1.ファリサイ派の人たち
今朝与えられております御言葉は、1節「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。」と始まっています。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」これは福音書を読んでおりますと、何度も出て来る言葉です。この人たちは、福音書の中で何度もイエス様と論争している相手です。この人たちがどういう人たちだったのか、このことについて大雑把にでも知っておりませんと、何を議論し、何故論争しているのか分かりません。教会にしばらく通っている方にとっては常識でしょうけれど、少し確認しておきましょう。
ファリサイ派は、当時のユダヤ教またユダヤ社会における二大勢力の一つでした。二大勢力というのは、ファリサイ派ともう一つ、サドカイ派という人々がおりました。サドカイ派は祭司などの神殿貴族です。当時のユダヤはエルサレム神殿を中心としておりましたが、そのエルサレム神殿を根拠に勢力を持っていた人々です。一方、ファリサイ派は、民衆派と言いますか、人々の日々の信仰生活の中心であった町々村々にある会堂(シナゴーグと言います)、そこを中心に力を持っていた人々です。
旧約聖書の創世記から申命記までの五書、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の五つの書ですが、これをまとめて律法(トーラー)と呼びます。この律法、トーラーがユダヤ教の中心です。この律法に従って生きる、それがユダヤ教です。しかし、律法に従って生きると言っても、実際にはどういう生活をすれば良いのかということになります。そこで、律法に記されていることを実際の生活に合わせて、とてもたくさんの戒律を作っていくわけです。これが口伝律法と言われるものです。例えば、十戒には「安息日を覚えてこれを聖とせよ。七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」とあります。そうすると、「いかなる仕事もしてはならない」というのは、具体的にはどうなのか、そのことを細分化して決めていくのです。安息日に食事の用意をするのは仕事に当たるのかどうか。その際に火をおこすわけですがそれはどうなのか。これはダメなのです。仕事に当たるのです。でも、安息日にも食事をしないわけにはいきません。ですから、前の日に作っておくということになります。安息日規定は、こうして主な禁止行為だけで39項目、それぞれが更に6つに分かれており、合計234項目の安息日にしてはならないことが決められていました。ばかばかしいと言えばそれまでですが、ファリサイ派の人々はこれを大真面目に守ろうとしました。これを守らなければ正しい人にはなれない。それ故救われない。そう考えていたのです。十戒の安息日規定だけでもこうなのですから、日常生活のすべてがこの口伝律法によって規定されていくことになります。
律法学者というのは、そのファリサイ派の人々の中で、特に人々を教える立場にあった人のことです。生活全体がこの律法に従わなければなりませんので、生活のあらゆる問題が律法学者の所に持ち込まれます。律法学者は、そのすべての問題に対して、律法にはこうある、だからこうしなさい、と指示するわけです。夫婦喧嘩から、隣の土地の境界線のことから、すべてです。
2.食事の前に手を洗わない
そういう人たちが、エルサレムからイエス様の所にやって来ました。それは、多分イエス様のことがエルサレムにまで聞こえて来たのでしょう。奇跡をしたり、人々に神様について教えているイエスという者が現れた。これがちゃんと律法を守っているかどうか、つまり自分たちが築き上げたユダヤ教という秩序を乱さないかどうか、視察に来たということなのです。そこで彼らが見たのは、イエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わない姿でした。
食事の前に手を洗わない。これがどうして問題なのか。勿論、衛生的に問題だと言っているのではありません。2節「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」ここで大切なのは、「昔の人の言い伝えを破る」と言われていることです。手を洗うことは、先ほど見ました口伝律法にあることなのです。何故、食事の前に手を洗うことがそれほど大切なことだと考えられていたのかと申しますと、それは汚れ(けがれ)の問題なのです。律法を守る正しい人は清い。しかし、律法を守らない人は神様から遠く、汚れている。そして、その汚れは、触れると移ると考えられていたのです。汚れとは、まるで今の感染症のウイルスのように、触れれば移り、触れた者も汚れてしまうとされていました。ですから、手を洗わないで食事をすると、汚れが口から入って自分を汚してしまうことになる。だから、食事の前には必ず手を洗わなければならなかった。しかも、その手の洗い方、使う水の量まで決まっていたのです。また、食べ物においても、これは汚れた物だから食べてはならないという、食物規定がありました。
