富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様がわたしたちと共に」
出エジプト記 33章1〜23節
マタイによる福音書 28章18〜20節

小堀 康彦牧師

1.神様が共におられる恵み
 信仰によって私共に与えられた最も大きな恵み、祝福は何か。それは、色々な言い方、答え方があるでしょう。罪の赦しと言っても良いでしょうし、復活の命、永遠の命と言っても良いでしょうし、信仰・希望・愛と答えても良いでしょう。答え方は色々あるでしょうけれど、神様が私共と共にいてくださるということ、これもまた忘れることの出来ない最も大いなる恵み、祝福の一つでありましょう。もちろんそれは、神様が私共の傍らにただ存在しているということではなくて、私共が神様との親しい交わりを与えられているということです。
 私共は、天と地のすべてを造られた全能の神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈ります。これは、子どもが自分のお父さんに向かって相対するように、私共が神様との親しい交わりを与えられているということです。これは実に驚くべきことでありましょう。この驚くべき恵みは、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださって、私共に下される神様の一切の裁きを引き受けてくださったから与えられたものです。そして、私共が洗礼によってこのイエス様と一つに結び合わされて、イエス様と父なる神様との永遠の交わりに与る者とされたということです。
 天地を造られた神様に対して「父よ」と呼ぶことが出来るのは、本来、神の独り子であり天地が造られる前から神様と共におられたイエス・キリストだけです。しかし、イエス様が十字架の出来事をもって、私共をこの交わりに招いてくださった。「あなたの罪はわたしがすべて担ったから、安心して神様に近づきなさい。神様との親しい交わりの中に生きなさい。わたしと同じように、『父よ』と呼んでいい。」そう招いてくださった。私共はこの招きの故に、ただこの招きに応えて、畏れ多いことでありますけれど神様に向かって「父よ」と呼びまつり、このように主の日の度毎にここに集って礼拝をささげているわけです。神様が私と共におられ、神様との親しい交わりを与えられている。これこそは、私共に与えられている本当に大いなる恵み、大いなる祝福でありましょう。

2.出エジプト記32章まで
 今朝は、一月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。前回は、出エジプト記32章から御言葉を受けました。  イスラエルの民はエジプトの地において奴隷の状態でありましたが、その嘆きが神様に届き、神様はモーセを選んでイスラエルの民をエジプトの地から救い出し、神の民の初めの人アブラハムと約束した土地に導き上ります。その中であの有名な、海の水を左右に分けて道を造り、そこを通ってエジプト軍からイスラエルの民を救うという出来事もありました。旅の途中、食べる物がなくなれば天からマナを降らせて養ってくださいました。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。そして、遂にシナイ山まで来た時、神様は十戒を与えて、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。モーセはその契約を記した石の板を受けるため、シナイ山に登っていきました。
 ところが、いつまで待ってもモーセがシナイ山から下りて来ない。モーセは、実に40日40夜、シナイ山にいたのです。イスラエルの民は最早モーセが山から下りてくることを待つことが出来なくなり、遂に自分たちで金の子牛の像を造ると、祭壇を築き、「これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ。」と叫び、祭りを行ったのです。神様はそれを知り、怒ります。モーセは神様の怒りをなだめて、すぐに下山しました。下山したモーセの目の前に、金の子牛の像を神にして、飲めや歌えの祭りをしているイスラエルの民の姿がありました。モーセは神様からいただいた十戒を刻んだ二枚の石の板を投げつけ、砕いてしまいます。十戒の第一の戒は「あなたは、わたしのほかになにものをも神としてはならない。」であり、第二の戒は「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。」です。イスラエルの民は、この十戒を与えられて神様と契約したのです。にもかかわらず、モーセがその契約を記した石の板をいただくためにシナイ山に登っている間に、神様と契約を結んでまだ40日しか経っていないのに、イスラエルの民は契約を破ってしまったのです。
 翌日、モーセは神様のもとに戻って、執り成しをします。32章31〜32節「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」モーセは、神様に向かってイスラエルの民のために、自分の命を懸けて執り成しをしたのです。この自分が神様の裁きを受けてもイスラエルの民の罪を赦していただこうとする姿、これは私共のために十字架に架かってくださったイエス様を指し示しています。モーセのこの姿を通して、聖書は後に現れる主イエス・キリストというお方を指し示しているわけです。
 イスラエルの民が金の子牛の像を造って祭りをしたこと、神様がお怒りになったこと、モーセが契約の石の板を砕いたこと、そして、神様に執り成したこと。それが32章に記されていることでした。

