富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「祈りの心」
出エジプト記 20章7節
マタイによる福音書 5章33〜37節

小堀 康彦牧師

1.花の日礼拝
 今日は花の日の礼拝で、教会学校の子どもたちと一緒に礼拝をしています。花の日というのは、160年ほど前にアメリカの教会で、子どもたちが健やかに育って、みんな花を咲かせるようにと願って、たくさんの花を飾って礼拝を捧げることから始められました。「キリスト教のこどもの日」と考えていただいて良いかと思います。いつもの年ですと6月の第2週に行われるのですが、今年はその日がペンテコステの日と重なりますので、少し早いのですが今日行うことにしました。6月だとアジサイの花くらいしかないのですが、今年は5月ですので色々な花があって、これも良いかなと思っています。

2.神の家族
 今日は1歳から90歳以上の人まで、まさに幼子から年老いた者まで一緒に礼拝しています。いつもは教会学校の礼拝と大人の礼拝とは、一階と二階に分かれて、時間もずれて行われていますけれど、今日は一緒です。今日、ここに集っている私たち、これが私たちに与えられている「神の家族」です。富山鹿島町一家です。家に帰れば、私たちにはそれぞれの家族がいます。けれど、今日ここに集って一緒に礼拝をしている私たちも家族です。「神の家族」です。
 私たち富山鹿島町教会という神の家族にはお父さんがいます。それは天の父なる神様です。長男もいます。それがイエス様です。神の家族である私たちは、子どもも青年も婦人も壮年もお年寄りも皆、お父さんである父なる神様が大好きですし、神様の御心に従って生きていきたいと思っています。そして、父なる神様は、その御心を私たちに教えるために聖書を与えてくださいました。この聖書がなければ、私たちは父なる神様の御心が分かりません。神様が何を求めておられるのか、どうすることを喜ばれるのか、またどうすることをお嫌いになるのか分かりません。私たちは毎週日曜日にここに集まって、聖書の言葉を通して神様の御心を教えていただき、大好きな神様の御心に従ってこの一週間も生きていくぞと心に決めて、それぞれの家に帰っていきます。神様の御心なんてどうでもいい、自分にはそんなの関係ないという人は、この神の家族の中にはいません。みんなお父さんである神様が大好きだからです。

3.十戒の第一戒と第二戒
 今日私たちに与えられた神様の御心を示している言葉は、十戒の第三の戒です。教会学校では今、教案誌に従って十戒を順に学んでいます。先週は第二の戒、その前は第一の戒を学びました。少し思い出してみましょう。十戒の第一の戒は何だったでしょう。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」でした。第二の戒は「あなたは自分のために、きざんだ像をつくってはならない。」でしたね。神様は私たちのお父さんですけれど、家にいるお父さんは別にして、他のどんなものも「お父さん」と呼ぶことはあり得ないことです。皆さんは、隣の叔父さんに「お父さん」なんて絶対言わないでしょう。どんなに大好きなアニメの主人公も、国宝と言われる仏像も、すてきな車も、私たちの「お父さん」にはなりませんし、「お父さん」と呼ぶこともありません。当たり前ですね。天の父なる神様だけが、この世界を造り、私たちを造り、すべてを導いてくださっている「お父さん」、父なる神様です。

