人と言われる人々の中に、そういう人が何人もいます。しかし、イエス様が私共に求めておられることがそういうことなのかと言えば、そうではないと私は思います。
私はこのイエス様の言葉のポイントは25節にあると思います。25節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」イエス様はここで、御自分の十字架と復活の出来事と私共の歩み、私共の命を重ねています。イエス様は十字架の死で終わるのではありません。三日目に復活されます。イエス様は、この地上の命では終わらない命がある、その命、復活の命、永遠の命、まことの命です。その命に私共も与らせよう。そうイエス様は私共を招いておられる。わたしによって与えられる復活の命、永遠の命、まことの命を求めて生きよ。そうイエス様は告げておられるのでしょう。そして、そのまことの命を求めて生きる者が、自分を捨てる者、自分の十字架を背負って生きる者なのだと告げておられるのです。
まことの命は、自分で努力して手に入れるものではありません。そうではなくて、イエス様の十字架と復活によって私共に与えられるものです。このまことの命を得るために生きる。地上の歩みにおいて何を得るかということではなくて、地上の命の向こうにある命、そこに向かってこの地上の歩みを為していく。それは神の国を求めて生きる、終末を待ち望みつつ生きると言っても良いでしょう。その命を得るために、私共の地上の命はある。そのことをはっきり弁えて生きる。イエス様は、それを私共に求めておられるということなのです。
4.イエス様の再臨の時を待ち望みつつ
この言葉は、イエス様が、27節「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」とお語りになったように、終末において完成される神の国を求める、そこに向かって歩む、その関連の中で受け取られなければならないということです。しかし、誤解してはいけません。自分を捨て、自分の十字架を背負わなければ、神の国に入ることは出来ないということではありません。そうではなくて、神の国を求めて歩んでいくならば、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様についていくことになるということです。
それは、イエス様の十字架と復活が自分のためであることを知った者は、神の国という新しい価値を知ってしまうからです。神の国の価値、それは私共が今まで大切だと思っていたもの、それを手に入れれば幸いになれると思っていたもの、それらがまことにつまらないものであることを教えます。誤解を恐れずに言えば、この地上の命よりも大切なものがあることを私共に教えてくれるのです。誤解を恐れずに言えばというのは、私はこの地上での命は本当に大切なものだと思っているからです。しかし、肉体の命よりも大切なもの、価値のあるものがある。神の国はそのことを私共に教えてくれるのです。そこにおいて、私共は自分の損得を越えた、神様の御心に適う歩みを為していく者とされるのです。復活の命、永遠の命、神の国の完成に向かって、私共がそれぞれ遣わされた場において生きる。これこそ、まことに尊く、美しく、神様に喜ばれる歩みなのです。
5.香港でのデモ
14日の金曜日に、友人の牧師からSNSで香港の状況が伝えられました。彼は九州連合長老会の教会を牧会している牧師ですが、数年前まで香港の神学校に留学していました。たまたま、香港の教会で今日の礼拝の説教するため、そしてシンポジウムに出席するために香港に行くことになりました。出発前、彼は「どうしてこんな大変な時と重なったのか。」と少々愚痴を言っておりました。皆さんもニュースで御存知だと思いますが、今、香港では100万人もの人々がデモをしています。香港の人口は700万人ですから、このデモがどれ程のものか想像出来るかと思います。今そのデモの経緯などについてお話しする時間はありません。しかし、イギリスの統治下にあった香港が中国に返還されて、現在は一国二制度というあり方で中国が統治していますが、香港の国家に当たる立法会で自分たちの自由が脅かされると思われる法律が通りそうになった。それに香港の人々が反対してデモをしているというのが現在の状況です。彼が香港に着いて、「飛行場の周辺も、町も平穏です。」という連絡が入りました。しかし、しばらくして、「立法会の近くは警官隊とデモ隊が対峙して、大変緊張した状態です。」というSNSを送ってくると同時に、その場の動画を送ってきました。その動画では、多くの若者が「Sing Hallelujah to the Lord」というゴスペルを歌っている様子が送られてきました。この歌の歌詞は直訳すれば、「主にハレルヤと歌おう」となりますが、「Sing Hallelujah to the Lord」いう歌詞だけを繰り返し繰り返し歌うゴスペルです。とても静かな歌です。前日、徹夜で若者たちがこの歌を歌い続けたということで、デモに参加した多くの人たちの耳に残り、このデモのテーマ・ソングのようになっているとのことでした。
私は、この動画を見て心を動かされました。神様は人間を御自分に似た者として造られました。その人間は「自由」なものとして造られた。何故なら、神様は全く自由な方だからです。その自由が国家という巨大な力によって脅かされそうになった時、若者を中心に「主にハレルヤと歌おう」と歌いつつ、自分たちの自由を抑圧することに対して「No」と言う。香港の若者たちは、それを静かに、しかし途切れることなく「Sing Hallelujah to the Lord」と歌うことによって示しました。彼らは、デモを信仰の故に為していることをこの歌で示したのです。ここには、人間のことを思わず、神のことを思う者の姿があると思いました。人間のことを思わないとは、この世のことなど思わない、この世のことなど関係ないといって生きることではありません。人のことを思わず、神のことを思うとは、神の国を見るが故に、神のことを思うが故に、神様の御心に適うようにとこの世を生きることです。
この世における権力者は、自分の力で人々の自由を奪い、自分の力による平和を築こうとする。平和は大切です。しかし、それは神様に似た者に造られた人間の自由を奪って築かれるものではありません。それは御心に適いません。神様の御前に額ずき、自分を一番とせず、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う中で築かれていくものです。イエス様が私共を導こうとされている神の国とはそういう所です。この神の国における命を求めて地上を歩む。それが、イエス様がこの御言葉で私共に求めているものです。だから、あの香港でひたすらに「Sing Hallelujah to the Lord」と歌いながらデモをしている若者たちの姿に、私は心が動いたのです。主の御前において、あの香港の人々のあり方は正しいし、美しいと思います。
私共も遣わされている場において、御国をしっかり見上げつつ、人のことではなく、神様を思って、なすべき業に励んでまいりたいと思います。
[2019年6月16日]
へもどる。