1.はじめに
来週の主の日は、イエス様の御復活を祝うイースター記念礼拝です。イエス様の御復活は、イエス様が十字架の上で死なれたということと、ひとつながりの出来事です。十字架と復活はセットになっているのです。復活抜きの十字架もありませんし、十字架抜きの復活もありません。この十字架と復活は、イエス様とは誰であるのか、イエス様の救いとは何なのか、そして私共は一体どのような者なのか、そのことをはっきり私共に示しております。今朝は、特にイエス様の十字架の死という出来事をしっかり心に刻みたいと思います。
イエス様の十字架、それは世界中どこの教会にも高く掲げられております。キリスト教会のシンボルです。十字架の形や掲げ方に違いはあっても、十字架を掲げていないキリスト教会はありません。私が育った教会の礼拝堂の中には十字架はありませんでした。しかし、礼拝堂の屋根には十字架が立てられていました。私共の会堂の上には十字架は立てられておりませんが、建物の壁に十字架が付いています。礼拝堂に入りますと、その十字架の形に切られた壁が正面にあります。
2.罪人の処刑としての十字架
私共は十字架と言えば、イエス様の十字架を考えます。当たり前のことです。しかし聖書は、十字架は一本だけ立てられていたのではない、イエス様の十字架の右と左にも一本ずつ十字架が立てられていたと告げています。38節「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」とあります。イエス様が十字架に架けられたとき、二人の強盗がイエス様の左右の十字架につけられたのです。十字架は三本立てられていたのです。この三本の十字架に何か違いはあったでしょうか。見た目には、この三本の十字架には何も違いはなかった。イエス様の十字架だけ輝いていたわけではありません。強いて言えば、イエス様は鞭打たれて、御自身で十字架を担げないほどでしたから、三人の中ではイエス様が一番弱られていたでしょう。イエス様の十字架は、罪人に対しての処刑だったのです。つまり十字架の死とは、罪人に対する裁きとしての死であったということです。私共はこのことをまず受け止めなければなりません。
人は必ず死にます。何故人間は死ぬのか。それは罪に対する裁きであると聖書は告げます。ローマの信徒への手紙6章23節「罪が支払う報酬は死です。」と言われているとおりです。最初の人類であったアダムとエバが神様に対して罪を犯した、そして人は死なねばならなくなったということです。これは昔話ではありません。人間というものが、神様に裁かれなければならない罪を例外なく持っているということ。人間は神様に裁かれなければならない存在だということです。しかし、人はそのことを忘れ、いつの間にか、死を単なる自然現象と捉えるようになってしまいました。このイエス様の十字架を見る時、私共は死が罪の裁きとしてあるのだということを改めて思い起こすのです。私共は、罪人であるが故に死ななければならないということです。例外はありません。罪を犯したことのない人がいれば、その人は死ぬことはない。しかし、そのような人は一人もいない。だから、人は例外なく死ななければならないのです。
ローマの信徒への手紙6章23節は「罪が支払う報酬は死です。」と告げて、続けて「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と告げるのです。何故か。それは、イエス様の十字架の死は、私共のために私共に代わって神様の裁きをお受けになった死だからです。先ほどお読みいたしましたイザヤ書53章は、イエス様の十字架の死を預言した、旧約における代表的な所です。イザヤは、4〜5節で「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と預言しました。私共の身代わりとして神様の裁きを受けるイエス様を預言したのです。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」のです。私共の罪の裁きとしての死は、イエス様の十字架の死によって担われた。それ故、私共の死は神様の裁きによる永遠の死ではなくなったのです。死は死で終わらず、永遠の命へと続くものになったのです。
3.徹底して罪人と共に