イエス様はそもそも、律法を守らない人、異邦人のことを汚れているとは考えておられませんので、この食事の前に手を洗うという口伝律法を重要なことだとされませんでした。ここで、ファリサイ派の人々と律法学者たちは「あなたの弟子たちは」とイエス様に言っていますけれど、きっとイエス様御自身も手を洗わなかったのだろうと思います。弟子は先生のまねをするものです。弟子たちはイエス様をまねて、手を洗わなかったのでしょう。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「弟子たちは」と言いながら、本当はイエス様を批判したのです。
この宗教的な汚れという考え方は、日本人にも似た所があるのではないかと思います。死を汚れたものと見なす。ですから、神社の境内に死体は入れません。神社で葬式がないのはその為です。また、源氏物語の中にも、死んだ者を見たので汚れた、汚れを落とさなければならないというような記述があります。神社にお参りする時に手を洗うというのもそういうことでしょう。
ファリサイ派の人々が問題にしたのは汚れ。それは外から来る。だから手を洗う。しかし、イエス様が問題にしたのは罪です。罪は外から来るのではなくて、私共の内にある。これを清めなければ、神様に近づくことは出来ない。神様との交わりを回復することは出来ない。そのことに気付かなければ、人は救いへの道を歩めない。イエス様はそこを指摘されたのです。
3.父と母を敬え
イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者たちにこうお答えになりました。3〜6節「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」イエス様はここで、十戒の第五の戒である「父と母を敬え。」を取り上げます。これは神様が与えた律法です。私共が神様の御心に従って歩んでいくために神様が与えてくださったガイドライン、道標のようなものであり、まことに大切なものです。しかし当時、ファリサイ派の人々は、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする。」と言えば、それは父や母にあげなくても良いと教えていました。マルコによる福音書では、この神への供え物を「コルバン」と言っています。「これはコルバンです。」と宣言すれば、神様にささげる物になるから誰も手を出せない。父や母であっても手を出せない。神殿に行ってささげなければいけないのです。
皆さんは、このコルバンと言った人はこれをどうしたと思いますか。これは多分パンだったと思いますけれど、この人はコルバンと言ってパンを父や母にやらず、父や母がいない時に自分で食べてしまった、そう思われますか。そんなことはないのです。ファリサイ派の人々は、そんないい加減な人たちではありません。コルバンと言ったら、絶対に神様にささげたのです。だったら、何でそんな規定があったのかということです。どうせ自分のものにならないのなら、神様に供えるのも、父や母にあげるのも、同じではないかと思うでしょう。
イエス様はこの規定に潜む罪をはっきり見抜いておられたのです。それは「父母を敬いたくない」という罪です。人間、自分の父や母を敬うのは当たり前ではないか。当然のこと、自然な心の働きではないか。そう思われるでしょう。確かにそういう面もあります。しかし、私共の心の奥には、そう簡単にいかない罪の闇もまた、あるのです。私共はそんなところはあまり見たくないと思うかもしれません。しかし、ある。自分の父や母を単純に敬えない、そういう心がある。それがこの、コルバンと言えば父母にあげなくても良いという規定の背後にはあることを見抜いておられたのです。
私は、認知症になった母と6年間、牧師館で生活しました。その中で、母を単純に敬えない自分をはっきり示されました。何度も何度もです。私はその時、この十戒の第五の戒によって守られ、支えられました。「父と母を敬え。」これは神の言葉です。母を敬えない私に向かって、神様が告げられるのです。「父と母を敬え。」この言葉に対して、私は逆らうことが出来ません。神様の言葉ですから、私は「はい。」と言うしかない。その時、私は本当にありがたいと思いました。十戒を与えられていて、これを神の言葉として聞く者とされていて、本当に良かったと思いました。この神の言葉がなかったら、私はどんなに酷い言葉を、認知症になり寝たきりになった母に投げつけていたことだろうかと思います。あの時、コルバンと言えばいいということだったならば、私は「父と母を敬え。」という言葉に生きることは出来ませんでした。
4.律法は何のために
ファリサイ派の人々が大事にしていた口伝律法というのも、元々は神様に全生活をささげるために考えられた規定だったと思います。これが整えられたのはバビロン捕囚期と考えられています。紀元前6世紀にバビロン捕囚という出来事がありました。エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、南ユダ王国は滅び、神の民は捕らえられてバビロンに連れて行かれた。預言者たちは、律法に従わないから神様の裁きにあったのだと告げる。このバビロン捕囚の中で、だったらどうすれば完全に律法を守ることが出来るのかと考えた。そして、生活の隅々までも律法に従うために、多くの口伝律法が出来たのです。すべての律法を日々の生活の中で完全に守る。そのための口伝律法でした。しかし、人の心の奥底には「神様に従いたくない」という罪がある。本来、その罪から私共を守るために神様が私共に与えられたのが律法です。そして、それに従うために口伝律法というたくさんの規定が作られていった。そういう中で、神様の言葉に従わないでもいいような抜け道もまた、作られてしまったということなのでしょう。しかも、それを守っているから自分は正しい、自分は清い者だ、と思い違いをするようになってしまった。イエス様は、それは違うと言われたのです。
