富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしたちは主のもの」
ローマの信徒への手紙 14章7〜9節

小堀 康彦牧師

1.2019年度の教会聖句
 私共は今日、礼拝後に2019年度の定期教会総会を開きます。教会総会を行う日の御言葉は、その年の教会聖句ということになっています。今年の教会聖句は、ローマの信徒への手紙14章8節b「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」という御言葉です。既に4月の第一の主の日から週報の表紙に印刷されています。私共は、この御言葉を心に刻んでこの2019年を歩んでまいりたいと願っています。
 この御言葉は、私共が何者であるかということを明確に告げております。私共は、社会的な立場から見れば実に多様です。学生もいれば、会社で働いている人もいます。もう会社をリタイアした人もいます。結婚している人もいれば、まだ結婚していない人もいますし、配偶者を既に天に送った人もいます。健康な人もいれば、病気の人もいます。しかし、私共は主のものです。どんな状況の中を生きていようと、主のものです。神様のもの、イエス様のものです。私共は主イエス・キリストという主人を持っている。私共は神の子、神の僕とされた者です。このことをしっかり心に刻むなら、私共はどのように生きるのか、そのこともおのずと明らかになります。

2.主のものとされるための代価
 まず、私共はどのようにして主のものとされたのか、そのことをはっきりさせておかなければなりません。私共は、ただイエス様の十字架と復活によって一切の罪を赦され、永遠の命に与る者とされました。私共は、感謝と喜びをもってこの救いの恵みを受け取り、洗礼を受けました。この救いの恵みに与ることによって、私共は神のもの、イエス様のものとなりました。イエス様が十字架の尊い血をもって、私共を罪と死とサタンの支配から救い出し、義と命と神様の御支配のもとに生きる者としてくださいました。
 実に、私共を神様のもの、イエス様のものとするために、イエス様の十字架という尊い代価が支払われたのです。私共が主のものとされるために支払われた代価、イエス様の十字架の死。これを抜きにして、主のものとされた恵みに生きることは出来ません。主のものとされた者として生きるということは、このイエス様の十字架にお応えして生きるということです。このことは、どんなに強調しても強調し過ぎることはありません。イエス様の十字架によって新しい命に生きる者とされた私共は、この十字架を見上げて生きる者とされた。この十字架の前に生きる者とされたということです。「神の御前で」Coram Deo です。この「神の御前で」というのは、「十字架のキリストの前で」ということです。私共は十字架をアクセサリーのように首からさげたりはしません。しかし、いつでも、どこでも、誰に対しても、キリストの御前に生きる者として生きる。私共はこの姿勢をしっかり形作っていかなければなりません。それは、いつでも、どこでも、誰に対してもです。

3.生きるにしても、死ぬにしても
 聖書は、私共が主のものであるということは「生きるにしても、死ぬにしても」そうなのだと告げます。生きている時だけ、私共は主のものなのではありません。死んだとしても、私共は主のものであり続けます。それは、イエス様が復活されたからです。イエス様は十字架の上で死んで、三日目に復活されました。私共が主のものであるというのは、この死んで復活されたイエス様のものであるということなのですから、私共が死んだら終わりということではなくて、死んでもイエス様のものであり続けるということなのです。生きている時も、死ぬ時も、死んだ後も、私共は主のものです。イエス様のものとされることによって、私共は自らの死を超えた命、復活の命、永遠の命に与る者とされました。このことをしっかり心に刻んでおきましょう。
 2018年度、私共は6人の愛する兄弟姉妹を天に送りました。そして、先日のイースターの直前にS・S姉を天に送りました。愛する者を天に送るということは本当に悲しいことです。しかし、天に送ったということは、イエス様のおられる所に送ったということであり、イエス様のもの、主のものであるということにおいては少しも変わらない。主を愛し、主に愛され、主をほめたたえ、主と共にある。これは少しも変わらない。主のものであるというこの恵みの現実、救いの現実は、私共の肉体の死によっても少しも損なわれることはありません。私共はこのことをしっかり心に刻んでおかなければなりません。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」なのです。

