1.はじめに
3月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。与えられているのは出エジプト記の40章です。前回、8月の最後の主の日の御言葉は出エジプト記34章でした。随分、飛んだではないかと思われる方もおられるかもしれません。お手元の聖書を開いて小見出しを見ていただければ分かるのですけれど、25章から39章まではずっと、幕屋を建てるための準備、細々した備品の寸法や材料などが記されているのです。こういう所を興味深く読む方はあまりいないでしょう。私も、そういう所から御言葉をずっと受け続けるのはちょっと、と思いました。この40章は、39章までで幕屋を建てる材料がすべて揃って、実際に建てるという場面です。この40章で出エジプト記は終わります。
順に見てまいりましょう。
2.幕屋を建てる
1〜2節「主はモーセに仰せになった。第一の月の一日(ついたち)に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。」とあります。この「第一の月の一日」というのは、17節に「第二年の第一の月、その月の一日に」とありますように、第二年の第一の月です。この時イスラエルの人々は、過越の出来事があった月を正月とするよう、出エジプト記12章で命じられておりました。つまり、出エジプトの旅を始めてちょうど一年経った正月の一日、この日に幕屋を建てたということなのです。ですから、出エジプト記は、出エジプトの旅の最初の一年間の出来事を記したものということになります。本当に色々なことがあった一年でした。過越の出来事に始まり、海の水が左右に分かれて道が出来た出来事、マナの出来事、更に十戒をいただいたこと、金の子牛をを造って拝んでしまったこと、再び十戒の板をいただいたこと、そして幕屋建設です。
幕屋というのは、神様がそこに御臨在される所です。神様を拝み、神様と共に歩むのが神の民です。色々なことがあったけれど、それはこの幕屋建設に至る道のりであった、と出エジプト記は私共に告げているわけです。幕屋建設というのは、私共にとって文字通りの意味においては意味がありません。私共は、この25〜39章に記されているような材料を用いて幕屋を作るわけではないからです。しかし、神様の御臨在があり、その神様を拝みつつ旅をするということならば、それは現在の私共の歩みと何ら変わることがない。そう言って良いでしょう。その意味では、幕屋の建設というのは、私共にとってキリストの体である教会を建てるということの予型、ひな型と言って良いと思います。教会は建物ではありません。キリストがそこにおられるというキリストの御臨在のもとで、キリストとの親しい交わりを与えられる神の民、キリスト者の群れのことです。その群れがいよいよ神様の御心に従い、神様を愛し、信頼し、ここに神様がおられることが明らかに現れる群れとなっていく。それが教会を建てるということです。
今、4月の教会総会のために2018年度の歩みを、各会、教会学校などでもまとめていることと思います。一年間、色々なことがあった。一つ一つに神様の守りと導きがあった。しかし、それはこの富山鹿島町教会がキリストの体として建てられていく、そのためのものだったということでしょう。
出エジプト記には印象深く大切な出来事がたくさん記されていたけれど、それは結局の所、幕屋建設に至る。この出エジプト記の構造は、とても大切なことを私共に示しているのです。神様の御臨在が明らかにならなければ、神様を拝み、礼拝するということが確立されていかなければ、神の民は神の民となっていかない。神の民がこの地上を旅していく上で、なくてはならないものがここにあるということです。教会が礼拝共同体と言われる所以です。
3.主が命じられたとおりに
では、この幕屋建設において、つまり私共の教会を建てていく歩みにおいて、最も大切なことは何か。それは、「主が命じられたとおりに」ということです。16節に「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った。」とありますが、「主が命じられたとおり」という言葉は16節以外に19節、21節、23節、25節、27節、29節、32節と、8回も繰り返されています。またこの言葉は、39章においても10回繰り返して語られています。39章と40章で計18回です。これは、「主が命じられたとおり」ということがいかに重要であるかということを示しています。
教会がキリストの体である教会となっていく。御心に適った教会になっていく。そこで何よりも大切なのは、「主が命じられたとおりに」為していくということです。もちろん、時代が変われば、置かれている状況も変わっていくのですから、教会も変わっていかなければならないということはあります。しかし、どんなに変わっても、決して変わってはならないこともある。「主が命じられたこと」については変えることは出来ないのです。教会にはどんどん変えていって良いことと、変えることが出来ないことがあるということです。どんなにみんなで話し合って決めようとも、変えることが出来ないことがある。それは、主が命じられたことです。
先日、ある求道者の方と話をしておりまして、「どうして洗礼を受けなければならないのか。心に信じているだけではダメなのか。」と聞かれました。これは珍しい質問ではありません。牧師がよく聞かれることです。皆さんは何と答えるでしょうか。色々な答え方があるかと思いますけれど、一番大切で一番明解な答えは、「そのようにしなさいとイエス様が命じられたから。」です。マタイによる福音書28章19〜20節に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と、復活されたイエス様が弟子たちに告げられた御言葉が記されています。この御命令に従って、弟子たちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えました。洗礼を授けないキリスト教会はありません。「形ではなく心が大切だ。」そういう考え方もあるでしょう。しかし、どんな考え方よりも、キリストの教会は主の御命令を優先するのです。キリストの教会は、この御命令を与えられたキリストが御臨在され、この方を我が主、我が神として礼拝する者の群れだからです。世の中には色々な考え方、ものの見方があります。そのどれを大切にするかは、人それぞれです。それでいいのです。しかし、キリストの教会は、主の御命令に従うことを何よりも大切なこととするのです。この一点を外せば、教会は教会であることをやめることになります。
4.神様と共に