律法を心の底から完全に守れる人はいません。ですから、律法は私共の罪を明らかにする。自分の罪を明らかにされた私共は、ただ神様に赦しを求めるしかない。それが悔い改めです。ところが、「私はこれだけ律法を守っています。私は正しい者です。清い者です。」そのように自らを誇るために律法が用いられるようになってしまった。それがファリサイ派や律法学者の姿にはっきり現れているわけです。イエス様は、それは違うと言われた。そして、「偽善者たちよ。」という厳しい言葉さえ用いられたのです。
人は自分を正しいと思いたい。自分は善い人だと思いたい。だから人と比べる。しかし、正しいとか清いということは、神様の前に出てどうなのかということです。私共の心を私共以上に良く知っておられる神様の御前に出たら、誰も言いわけは出来ません。自分は正しいなんてとても言えない。そこで私共は本当に神様に出会うことになる。ただ赦しを求める者、ただ救いを求める者として、神様の前に立つ者となる。本来、宗教家の為すことはそのことであるはずなのに、自分は正しいと思わせるために手を貸しているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエス様はそれは違うと言われました。
5.愛するが故に従う
8〜9節「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」イエス様はイザヤ書の言葉を引用されて、こう告げられました。ここでイエス様が言いたかったことは、これと反対のことです。「口先で神様を敬うのではなくて、心から敬いなさい。神様の心を思いなさい。人間の戒めではなくて、わたしの戒め、神の戒めに従って神様をあがめ、敬い、拝みなさい」ということです。人間の戒めとは、ここでは口伝律法のことを指していますけれど、それだけに限ることはないでしょう。この世の常識、慣習、マナー、これも人間の戒めの一種とも言えます。人はそんなものに従うことだけで、自分は正しいと思い込んでしまう。イエス様はそのような私共の心をいさめているのでしょう。大切なことは、神様の前に立つこと、神様との交わりに生きること、喜んで神様に従うことです。人と比べて自分は良い人間だ、正しい人間だと思うことではないのです。どこまでも、神様の御前に立ってのことなのです。
先日、教誨師をしておりまして、面白いことを訊かれました。その人のお母さんは仏教系の新興宗教をしておられ、彼は幼い時から、神社の鳥居の下はくぐらないようにと教えられて来たそうなのです。それで、「キリスト教ではどうなのですか。」と訊かれたのです。「自分としては、神社やお寺を巡るのが好きなのだけれど、キリスト教はダメなのですか。」と訊かれました。私はここにも律法主義があると思いました。つまり、「自分は神社にもお寺にも行かない。そのことによって、自分はキリストさんだけだという正しさを手に入れよう。」という考え方です。それで私はこう答えました。「私は神社にもお寺にもお参りに行きません。」すると、「やっぱり。十戒にありますもんね。行っちゃダメですよね。」と言うのです。それで、「私は、行く必要もないし、行きたいとも思わないから行かないだけです。私はイエス様を愛していますし、神様と契約を結びました。これは結婚したようなものです。結婚したら、他の女の人の所には行かないでしょう。行ったら、妻は悲しむし、関係が壊れてしまう。私はこの関係は大切にしたい。行っちゃいけないから行かないというのとは少し違うと思います。」と答えました。
私共が律法に従う、喜んで従うというのは、神様を愛しており、神様が私を愛してくださっていることも知っているからなのです。この戒めを破ることは、神様を悲しませることになることを知っているからなのです。
イエス様は、最も大切な戒は、第一に神様を愛すること、第二に隣人を愛することと教えてくださいました。一体どこから、食事の前に手を洗わなければいけないということが出て来るのか。勿論、今の時代、衛生面で手洗いは大事です。しかし、汚れが移らないように手を洗う、そこに愛はあるのかということです。
神の言葉としての律法は大切です。私共は喜んでこれに従って生きていきたいと思います。しかし、これに従うことが出来ない時、私共は正直に神様に赦しを求める。そして、御言葉をいただいて、神様・イエス様への愛を、隣人への愛を新しくされて、更に大胆に、喜んで律法に従う者とされていきたいと思うのです。ここにあるのは自由です。神様・イエス様を愛し、愛される者に与えられる自由です。私共はこの自由の中に生きる者とされているのです。まことにありがたいことです。
[2019年3月10日]
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