3.神様が自分の願いを叶えてくれれば良いのか?
 今朝与えられております33章はその続きです。神様はモーセにこう告げます。1〜3節「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」神様はここでもう、イスラエルの民のすべての罪を赦しています。モーセに、イスラエルの民を約束の地に導き上れ、御使いを先立って遣わす、と告げられた。しかし、完全に赦したかというと、疑問が残ります。「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」つまり「わたしは一緒には行かない。」と言われたからです。理由は、イスラエルの民は心がかたくなで結局また同じようなことをするだろう、そうなればわたしはイスラエルの民を滅ぼしてしまう、だからわたしは一緒には行かない、と言われるのです。
 皆さんはこの主の言葉をどう受け止めるでしょうか。神様は一緒でないけれど、約束の地に行けるのだからそれでいいではないか。そう思われるでしょうか。もし、私共が信仰というものを、目に見える良きものを神様によって与えられるための手段と考えるならば、それで十分ということになりましょう。私を豊かな土地に導き上ってくれるならば、金の子牛でも天地を造られた神でも、どっちでもいいということかもしれません。偶像を拝むとはそういうことです。自分の願い、自分の望みを叶えてくれるのであれば、それは何でもいい。確かに、天地を造られた神は、その全能の力をもってイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった。そして、約束の地に行かせてくれる、アブラハム・イサク・ヤコブに約束した土地を与えてくださるという。それで十分だ。それ以上、何を欲しいと言うのか。そう思われるでしょうか。
 現代の私共の言葉に置き換えますと、こういうことかもしれません。家族がみんな健康で、仲良く暮らし、経済的にもそこそこ安定していれば、他に何を求めることがあろう。それで十分だ。それを与えてくれるのならば、どんな神でも同じこと。或いは、それさえ確保出来るのならば、別に神様だって要らない。そういうことになるでしょうか。

4.神様が共にいてくださらなければ
 聖書はここで驚くべき言葉を記します。4節「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」とあります。イスラエルの民は、これを「悪い知らせ」と受け止めたのです。イスラエルの民は、神様が一緒にいてくださらないということを悪い知らせとして聞いたのです。約束の地には行けるのです。しかし、それだけではダメだと思ったということです。神様が共にいてくださる。神様との交わりが与えられている。神様に祈り、神様がそれに応えてくださる。この神様との交わりこそ、なくてはならないもの。最も大切なもの。そうイスラエルの民は考えていたということです。
 7〜11節には、この時まだ神様はイスラエルと共におられたことが記されています。幕屋、これは天幕のようなものを考えていただければ良いと思います。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来ました。この雲の柱というのは、神様の御臨在を示すものです。そして、神様は、友と語るようにモーセに語られました。ここで「顔と顔を合わせてモーセと語られた」と記されているのは、それぐらい親しくという意味であって、実際に顔と顔を合わせたということではないでしょう。人は神様と顔と顔を合わせたならば、それは滅びるしかありません。20節に「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」と神様がモーセに告げている通りです。太陽を直接みたら目がつぶれてしまうでしょう。それと同じように、聖なる神様と顔を合わせたのならば、罪人である人間は滅びるしかないのです。
 ですから、ここで聖書が告げているのは、モーセと神様はそのような親しい交わりの中にあったということです。そして、それこそが最も大いなる恵み、祝福であったということなのです。この交わりの中で、モーセは神様にイスラエルを執り成します。神様が、14節「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」と告げますと、モーセは、それではまだダメだと言うのです。ここのポイントは、神様がモーセに「あなた」と単数形で告げていることです。つまり、ここで神様はモーセだけを相手にしています。神様は、モーセだけなら何の問題もないと言われた。しかしモーセは、「わたしだけではダメです。イスラエルの民と一緒にいてくださらなければ。」と言うのです。15〜16節「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」とあります。それに対して神様は、17節「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」と応えます。神様はモーセの執り成しを受け入れ、イスラエルの民と共に行くことを承知されたのです。

5.イエス様が共にいてくださる
 この神様が共にいてくださるという恵み、祝福は、イエス・キリストの十字架と復活という出来事によって完全な形で与えられました。イエス様御自身がこのことをはっきり約束してくださいました。それが、先ほどお読みいたしましたマタイによる福音書28章20節b、マタイによる福音書の一番最後の言葉です。復活されたイエス様は、弟子たちに対して「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました。このイエス様の約束を信頼して歩む。そして、この約束が真実であることを知らされ続けるのが、私共の地上における信仰の歩みなのです。イエス様はまことの神であられますから、イエス様が共におられるということは、神様が共におられるということです。これは日常的なことです。特別な時だけ神様は私共と共におられるのではありません。イエス様は「いつも」と言われました。いつでも、どんな時でも、いつまでも、私共と共にいてくださるのです。良いときも悪いときも、健やかなときも病むときも、喜びの時も悲しみの時も、イエス様は私共と共にいてくださいます。イエス様の御手の中に、イエス様との交わりの中に、私共は置かれているのです。これこそが、私共に与えられている最も大いなる恵み、最も大いなる祝福です。これが、私共が救われているということです。