3〜8節に幕屋を建てることが記され、17〜33節にはそれが更に詳しく記されています。建てるといっても組み立てるということです。幕屋は、出エジプトの旅の間、移動する時にはそれを畳んで運び、宿営する時にはそれを組み立てて建てる、そういうものです。幕屋の大きさは、東西13.5m、南北5.4m、高さ4.5mです。一番奥に掟の箱、つまり十戒を刻んだ二枚の石の板を入れた箱が置かれます。ここが至聖所、最も聖なる所であり、神様が御臨在される所です。至聖所は垂れ幕で仕切られています。その幕の前に、香を焚く金の祭壇があり、至聖所に向かって左側に七つの枝を持つ燭台、右側に供え物であるパンを載せる机があります。幕屋の入口には幕が掛けられていて、その外には手足を洗う洗盤、そして犠牲を献げる祭壇がありました。この周りに庭、要するに空間、がありました。そして、その庭を取り囲むように、東西45m、南北22.5mにわたって幔幕が張られました。これがこれから39年間、出エジプトの旅の間中、イスラエルの民の宿営の真ん中にあったのです。
34〜38節「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。」とあります。この幕屋に神様が御臨在され、人々はこれに向かって拝んだのです。イスラエルの民は、神様の臨在のしるしである雲が昇ると出発し、雲が昇らなければそこにとどまりました。それは、神様と共にイスラエルの民は歩んだということです。神の民とは、共におられる神様と歩む民なのです。
そして、復活のイエス様は、先ほどお読みしましたマタイによる福音書28章20節で「あなたがたに命じておいたことををすべて守るように教えなさい。」と命じられ、続いて「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。この神様の御臨在、私共と共にいてくださるという約束は、教会と共にあるというだけではなくて、私共一人一人と共にいてくださるということでもあるのです。コリントの信徒への手紙一3章16節「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とあるとおりです。
5.神様の御臨在を証しする民として
幕屋は、出エジプトの旅の間中、移動していきます。それは約束の地に着くまで、旅の間中ずっと神様が共にいてくださり、導いてくださるということでした。私共もまた、旅をしています。神の国の完成へ向かって、この世の旅をしています。その旅の間中、イエス様は私共と共にいると約束してくださいました。それは、キリストの教会が、そして私共自身が神様の御臨在を現す者とされているということでもあります。これは実に驚くべきことではないでしょうか。私共のような、まことに愚かで、同じような過ちを何度も繰り返す者が、神様の御臨在を示す存在として用いられる。まことに畏れ多いことです。しかし、イエス様はそう約束されました。
確かに、イエス様を知らない、まことの神様を知らない、そういう人たちは私共を見て、キリスト教を判断するのでしょう。私共はこのことをしっかり受け止めていかなければなりません。主が共におられるということは、イエス様がいつも私を守り支え、導いてくださるということです。けれど、それだけではありません。私共は、イエス様を証しする存在として立てられているということでもあるのです。
それはちょうど、出エジプトにおける海の道の奇跡の時と同じです。海の水が左右に分かれて道が出来て、イスラエルの民はそこを通ってエジプト軍の手から逃れることが出来たわけですが、この時、イスラエルの民は何もしていません。彼らはただエジプト軍を恐れていただけです。しかし、共におられる神様が不思議な業をもって彼らを守ってくださいました。イエス様が共にいてくださるということは、そのように守られるということです。それは同時に、イエス様を知らない人に対しては、主は生きて働いておられるということを証しすることになるということです。私共が何か特別なことをしたり、そのような力があるということではありません。共にいてくださる神様が、キリストが、私共を用いて大いなる御業を為されるということです。
6.油注がれた者
さて、9〜15節には、幕屋において用いられるすべてのもの、そして祭司に、油を注いで聖別したことが記されています。神様の御業に用いられるものは、物であれ人であれ、すべて油を注がれ聖別される。聖別するとは、専ら神様の御用に用いるために、他のものと区別するということです。ここで、祭司が油を注がれました。祭司は油注がれた者です。この「油注がれた者」という意味のヘブライ語が「メシア」であり、ギリシャ語では「キリスト」です。それで、キリストは真の祭司と言われるのです。因みに、旧約において油注がれたのは祭司、預言者、王です。ですから、キリストをまことの祭司、まことの預言者、まことの王と言い、これをキリストの三職、三つの職務と呼びます。
代々の教会は、この油を注がれて聖別されることを、聖霊を注がれることの予型として受け止めてきました。私共が信仰を与えられている、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされている、それは皆、聖霊なる神様の御業です。聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」と告白することは出来ません。信仰とは、自分の考え、生き方、そんな小さなものではありません。聖霊の注ぎによって与えられる新しい私、新しい命の誕生なのです。私共は聖霊を注がれた者、聖霊によって神様の御業に用いられる者とされているということです。
パウロはこのことを本当によく分かっていた人でした。彼の手紙は、キリストによって、聖霊によって、神様の御業に仕える者とされたこと、新しい命に生きる者とされたこと、その恵みへの感謝であふれています。先ほど、フィリピの信徒への手紙3章12〜16節をお読みしました。13〜14節にこうあります。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」実にこれこそ、聖霊によって信仰を与えられ新しい命に生きる者とされた私共に与えられている、この地上における姿です。イスラエルの民が奴隷の地エジプトから約束の地を目指して旅をしたように、私共も罪の奴隷の状態から天の御国に向かって旅をしている。それは、ただボーッと、目的もなく、時が過ぎていくのを眺めているような人生ではなく、御国の完成というはっきりした目標を与えられて、そこに向かってひたすらに全力を注いで走って行く歩みです。神様の御業にお仕えしていく歩みです。それは、私共に聖霊を注がれて、私共がキリストに捕らえられてしまっているからです。何とありがたいことかと思います。この恵みの中に生かされていることを感謝して、共に祈りをささげましょう。
[2019年3月31日]
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