4.十戒の第三戒
 さて、十戒の第三の戒はこういうものです。「あなたはあなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない。」です。少し難しいですね。これは、私たちが父なる神様に向かってお祈りする時の心を教えています。みなさんはお祈りをしますか? 教会に来た時はお祈りするけれど、それ以外ではあんまりしない。そういう人もいるかもしれません。でも、神の家族である私たちにとって、お祈りはとても大切なんです。
 ある青年と話をしていたら、こんな話になりました。その青年はこう言うんです。「教会に来ていたけれど、普通の時はあんまりお祈りしない。」それで、私が「それじゃ今までお祈りしたことないの?」と聞くと、「いや、高校受験の時は祈った。あの時はマジ祈った。」「それだけ?」と聞くと、「うーん、母さんが病気になった時も祈ったかな。」って言うんです。正直な答えだと思いました。
 私たちは困ったことがあるとお祈りする。神様に頼る。そういうことなのかもしれません。それは悪いことではありません。しかし、神の家族である私たちのお祈りは、それだけではないのです。お祈りするということは、神様に向かって「お父さん」「父よ」と呼びかけることです。
 みんなが「お父さん」になって少し考えてみましょう。
 一番目。「お父さん、お父さん。」と呼ばれます。「どうした?」とお父さんは応えます。すると、「別に、なんでもない。」と言われたとします。また、「お父さん、お父さん。」と呼ばれます。「どうした?」とお父さんは応えます。すると、「別に、なんでもない。」と言われたとします。これが一回や二回ならいいけれど、三回、五回、十回と続くとどうでしょう。「いいかげんにしなさい!」と言うに決まっています。
 二番目。それじゃ、こうならどうでしょう。
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「あのバッグ買って。」「えー、バッグならこの間買ってあげたじゃない。ダメだよ。」「ケチ!」
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「新しく出たナイキのシューズ買って。」「えー、この間買ったシューズ、まだあんまり履いてないじゃないか。ダメだよ。」「ケチ!」
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「あの服買って。」「えー、この間同じの買ったじゃない。」「違うよ。ここの色が少し違うんだよ。」「ダメだよ。」「ケチ!」
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「新しいゲームソフト買って。」「お前さ、何か買って欲しい時だけ、『お父さん、お父さん』て、それしかないのか。」そんなふうになってしまうでしょう。
 三番目。では、こうならどうでしょう。
「お父さん、おはよう。」そう言われたら、お父さんも「おはよう。」と言います。
「お父さん、行ってきます。」と言います。そうすると、お父さんも「行ってらっしゃい。」と言います。
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「今日お友だちとケンカしちゃった。」「何があったの?」「あのね、トモちゃんがずっとブランコに乗っているから、代わってって言ったの。そしたら、イヤだよって言うから、そんなのズルいって言ったら、ケンカになっちゃったの。」「そう。あした仲直りできるといいね。」「うん、そうする。」
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「今日トモちゃんと仲直りしたよ。」「それは良かったね。」「うん、うれしかった。」
「お父さん、お父さん。」「何だい?」「いつもありがとう。大好き。」「お父さんも大好きだよ。」
 もう分かりますね。私たちの祈り、天の父なる神様に対しての祈りは、三番目の「お父さん、お父さん。」です。お父さんは、私たちに何かを買ってくれる、それだけの方ではありません。天の父なる神様は、私たちが「欲しい」と言う前から、すべてを御存知であって、すべてを与えてくださっています。そのことが分かれば、「神様、天のお父様、ありがとう。大好き。」と言うでしょう。また、私たちが困っている時も、神様はすべてを御存知ですから、正直にそのことを言って祈ればいいのです。神様は必ず私たちに一番良い道を与えてくださいます。そのことを信じて、天の父なる神様を信頼して、お祈りしましょう。それが私たちの祈りです。

5.みだりに
 第三の戒、「主の名をみだりにとなえてはならない。」で難しいのは、「みだりに」という言葉ですね。子どもたちだけではなくて、大人にも難しいことです。この「みだりに」という言葉は、「無意味に」「空しく」「偽って」という意味です。つまり、「みだりに」というのは、神様を信頼せず、愛することもせず、自分の利益のために神様を利用しようとしてお祈りすることをです。そのような心でお祈りしてはいけないと神様は私たちに教えているのです。
 「みだりに」というのは回数を言っているわけではありません。ですから、神様に向かって「お父さん」と呼びかけて祈るのは、一日に何回しても、「みだりに」ということにはなりません。それどころか、神様は私たちが一日に何回も何回も「お父さん」と呼びかけて祈ることを喜んでくださいます。でも、神様を自分のために利用してはいけません。相手を自分の利益のために利用する、そこに愛はないからです。私たちは自分のお父さんやお母さんを利用したりはしません。神様のことを利用したりもしません。
 目に見える像を「神様」と言って拝む人はきっと、この神様との間にある愛を知らないのでしょう。神の家族である私たちは、父なる神様を愛しています。父なる神様も私たちを愛してくださっています。この愛の言葉が祈りなのです。

6.神様を自分の正しさのために利用しない
 今、世界では多くのテロが起きています。この間のイースターに、スリランカでイースターの礼拝をしていた教会で爆発があり、130人以上の人が亡くなりました。「私の信仰は正しい、お前の信仰は間違っている。だから、お前を殺す。」こんなことがあってはなりません。信仰上の正義を振りかざして、テロを行う。それは、神様を自分の正義のために利用しているのです。これは全く神様の御心に適いません。この十戒の第三の戒に反しています。私たちは神様の名を使って、人を呪ってはなりません。呪いではなく、祝福こそ、神様が私たちに求めておられることだからです。神様の御名によって、この世界が平和に満ちるよう祈りを合わせたいと思います。

[2019年5月26日]

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