6.神様・イエス様が共におられることを、どのようにして知るのか?
 では、どのようにして私共はそのことを知るのでしょうか。神様はいつでも、どんな時でも、いつまでも、私共と共にいてくださいます。しかし、そのことを私共はいつも知っているわけではありません。それは、私共は日常の歩みの中で、神様が共におられることをいつも意識しているわけではないということです。私共は、普段は神様のことなど忘れて生活しているのだと思います。朝から晩まで、いつでも神様のことを思って生きているという人はいないでしょう。しかし、それは神様が私共と共におられないということではありません。私共が覚えていようと、忘れていようと、神様は私共と共にいてくださいます。
 モーセは、18節で「どうか、あなたの栄光をお示しください。」と言います。この「あなたの栄光」というのは、「神様の御臨在のしるし」ということです。あなたが共におられることのしるしを見せてくださいと、モーセは神様に求めました。モーセが神様を見ることが出来るなら、一番はっきりします。しかし、それは出来ません。先ほど見ましたように、20節で「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と神様は告げられます。さらに、21〜23節「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」神様は、わたしの顔を見ることは出来ないけれど、後ろなら見ることが出来るようにしてあげようと言われたのです。これはどういうことなのかと思いを巡らしてみました。そして、こういうことかと思いました。私共は日常の歩みの中で、神様が共にいてくださることをいつも意識するわけではない。しかし、神様のお働きによる出来事が起きる。出来事に出会う。この出来事は、神様が為された業なのですから、神様が通られた跡と言って良いでしょう。それが神様の後ろを見るということなのではないでしょうか。神様のなさる出来事によって、「ああ、神様は私と共にいてくださった。」と知るということです。
 また、こうも言われました。19節「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。」この「善い賜物」について、聖書はその代表として「信仰・希望・愛」を挙げています。信仰も希望も愛も、聖霊なる神様によって与えられるものです。私共が神様を信じる時、つまり、神様がすべてを創り、すべてを支配し、導き、私の歩みを支えてくださっている、そのことを信じる時、私共は神様が共におられることを知る。そして、神様が私のために道を開いてくださり、天の国、救いの完成へと伴うために働いてくださることを期待する希望が与えられる時、私共は神様が共におられることを知る。神様が私共を愛してくださっていることを知るとき、私共が隣り人への愛を与えられるとき、私共は神様が共にいてくださることを知るのでしょう。
 もっと具体的に言えば、私共が「天にまします我らの父よ。」と神様に祈る時、私共は既に神様との親しい交わりの中に置かれている、神様が私と共にいてくださることを知るのでしょう。祈りは、どんなに短い祈りでも同じです。「主に感謝!」これでも十分です。私共の日々の歩みの中で、「主よ、感謝します。」という祈りが何度も何度も捧げられるならば、私共は一日に何度も何度も、神様が共にいてくださることを知る者となるでしょう。まして、この主の日の礼拝に集うならば、私共は主が共にいてくださることをはっきり知ることになります。

7.T・F姉の葬式
 今、T・F姉の棺が講壇の前に置かれています。今日、この礼拝の後で、T・F姉の葬式をここで行います。ご遺族の方々もこの礼拝に集っておられます。
 T・F姉は、この地上の生涯を閉じられたわけですけれど、その肉体の死は、主が共におられるという祝福をT・F姉から奪うことが出来たでしょうか。出来ません。イエス様は十字架にお架かりになった後、三日目に復活され、死に勝利されました。そして、私共のために永遠の命、復活の命への道を開いてくださいました。T・F姉はそのことを信じ、主と共にある祝福のうちにこの地上の生涯を閉じられたのです。イエス様は「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました。この約束が私共の肉体の死をもって反故にされるなどということはあり得ないことです。T・F姉は今も主と共におられます。イエス様が備えてくださった天の住まいへとその場所を替えられただけのことです。いや、今はこの地上にいた時よりももっと近くに、もっと親しく、もっと完全に、主と共にいる者とされたのです。このことを信じ、今、私共のまなざしをいよいよしっかりと神の国へと向けさせていただきたい。主が共におられる恵みの事実、祝福の現実にまなざしを向け、共々に主をほめたたえたいと思います。

[2019年1月27日]

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