三本の十字架が意味していることは、それだけではありません。イエス様は、罪人として処刑される強盗と共に、その死を味わわれた。それは、罪人として処刑されるべき私共と共に、その死ぬ時まで共にいてくださるということです。私共は罪人としての死を免れることは出来ません。しかし、その死は、イエス様と共にある死であり、決して一人で死を味わうのではないということです。イエス様が天より下り、人となられたということは、この十字架の死を迎えるためでした。あのクリスマスの出来事以来、イエス様は罪人である私共と共にあるお方、共に歩まれるお方として教えを宣べ、奇跡を為されました。そして、その「罪人と共にある」というあり方は、この十字架の死に至るまで徹底されたのです。死ぬまで一緒、いや死んでも一緒。イエス様は、私共と共に生きるその姿、私共を愛してくださるその愛を、この十字架の死まで徹底されました。
イエス様が味わわれた十字架の死は、最も残忍な処刑法と言われます。すぐに死ねないからです。イエス様は午前9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取るまで、6時間にわたって十字架の上で苦しまれました。それは、右と左の十字架につけられた強盗と同じ苦しみを味わわれたということです。それは、私共が味わう死の苦しみを、イエス様は共に味わい、共に歩まれるということです。そのことによって、私共が肉体の死を超えた命、復活の命、永遠の命を仰ぎ見つつ死を迎える道を備えてくださったということなのです。
このイエス様と共に十字架に架けられた二人の強盗は、私共の姿を示しています。私共は十字架に架けられて死ぬのではなく、病院のベッドの上で死を迎えるのかもしれません。しかし、同じことです。イエス様は、右と左で十字架につけられた強盗と共に、死ぬまで一緒に同じ苦しみを味わわれた。それと同じように、イエス様は私共が死を迎える病院のベッドの傍らにおられ、そして私共に告げるのです。「安心しなさい。わたしが共にいる。あなたの裁きは既に我が身に受けた。だから、あなたは永遠の死という裁きを受けることはない。わたしの命、わたしの復活の命、わたしの永遠の命に与ることになる。」このイエス様の言葉を、私共は死を迎える時も聞くことになる。そのことを信じて良いのです。
そして、私共は死を迎えようとしている愛する者に、このイエス様の言葉をイエス様に代わって告げたら良い。たとえその人が、共におられるイエス様を信じることが出来なくても、その人に代わって私共が信じて、その人に告げてあげたら良いのです。
「イエス様は本当に私のような者をお見捨てにならないのでしょうか。」そのような不安を持つ人もいるでしょう。そのような人に対しても、私共は告げたら良い。「大丈夫。イエス様は誰も見捨てません。その確かなしるしとして、イエス様は私共のために私共に代わって十字架にお架かりになってくださったのです。あなたのためにイエス様は十字架にお架かりになった。それは確かなことです。」
4.十字架の下で
イエス様の十字架は、皆がその前にひれ伏すべき出来事でした。しかし、実際はそうではありませんでした。それはいつの時代でもどの国でも変わらないと私は思います。35〜36節「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」とあります。「彼ら」とは兵士たちのことです。イエス様が十字架に架かり、すべての人の罪を担って苦しまれているのに、そんなことは知ったことではないとばかり、兵士たちはイエス様の服を分け合うためにくじを引いて損だ得だとやっている。目の前の損得勘定がすべて。イエス様のことなんて知ったことではない。この兵士たちの姿に、この世界の有り様が現れています。
クリスマスはサンタクロースの祭りとなり、イースターは春を告げるウサギの祭りとなる。キリストがいないクリスマス、キリストがいないイースター。儲かれば良い、楽しければ良い。それが、いつの時代でも多くの人の心にある本音なのでしょう。
イエス様は十字架の上で、この兵士たちの声を聞き、その姿を見ていた。しかし、彼らに何も言われませんでした。何故なら、イエス様は人間のそのような有り様を百も承知だったから。そして、そのような人間のために十字架にお架かりになったからです。私共は聖書を読んで、この兵士たちの姿を、「何ということか。」と思う。しかし、この兵士たちの姿こそ私共自身の姿である、と聖書は告げているのでしょう。この兵士たちもまた、イエス様の十字架に担われているのです。強盗と共に、三本の十字架の真ん中にイエス様がお架かりになったとは、そういうことです。
5.十字架の上で罵られて
それは、十字架にお架かりになったイエス様をののしった人々も同じことです。十字架に架けられたイエス様に対して、39〜44節に、通りかかった人々も、祭司長たちも律法学者たちも長老たちも、そして一緒に十字架につけられた強盗たちさえも、イエス様をののしり侮辱しました。イエス様の十字架の前でひれ伏す者は一人もおりませんでした。ここを読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。何とひどい人たちだと思うでしょうか。私も本当にひどいと思います。何ということかと思います。彼らは言います。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」
