1.選ばれたアブラハム、神の民
今、創世記12章の、神様がアブラハムを召し出された言葉を読みました。アブラハムはこの神様の召命に従って故郷を離れ、旅立ちます。ここから神の民の歴史が始まりました。アブラハム、イサク、ヤコブと続きまして、ヤコブの12人の息子たちの家系によって、イスラエルの12部族が生まれます。ヤコブの息子ヨセフはエジプトに売られていき、エジプトで宰相にまでなって、ヤコブの一族を皆エジプトに招きます。ヤコブの一族はエジプトで増えて、イスラエル民族となります。しかし、エジプトの王様が代わり、イスラエルの民は奴隷の状態に没落します。そこで、神様によってモーセが立てられ、エジプトを脱出する出エジプトの旅があって、約束の地カナンに移り住みます。イエス様が生まれるより千年以上前のことです。このイスラエルの歴史の中で旧約聖書が与えられました。旧約の歴史の中で語らねばならないことはたくさんありますけれど、アブラハムに始まるイスラエルの民が、神の民とされた。神様の愛を受け、神様の御心を示され、神様と共に歩む特別な民とされた。今朝、私共が改めてこの神の民について聖書から示されますことは、何のために神様はアブラハムを選び、このような神の民を造られたのかということです。
その目的は、神の民の出発の所、神様がアブラハムに語られた言葉の中にはっきり示されております。それは、創世記12章3節の後半「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」という言葉です。アブラハムが選ばれ、イスラエルという神の民が造られたのは、地上のすべての人が神様の祝福に与るためだった。神様との交わりを与えられ、神様の救いに与るためだったということです。しかし、イスラエルの民はいつの間にかそのことを忘れてしまい、「自分たちは神様に選ばれた特別な民だ。自分たちは他の民とは違い、神様を知っている。だから、自分たちは偉い。優れている。聖なる民だ。自分たちだけが救われる。他の民は皆、神様によって滅ぶのだ。」そんな風に考えるようになってしまいました。これは明らかに、神様がアブラハムを選び、神の民を造られた意図とは違っています。神様はイスラエルを、すべての民を救うために用いる、そのために選ばれたのです。
こう言っても良いでしょう。どの民族、どの国民も、自分たちが優れた民だ、特別な民だ、そう思いたい。これが民族主義やナショナリズムというものの根っこにあります。ユダヤ人の場合はこれと信仰とが一体になってしまった。ユダヤ民族主義に聖書の信仰が飲み込まれて、一体となってしまったのです。その結果、ユダヤ教はユダヤ人の民俗宗教となってしまいました。しかし、これは聖書が告げる神様の御心とは違います。確かに、ユダヤ人は神の民です。しかし、その意味を取り違えてしまったということです。
2.神様の選び
さて、ここでもう一つ考えておかなければならないことがあります。それは神様による選びということです。何故、神様はアブラハムを選び、イスラエルという神の民を造られたのか。何故アブラハムだったのか、それは私共には分かりません。それは、何故モーセだったのか。何故ダビデだったのか。何故マリアとヨセフだったのか。何故ペトロであり、ヨハネであり、パウロだったのか。更に言えば、何故私だったのか。それは私共には分かりません。これは選んだ神様にしか分からないことです。選んでいただいた者にはその理由は全く分からないのです。ただ言えることは、この神様の選びに与ったのは、選ばれた人間の側に何かそれにふさわしい優れた良い点があったわけではないということです。
神様はイスラエルの民を選んだ理由について、こう告げておられます。大変有名な箇所ですが、申命記7章6〜8節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」とあります。イスラエルの民は、数も少なく貧弱でした。文明という点から見ても、他の民より早く鉄を用いたとか、特別な発明品を持っていたいうこともありません。イスラエルは、当時の最先端の文明を持っていたエジプトやメソポタミアといった文明に囲まれて、それを用いただけです。しかし、このイスラエルを神様は愛されたのです。この神様の愛だけが、イスラエルが選ばれた理由です。
それは、神様のすべての選びについて言えることなのです。何故なのかは分かりませんけれど、神様はアブラハムを選ばれた。そして、イスラエルの民を造られた。大切なことは、それはすべての民を救うためであったということです。つまり、アブラハムにしても、イスラエルの民にしても、モーセにしても、確かに神様に選ばれたのですけれど、それはすべての民を救うという壮大な神様の救いの御計画、そのためにその時必要な者として選ばれ立てられたということです。イスラエルは確かに神の民です。しかし、それはもっと大きなすべての民の救いに向けて用いられるためのものだったということです。
3.波紋のように広がる神様の救いの御業
こういうイメージでお話しすることも出来るかと思います。それは、池の中に石を投げ込む。すると、波紋が池全体に広がっていきます。神様の救いの業というのは、そのように全体に広がっていくのです。しかし、波紋が全体に広がっていくには時間が必要です。そこで、早く救われる者、後で救われる者、という順番が生まれます。神様の選びというものは、この順番が生じる時に必然的に生じるものなのではないかと思うのです。投げ込まれた石の近くにいた者はすぐに波紋に会う。遠くにいた者は遅くなる。この近さ、遠さというのは、地理的なこともあるでしょうし、文化的な近い、遠いもあるでしょうし、それこそ様々な歴史の中で生じるものでしょう。