4.主のために生き、主のために死ぬ
 さて、主のものとされた私共はどのように生きるのか。聖書はこう告げます。7節〜8節a「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」
ここで、「自分のため」「主のため」という言葉が繰り返し語られます。主のものとされた私共は、自分のために生きるのではなく、主のために生きる。自分のために死ぬのではなく、主のために死ぬというのです。しかし、この「〜のため」と訳されている言葉はなかなか難しいのです。この訳をそのまま普通に受け取りますと、主のものとされた私共は、自分の願いや希望を実現するためではなくて、主の御用のため、主の御心が実現するために、自分の人生を用いるのだ。死ぬときだって主の御業に仕える者として死ぬのだというように読めます。まるで、殉教しないといけないかのようにさえ読めます。結論としてはそうなるのだと思いますけれど、この「自分のため」「主のため」というのは、元々はそういう意味ではないのです。
 ある人は、この「自分のため」「主のため」というのを、「自分に対して」「主に対して」と訳しました。つまり、私共は神様に相対して、神様との関わりの中で生きている。まるで自分の姿が映る鏡を見ながら生きるような、自分のことしか興味がないような、自分に相対していて生きるのではない。私共は神様を抜きにして生きる者ではなくなった。そういう意味なのだというのです。確かにそうだと思います。それが私共キリスト者です。自分だけで完結しない。神様との関わりの中で生きている、生かされている。死もそうだ。自分で死ぬ時を決められるわけじゃない。神様の御手の中にあることです。この地上に命を受けたことも、この人の夫、妻、子となったことも皆、神様の御手の中でのこと。そして、その神様は、私のために愛する独り子さえも与えてくださったお方です。この神様との関係、絆と言っても良い。信仰を与えられ、洗礼を受け、神様のものとされた、イエス様のものとされた、この恵みの事実は何によっても取り消されることはありません。この神様との関係・絆は、何ものも断ち切ることは出来ないのです。死さえもそれを断つことは出来ません。神様のもの、イエス様のものとされた私共は、神様・イエス様を主人として持つ。主の僕として生きる。神様の御前に生きるのです。

5.神の僕として生きる
僕として生きるということは、何か不自由な、不愉快なことでしょうか。この「僕」と訳されている言葉は、直訳すれば「奴隷」です。勿論、私共は誰かの奴隷としてなんて生きたくはありません。自由に生きたいと思う。当然のことです。しかし、それは主人によるのではないかと思います。わがままで自分勝手な主人の僕なら、私を少しも愛してくれず、ただの道具としてしか扱わない、そんな主人の僕なら、誰しも嫌でしょう。しかし、私共の主人はそのような方ではありません。私共の主人は、私共を愛し、必要なものをすべて与え、何よりも私共を罪と死とサタンの手から救い出してくださったお方です。そして、愛する独り子さえも惜しまずに与えてくださったお方です。自分のことしか考えられなかった私共を造り変えてくださり、愛と真実に生きるようにと道を備えてくださったお方です。肉体の死で終わらない命を与えてくださったお方です。だから、私共は喜んでこの方の僕として生きていきたいと思うのです。この方と離れて自分の愉しみだけを求めて生きていきたいとは思わないのです。この方の元においてしか、本当の自由はないからです。私共はイエス様という主人を持つ前、本当に自由だったでしょうか。自分の欲や罪に引きずられ、少しも自由ではなかったのではないでしょうか。
 改革派教会の大切な信仰の遺産の一つであるハイデルベルク信仰問答は、問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」で始まります。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」とあります。私共が自分自身のものではない。これが慰めなのです。これが救いなのです。私共が自分自身のものだと思っていた時、私共は自分の欲に引きずられて生きているだけだったからです。その時、私共の主人は自分ではありませんでした。自分の主人は自分をそそのかしていたサタンであり、神様に背を向けたままで生きていた罪に捕らわれた私共でありました。しかし、今は違います。
 私は、高校を卒業するまで教会に行ったことがありませんでした。その時の私の願いは、いい大学に行って、出世して、偉くなって、きれいな人と結婚する、そのくらいのことしか考えられませんでした。私は、そんな願いを達成することが、成功した人生だと思っていました。それ以外のことを知らなかったのです。目に見える何かを手に入れることしか考えられなかった。しかし、それを手に入れることだって、そんなに上手くいくものではありません。それを手に入れなければ、失敗、負け組。そんなレベルでしか、人生を考えることが出来なかった。悲しいほどに愚かでした。
 しかし、イエス様に出会い、全く変わりました。勿論、そのような目に見えるものを手に入れることが無意味だとは思いません。しかし、もっと大切なことがある。一回しかない人生、それを本当に意味のあるものにする。失敗のない、悔いのない人生にする。その道を教えられました。それが、神様の僕として生きる、キリストのものとして生きるという道です。

