富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「真理を教える聖霊」
エゼキエル書 36章25〜28節
ヨハネによる福音書 14章25〜31節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステの出来事
 私共は今朝ペンテコステの記念礼拝を捧げています。ペンテコステの出来事については使徒言行録に記されております。イエス様は、十字架にお架かりになり、三日目に復活され、40日の間その復活の体をもって弟子たちに御姿を現された後、天に昇られました。イエス様は天に昇られる時、弟子たちに聖霊が降ることを予告されました。そして、聖霊が降ると弟子たちは力を受けて、地の果てに至るまでイエス様の証人となると告げられました(使徒言行録1章3〜11節)。弟子たちはこのイエス様の言葉を信じ、心を合わせ、祈ってその時を待ちました。そして十日後、五旬祭の日、すなわちペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降りました。
 使徒言行録2章1〜4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。弟子たちは色々な国の言葉で、イエス様こそ救い主であること、イエス様は十字架にお架かりになって三日目に復活されたことを語りました。そして、悔い改めて洗礼を受けるようにと勧めました。そしてこの日、イエス様の弟子たちの言葉を受け入れて洗礼を受ける者たちが三千人も起こされ、キリストの教会の歩みが始まりました。ペンテコステが教会の誕生日と言われる所以です。キリストの教会は、聖霊が降ることによって誕生し、聖霊によって導かれて歩んできました。それは今も変わることはありません。聖霊の働きを抜きに、教会について語ることは出来ません。私共の信仰の歩みも同じです。私共は聖霊なる神様によって信仰を与えられ、聖霊なる神様の導きの中で御国への歩みを為しています。

2.聖霊なる神様の御業
 ただ、ここで一つ確認しておかなければならないことがあります。それは、聖霊なる神様はペンテコステの出来事の時に、初めて降ってきて御業を為されたわけではないということです。もしそうであるならば、旧約聖書に記されている出来事は、聖霊なる神様の働きとは関係ないということになってしまいます。それはあり得ないことです。そもそも旧約聖書自体が、聖霊なる神様の働き、支配、導きの中で記されたものでしょう。エゼキエル書36章25〜27節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」と語られたのは、聖霊、霊なる神です。聖霊なる神様は天地創造以来、父なる神、子なるキリストと共にその御業を為して来られました。そして、ペンテコステの日に、それまでよりももっと明らかなあり方で御業を為されるようになったということです。
 もっと明らかなあり方でというのは、イエス様がお語りになったこと、イエス様が為された業にはどういう意味があったのか、イエス様は誰なのか、そのことを弟子たちにはっきり教えるというあり方において、そしてそのことをすべての人に宣べ伝えさせるというあり方において、ということです。この二つの点において、聖霊なる神様はペンテコステ以来その働きを明らかにしておられるということです。それまでも聖霊なる神様の働きはあったわけですけれど、天におられた御子なるキリストがイエス様として降ってこられ、十字架・復活という救いの御業を成就された。そのことをはっきりと世界に示すために聖霊なる神様は働かれ、その出発がペンテコステの出来事だったということなのです。ですから、ペンテコステの日の出来事は大変特別なあり方でしたけれど、それと同じことがそれ以来ずっと世界中で起き続けているし、私共の上にも起き続けているということなのです。
 現在、世界中にキリスト者は23億人くらいおります。平均寿命を70歳としますと、一年で約3000万人以上が洗礼を受けていることになります。それを更に365日で割りますと、世界中では毎日約10万人が洗礼を受けているということになります。これは大変な数字です。聖霊なる神様の御業は、このように今もペンテコステの日以上に大きく、豊かに、激しく為されています。