私は、18歳まで生まれ育った環境の中で、キリスト者に会ったことはありませんでした。その意味では私は遠くにいました。しかし、通った幼稚園がカトリックの幼稚園で、シスターや神父には幼い時に会っていました。それが18歳でキリストの教会に行く、遠いきっかけになっていたことは確かです。でも、その幼稚園出身の者がみんなキリスト者になったわけではありません。私も神様に選ばれたのです。
この波紋のイメージは、明治に入る前に宣教師によって横浜にキリスト教が入り、そしてトマス・ウィンによって金沢に伝えられ、そして富山に伝えられた。そこでも適応出来ます。横浜からすぐに富山に来たのではありません。金沢経由なのです。早い、遅いが起きるのです。
この波紋の最も大きな始まりはイエス様の十字架と復活ですが、それだけではなくて、その波紋が伝わる中で神様は幾つもの出来事を起こし、波紋は幾重にも重なりながら広がり続けている。その波紋の中で私共は、こうして今日も主の日の礼拝をささげているということなのです。
4.ティルスとシドン
さて、今朝与えられた御言葉ですが、イエス様はティルスとシドンの地方に行かれました。このティルスとシドンという町は、聖書の巻末の地図6を見ますと、地中海に面したフェニキア人の町であることが分かります。フェニキア人というのは、一時はローマと地中海の覇権を争ったカルタゴという町を造った人々で、地中海貿易で栄えた民です。そのフェニキア人の町にどうしてイエス様が行かれたのか。この直前の所で、エルサレムからファリサイ派の人々と律法学者たちが来て、イエス様が昔の人の言い伝えを破る、具体的には食事の前に手を洗わないということですが、これに対して非難して論争しました。ここで大切なのは、彼らがエルサレムから来たということです。イエス様はエルサレムにおいて十字架にお架かりになる。それが神様の御計画です。しかし、まだその時ではない。そこでイエス様は一旦退かれた。異邦人の住むティルスとシドンの地方ならばエルサレムの人々の手も届かない。そういうことではなかったかと思います。ここで、イエス様はカナン人の女性と出会います。カナン人というのは、イスラエルの民が出エジプトしてカナン地方に定住するようになる前から、この地方に住んでいた人々のことです。先住民と言っても良いかもしれません。当然、ユダヤ人から見れば異邦人です。
5.三段階の拒否
彼女には悪霊にひどく苦しめられている娘がいました。彼女は、イエス様がガリラヤにおいて為された様々な奇跡の話を聞いていたのだと思います。そこで彼女は、イエス様に助けを求めたのです。22節「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」このような求めに対して、私共は、イエス様がこの女性を憐れんで、すぐにいやしてくださると思います。今までそうだったのですから、当然そうされると思う。しかし、この時はそうではありませんでした。
イエス様はこの時、三段階の拒否をされます。第一段階は、無視です。彼女はイエス様に助けを求めて叫ぶのですけれど、イエス様は何もお答えにならなかったのです。しかし、彼女は助けを求めて叫びながらイエス様について来ます。
第二段階、イエス様はこう言われます。24節「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」はっきりした拒否です。この言葉は、「今は」という言葉を補って読むと、意味が明確になると思います。イエス様は十字架にお架かりになって、すべての民を神様の救いに与らせることになるのですけれど、「今は」まだその時が来ていない。そういう意味だったと思います。しかし、この女性にしてみれば、あからさまな拒否です。でも、この言葉にも彼女はひるみません。彼女はイエス様の前にひれ伏して、なおイエス様に助けを求めるのです。25節「主よ、どうかお助けください。」これは、元の言葉を直訳しますと、「主よ、助けて、わたしを」です。「主よ、わたしを助けて。」日本語としては「助けて!」とした方が良いかと思います。
これに対して、第三段階です。イエス様は、26節「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」と言われました。この「子供たち」というのはイスラエルの民のこと、「小犬」というのは異邦人のこと、「パン」というのは神様の救いの恵みということです。
さて、私共ならどうでしょうか。第一段階のところで諦めてしまうかもしれません。第二段階なら、「そんな風に言うのならもう頼まない。なんだ、偉そうにして。」そんな風に腹を立てて、イエス様のもとから去って行くかもしれません。
しかし、この女性はそうしなかった。「助けて!」と叫び続けた。そして第三段階。自分を小犬とまで言われたら、そこまで拒否されたら、もうダメだと思うでしょう。しかし、彼女はひるまず、イエス様の言葉を逆手にとって、こう言うのです。27節「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」「主よ、ごもっともです。」と訳されている言葉を英語の訳で見ますと、「Yes,Lord.」です。「はい、主よ。」と訳せば良いでしょうか。小犬と言われて、それさえも「はい、そのとおりです。」と受け入れ、そして、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と切り返したのです。何という機転、頭の回転の良さ。いやそれ以上に、何ともしぶとい、決して諦めない、イエス様に対するこの態度。これこそ、旧約以来の神の民と神様との関係です。これこそ、イエス様がイスラエルの民に求めているものでした。