「神の子なら、自分を救ってみろ。」この言葉は、以前にも聞いたことがあります。マタイによる福音書4章にあります、イエス様が荒れ野でサタンの誘惑を受けた時のことです。サタンは空腹のイエス様に言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」また、サタンはイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」この時、十字架のイエス様をののしり侮辱した人々は気付いていなかったでしょうが、彼らはサタンと同じことを言っていたのです。つまり、サタンの手先になっていたのです。サタンの一番の目的は何でしょう。それはイエス様を十字架に架けさせないこと、復活させないこと、神様の救いの御計画を台無しにすることです。サタンは、この時イエス様を最も激しく誘惑したのです。イエス様がこの時十字架から降りれば、神様の救いの御計画は頓挫してしまいます。だから、イエス様は十字架から降りることはなさいませんでした。
イエス様は神の御子であり、全能の力をお持ちですから、この時十字架から降りようと思えば降りられた。しかし、そうされなかった。そんなことをすれば、神様の救いの御計画が失敗してしまうからです。イエス様は、「他人は救ったのに、自分は救えない。」ではなくて、「他人を救うために、自分を救わない。」のです。これは、イエス様をののしる人々には分かりませんでした。何故なら、彼らは自分が一番であって、自分を救うために他人を陥れることはあっても、他人の救いのために自分を救わないなどということはあり得ないこと、考えたこともないことだったからです。しかし、イエス様は神様の愛を示すために来られた方でした。ですから、イエス様には、十字架から降りるなどということこそ、あり得ないことでした。
イエス様は、この人たちにも何も言い返さず、反論もしませんでした。何という忍耐でしょう。それは、イエス様はこうなることを百も承知でしたし、この人々のためにこそ、イエス様は十字架にお架かりになったからです。人々はイエス様を捨てました。しかし、イエス様はお捨てにならない。ルカによる福音書23章34節には、「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」と記されています。
イエス様の十字架の救いは、御自分をののしり、侮辱し、十字架につけた者たちの上にも及んでいます。だから、イエス様の救いから外れる人は一人もいないと言い切れるのです。これが十字架によって示された神の愛なのです。もし、彼らがイエス様の救いから外されるならば、一体私共の誰が救われるでしょう。彼らは何をしているのか知らないのです。もし彼らが、自分のしていることがどういうことなのか知ったのなら、彼らは畏れをもって神様、イエス様に赦しを求めることでしょう。それが悔い改めということです。悔い改める人をイエス様は必ず救いに与らせてくださいます。例外なしにです。
6.もしイエス様が十字架から降りたら
ところで、もしイエス様が彼らの前で十字架から降りたらどうなるでしょう。彼らは悔い改めて、イエス様の前にひれ伏したでしょうか。きっとそうはならず、人々は蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げ去ったことでしょう。そして、「あいつこそ悪魔そのものだ。あいつは十字架でも殺すことが出来なかった。恐ろしや、恐ろしや。」と言いふらしたのではないかと思います。そもそも、イエス様が十字架から降りて来てしまえば、神様の救いの御計画は台無しになってしまうのですから、この時世界は滅んでしまっていたことでしょう。しかし、そうはならなかった。この世界はまだ保持されている。それは神様が悔い改めることを待っておられるということです。目の前の損得勘定がすべてであり、十字架のイエス様をののしり、イエス様の前にひれ伏すことを知らないこの世界に対して、すべての人々に対して、神様は待っておられる。悔い改めて福音を信じることを待っておられる。この思いを受け止め、私共はイエス様の福音を、十字架の愛を宣べ伝えてまいりたい。そう願うのであります。
[2019年4月14日]
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