3.真理の霊である聖霊
 今朝与えられております御言葉、ヨハネによる福音書14章は、イエス様が十字架に架けられる直前の夜、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたことが記されています。14〜16章はイエス様の最後の説教です。15節以下の所には「聖霊を与える約束」という小見出しが付いています。イエス様は十字架にお架かりになる前の夜に、御自身が十字架に架かり死ぬこと、そして三日目に復活することと共に、聖霊を与える約束もされました。16〜17節aで「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と告げられました。この「弁護者」と訳されている言葉は、口語訳では「助け主」と訳されておりました。「パラクレートス」という言葉ですが、これは元々「かたわらに呼ばれた者」という意味の言葉で、法廷において被告人のかたわらで弁護する人ということで「弁護者」と訳されました。でも、私は、かたわらにいて私共のすべての歩みを助けてくれる「助け主」という訳で良いのではないかと思います。
 いずれにせよ聖霊なる神様のことなのですが、ここでは「真理の霊」とも呼ばれています。それは、私共に真理を明らかにしてくれるということでありましょう。聖書において真理と言えば、それは主イエス・キリストのことであり、主イエス・キリストによって与えられた福音であり、主イエス・キリストによって与えられた命であり、救いの道であります。イエス・キリストというお方を横に置いての真理、或いはイエス様と関係のない真理というものはありません。物理学や数学における真理というものはありますけれど、それは聖書が語るところの真理とは別のことです。
 このことをイエス様は、26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と告げられました。弟子たちはイエス様から様々な教えを与えられましたし、色々なたとえ話も聞きました。しかし、彼らがそのことをちゃんと理解していたかと言いますと、そうとは言えません。福音書には、イエス様と弟子たちとのトンチンカンなやり取りが幾つも記されています。そもそも、イエス様は十字架にお架かりになって復活されることを弟子たちに告げておられましたが、弟子たちはそのことを信じていなかったし、それがどういうことかさっぱり分かっていませんでした。
 先週見ましたように、ペトロはイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白しましたけれど、この時ペトロは、その自分が言い表した信仰、告白がどういうことを意味しているのか、そのように告白した者はどう生きるのか、少しも分かっていませんでした。ところが、ペンテコステの出来事の後、イエス様の弟子たちは、イエス様が誰であるのか、イエス様の十字架はどういう意味があるのか、それらを明確に宣べ伝え、伝道していきました。ペンテコステの前と後では、弟子たちはまるで別人のようです。ルカによる福音書と使徒言行録は、上下巻の関係にある書ですけれど、ルカによる福音書に出て来るペトロは、まっすぐな性格であることは分かりますが、ちっともイエス様の語ることを理解出来ず、トンチンカンなことを言っていました。イエス様が捕らえられた時も、後をついていって大祭司の中庭まで行きますけれど、そこでイエス様を三度知らないと言ってしまった人です。ところが、使徒言行録が語るペトロ、ペンテコステの後のペトロは、人々の前で堂々とイエス様について、その救いについて語り、人々に悔い改めることを求めます。大祭司たちにイエス様の御名によって語ることを禁じられても、堂々と語り続ける、実に立派な弟子となりました。そして彼はローマにおいて殉教します。
 どうしてこんな変化がペトロに起きたのか。実に、この変化をもたらしたのが、聖霊なる神様なのです。ペトロを始め、イエス様の弟子たちは皆、聖霊なる神様によって、イエス様がお語りになったこと、為された業を思い起こし、その意味を知り、そして強められ、イエス様による救いを雄々しく宣べ伝えていったのです。

4.平和を与える聖霊
 聖霊なる神様は、弟子たちに教えただけではありません。彼らがそれを宣べ伝えていく時、彼らを守り、支え、導かれました。イエス様はそのことについて、27節で「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と告げておられます。
 弟子たちがイエス様の福音を宣べ伝える時、彼らの前には大変な困難が立ちはだかりました。ユダヤ人からは異端として迫害され、ギリシャ人からは相手にされませんでした。その様子については、使徒言行録に詳しく記されております。しかし、彼らは福音を宣べ伝えることをやめませんでした。それは、苦しいけれど歯を食いしばって頑張るというのとは違いました。確かに、彼らが直面した困難は大変なものでした。しかし、彼らには平和、平安が与えられていた。この平安は、世が与えるようなものではありません。
 世が与える平安というものは、富や名声と共に与えられるものかもしれません。しかし、彼らに富が与えられたわけでもなく、名声が与えられたわけでもありませんでした。彼らは迫害を受けては次の町に行って福音を伝え、そこでも迫害をうけるとまた次の町へ行って伝道するといったありさまでした。心を騒がせ、おびえたこともありました。しかし、平安があった。これは不思議なことでしょう。これが聖霊なる神様によって与えられた、生まれたばかりのキリストの教会、そこに集う弟子たちに与えられていた現実でした。
 使徒パウロはその手紙の中で、何度も何度も「喜びなさい」と告げました。パウロは牢獄の中にあって手紙を書く時でも、そう書きました。牢獄の中にあっても、彼自身、喜んでいたからです。それは、イエス様によって与えられた、救われたということ、神の子とされたこと、一切の罪を赦されて永遠の命に与る者とされたこと、この救いの現実の中にパウロは生きたからです。このイエス様によって与えられた救いを自分から取り上げることなど誰にも出来ない、そのことをパウロは知っていたからです。それというのも、聖霊なる神様によって与えられた平和の中にパウロは生きたからです。この平和は私共にも与えられております。
この地上の生涯において、私共をおびえさせ、不安にさせ、心を騒がせるようなことは次々に起きます。一つ山を越えたと思ったら、また新しい山がある。聖霊なる神様の御支配の中で生きるなら、その山が全く無くなるということではない。しかし、平安がある。喜んでいる。それは聖霊の御支配の中に生かされていることを知っているからです。