6.神様の予定は変更可能
私共は、この女性の姿と重なる、旧約にある幾つもの場面を思い起こすことが出来ます。例えば、創世記18章にある、アブラハムがソドムの町を滅びから救うために、神様に向かって、「50人の正しい人がいても町を滅ぼすのですか。」と言い、45人なら、40人なら、30人なら、20人なら、10人ならと掛け合う場面です。或いは、創世記32章23節以下にある、ヤコブが兄エサウと再会する前の夜、「祝福してくださるまでは離しません。」と言って神様と格闘する場面です。或いは、出エジプト記32章にある、イスラエルの民が金の子牛の像を造って神様を裏切った時、民が滅ぼされないようにとモーセが神様に祈った場面です。或いは、サムエル記上1章にある、ハンナが、子供が与えられるように心を注ぎ出して泣きながら祈った場面です。
どうして、このカナンの女性は、イエス様に向かって「助けて!」と叫び続けたのでしょうか。それは、イエス様が神の子である以上、何とかしてくれるはずだ、何とかしないはずがない、そう信じていたからでしょう。イエス様は、決して諦めることなく御自分を信頼し続けるこの女性に対して、28節「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と言われました。「あなたの信仰は立派だ」という言葉は、直訳すれば「あなたの信仰は大きい」となります。イエス様は、そう言われてこの女性の娘をいやされました。
確かに、異邦人の救いが本格化するのは、イエス様が十字架にお架かりになり、復活され、そしてパウロが伝道するようになってからなのでしょう。しかし、イエス様は異邦人も神様の救いに与ることになっていることを知っておられた。それはアブラハム以来決まっていたことです。この時は少し早かったわけですが、神様の御計画というものは、コンピューターのプログラムのように、この時こうなると予め決まっていて何があっても変更不可能、そんなものではありません。神様の御計画、予定などという言葉を聞くと、そのように受け取ってしまう人もいるかもしれませんけれど、そうじゃない。神様の救いの御計画、順番というものはあるのでしょう。しかし、それは変わるのです。神様は変えることを良しとされるお方なのです。この時イエス様は、嫌々このカナンの女性の娘をいやされたのでしょうか。もう計画があるのにそんなことを言われても対応出来ないなどと、イエス様も神様もそんなマニュアル通りのお方ではありません。イエス様はこの時、喜んでこのカナンの女性の願いを受け入れてくださったのです。神様は自由に御計画を変えるのです。全能のお方とはそういうことです。
7.信頼の中での必死な祈り
皆さんは、このカナンの女性にどんなイメージを持つでしょうか。少し矛盾するかもしれませんが、私はこんなイメージを持つのです。一つは、必死になってイエス様にすがりつく母親のイメージです。何とかして自分の娘を助けたいという母親の姿。これも間違っていないと思います。しかし、もう一つ。この説教の備えをしながら与えられたイメージがあります。それは、何か底抜けに明るい、神様にお任せしているのだから大丈夫だと信じ切っている能天気な女性の姿です。この二つのイメージは矛盾するようですけれど、私の中では少しも矛盾しないで結び付いています。私共の祈りは、この二つがいつも同居しているのではないか、そう思うからです。
私共が神様に祈るとき、必死なって祈ります。神様何とかしてくださいと、必死なって祈ります。しかし、その祈りの中で、私共はこの祈りが神様に聞かれていることを知っています。自分が神様に愛されていることを知っています。自分が神様に見放されているなどとは少しも思わない。聞かれるかどうか分からないけれど、とにかく祈るというのではない。神様が何とかしてくださるのを知っている者として祈っているのでしょう。私共がイエス様の十字架と復活の恵みに与りつつ祈るとは、そういうことなのではないでしょうか。「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」とは、そういうことなのだと思うのです。
私共は、このカナンの女性と同じ異邦人です。しかし、救われた。異邦人というのは、ユダヤ人から見れば異邦人ということですけれど、神様から見れば私共は異邦人でも何でもない。神様に造られ、神様に愛されている民です。私共こそ神の民なのです。神の民に求められていることは、決して神様の前から離れないということです。神様は私の祈りを聞いてくれているのかと疑いたくなる時もありましょう。しかし、離れない。「助けて!」と叫び続けたら良い。イエス様が必ず何とかしてくださる。そう信じて、叫んだら良い。決してイエス様の前から離れない信仰、それが大きな信仰、イエス様に立派だと言われる信仰なのです。
私共は今から聖餐に与ります。この恵みに与るにふさわしいところなど、私共の中にはありません。しかし、イエス様が私共を選んでくださり、「わたしはここにいる。我が肉に与れ。我が血に与れ。」と招いてくださっています。この聖餐に与って、このお方をいよいよ信頼し、この方に祈り、この方との共なる歩みをいよいよ確かなものにしていただきたいと願います。
[2019年4月7日]
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