6.主のものとされた喜びと誇り
 この道においては、目に見える何を手に入れたかにはそれほど大きな意味はありません。目に見えるものは、どんなものであってもやがて消えていくからです。しかし、神様・イエス様に愛され、愛し、この方の言葉に従って為すべきことを為す。それがどのような結果になるのか、それは大切ですけれども、それよりも決定的に大切で意味のあることは、この方との愛の交わりに生き、この方に従って生きることです。それが何よりも大切で、価値があり、決して消えてなくなってしまわないものであることを知りました。やがて、この地上での人生を閉じても、神様は私の歩んだすべての道を御存知であり、それを神様御自身の永遠の記憶の中にとどめてくださる。この方が知っていてくださる。これが私の喜びであり、私の誇りとなりました。キリストのものとされている。神の僕とされている。それは、私共に喜びと誇りを与えます。そして、この喜びと誇りは、何によっても奪われることはありません。肉体の死さえも、それを奪うことは出来ないのです。

7.新しい心
 この喜びと誇りに生きる時、私共に新しい心が与えられます。それは、一瞬にして与えられるものではありません。少しずつ変えられていくのですが、その新しい心の一つの特徴は、人を裁かない、人を侮らないという心です。目に見える何かを手に入れることが人生の意味だと思っている人は、それを手に入れなければ負け組、それを手に入れれば勝ち組と思っています。私は、この勝ち組、負け組という言葉が本当に嫌いなのです。言葉だけではなくて、そのように自分を見る、そして他の人を見る。このこと自体が違う、根本的に違うと思います。
 10節で、パウロは「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」と言います。この裁かない、侮らないという新しい心はすぐに与えられるものではないので、キリストの教会の中に「人を侮ったり、人を裁いたりする」人、そんな人は全くいないとはなかなか言えません。しかし、私のためにキリストが十字架にお架かりになってくださったということを本当に知らされる中で、私共は自らの罪に気付かされます。そして、悔い改めます。主に赦しを願い求めます。その営みを続けていく中で、私共は確かに変えられていきます。
 人を裁いたり侮ったりする心は、私共の罪の根っこに巣くっているものですから、そう簡単に、きれいさっぱり無くなりましたという風にはなりません。しかし、変えられていきます。何故なら、神様は、イエス様は、私をそのように見ておられないからです。私だけではありません。私の周りにいる一人一人に対しても、神様はそのようには見ておられない。この神様のまなざしが、私のまなざしとなる。そのようにして、私共は少しずつ変えられていくことになります。そして、キリストの教会は、キリストの体にふさわしいものとされていくのです。
 ここに、この世界の希望があります。この世界は、目に見えるものがすべてであるとして、政治も経済も動いています。しかし、それがすべてではないことをはっきりとその存在をもって示していくのが、キリスト者であり、キリストの教会なのです。この世界も変えられていかなければなりません。自分と違う者を裁き、侮るのではなくて、これを受け入れ、愛の交わりに加えていく。それが、キリストのものとされている私共の責任でもあるのです。
 教会ほど多様な共同体はありません。赤ちゃんから90歳を越えた人まで、様々な人がいます。しかし、皆キリストのものとされた者たちなのです。この方をほめたたえ、この方との交わりに生き、この方の御言葉に従い、この方のまなざしを自分のまなざしとし、この方の心を自分の心として、共に歩んでまいりたいと思うのです。

[2019年4月28日]

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