5.青森と四国の伝道者
 先週、月曜日と火曜日、東京神学大学で開かれた日本伝道フォーラムに行ってきました。二日目は幾つかの分科会に分かれました。どれもなかなか興味を引くものしたけれど、私は「小規模教会の伝道」という分科会に出席しました。そこでは、二人の伝道者が伝道報告をされました。青森県のK教会で25年伝道している婦人の伝道者と、四国で10年伝道している比較的若い伝道者の報告でした。それを聞きながら、心が動かされました。
 今、すべてを話すことは出来ませんけれど、K教会で伝道されている方は、能登で夏期伝道実習をされた方で、名前だけは知っていました。彼女は、「自分が赴任した時に現住陪餐会員は11名でしたが、今は8名です。」と報告しました。伝道が進展しているとは言えない。「しかし、その年月の中で会堂が建ちました。色んな方との出会いがありました。」その伝道報告をしている姿、顔、声が明るいのです。その小さな教会に居続ける。しかも明るく居続ける。福音を告げることを心から喜んでいる。聖霊によって平和を与えられている人がここにいると思いました。こういう伝道者がいる限り、日本の伝道は大丈夫だと思いました。そして、このエートスを失ってはならないと思いました。
 四国で10年伝道している彼もそうでした。教会員5人の教会と1人の教会とを兼牧している。自分はただひたすら説教に心を注いでいると言う。彼も明るいのです。大丈夫だ。頑張れと思いました。

6.心を騒がせるな。おびえるな。
 数は大切です。私共はいつもその数に目が向きます。そして、将来に対して不安になったりします。しかし、大切なのは聖霊なる神様の与えてくださる平和の中に生きているかどうかです。本気で聖霊なる神様の御支配と導きを信じて歩んでいるかどうかです。お金も大切です。しかし、教会はお金で建ったこともなければ、お金で倒れたこともありません。教会は聖霊によって建てられているからです。イエス様は言われました。「心を騒がせるな。おびえるな。」 30節「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」これから大祭司たちに捕らえられ、十字架に架けられる。そのことをイエス様は知っています。しかし、イエス様は「彼はわたしをどうすることもできない。」と言われた。世の支配者はイエス様を十字架に架けて殺し、自分たちが勝利したと思ったことでしょう。しかし、そうではありませんでした。その十字架によって罪の赦しの救いの御業が成し遂げられ、復活によって永遠の命の道が開かれたのです。世の支配者はイエス様をどうすることも出来なかった。聖霊によって導かれているキリストの教会も同じです。この世の支配者から見れば、取るに足りない、小さな存在でしょう。しかし、この教会をこの世の支配者はどうすることも出来ません。日本においては、教会に対して目に見える迫害はありません。でも、世界では様々な所で迫害が起きています。しかし、世はキリストの教会をどうすることも出来ない。聖霊なる神様によって守られているからです。一人一人のキリスト者も同じことです。
 イエス様は、「さあ、立て。ここから出かけよう。」と言われました。イエス様はこの後、ゲツセマネの園で捕らえられます。大祭司の裁判、ピラトによる裁判と続いて、十字架へと歩まれます。イエス様は知っておられます。これから御自分の身の上に起きることを。そして、世の支配者は御自分に何も出来ないことを。
 イエス様はペンテコステを記念するこの時、私共に告げられます。「さあ、立て。ここから出かけよう。」私共はイエス様ではありません。しかし、聖霊なる神様が共にいてくださって、道を開いて導いてくださいます。この方が与えてくださる平和の道を、御国に向かっての道を、共に歩んでまいりたいと思います。

[2019年6月9日]

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