1.はじめに
今朝与えられております御言葉は、この短い所に、福音の主な項目が要約されてぎっしり詰まっております。教理的な筋道について新約聖書の中で最もまとまった形で記していると言われるローマの信徒への手紙ですが、その中でも最も明確に私共の救いの筋道が示されている所です。内容があまりに豊かですのでそのすべてについて語ることは出来ませんけれど、幾つかの点について御言葉を受けていきたいと思います。
2.信仰義認
まず1節、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とパウロは語ります。ここで既に、「信仰によって義とされる」そして「キリストによって神様との間に平和を得ている」と、福音において最も大切な二つのことが告げられています。
「このように」とありますように、「信仰によって義とされる」ということについて、パウロは4章までに記してまいりました。その内容は、律法を守ることによって私共は神様に義とされる、救われるのではない。ただ信仰によって義とされる、救われるのだということでした。この「信仰によって義とされる」というのは、私共福音主義教会が16世紀に宗教改革を行った際の旗印となった福音理解、「信仰義認」のことです。しかし、この福音理解はよく誤解されます。「信仰によって」とは、一切の私共の業によらずということ、ただ神様の恵みによってということです。つまり、「信仰によって」とは、「神様の恵みによって」ということです。私共が一生懸命に信じればその熱心な信仰によって義とされる、救われるということではありません。神様が私共を憐れんでくださって、救ってくださる。私共はその神様の恵みをただ感謝をもって受け取る。ただそれだけなのです。「信仰のみ」とは、「恩寵のみ」「恵みによってのみ」ということです。私の中に、神様によって義とされるにふさわしい所など何も無い。にもかかわらず、神様は私共を愛し、私共の一切の罪を赦し、救ってくださった。何とありがたいことでしょう。これが福音です。私共はこの神様の憐れみ、救いの御心、愛を信じるだけです。「信仰によって義とされる」とはそういうことです。
3.神様との平和
このことによって、私共は神様との間に平和を得ました。これが、救われた、救われているということです。「平和を得た」ということは、それ以前は、私共と神様との間には戦いがあり、敵対関係にあったということです。私共は「いや、神様に対して自分はそんな思いは持っていなかった。」と思うでしょう。確かに私共は、イエス様によって神様の救いに与る以前に、自分と神様との間に争いがあったとは認識していなかったでしょう。そもそも、神様なんて全く意識もしていなかった。それが正直なところでしょう。しかし、それこそが神様に対して敵対していたということなのです。私共を造り、守り、必要の全てを与えてくださっているお方に対して、私共は完全に無視していたわけです。これは、私共の親子の関係で考えてみれば、自分の子どもが親である私を完全に無視し、挨拶もしなければ、存在そのものを無視しているということです。それは相当悪い関係だと言わなければならないでしょう。でも、私共は全くそれを意識していなかった。これが、イエス様に救われる前の私共の神様に対しての有り様だったということです。
しかし、パウロはそのことをはっきり知らされました。それは彼が救いに与った時、イエス様に出会った時のことと関係があったと思います。パウロはファリサイ派の人間として、イエス様を信じる者たちを捕らえ、キリスト教徒を迫害する者でした。ところが、ダマスコの町に行く途中で、彼は復活のイエス様に出会い、救いに与り、伝道者になりました。まさにパウロは、イエス様をお遣わしになった神様に敵対していた者だった。ところが、今や神様に対して「父よ」と呼んで祈る者とされ、神様が自分を滅ぼすなどとは全く考えられない者、神様との愛の交わりの中に生きる者となった。パウロの福音理解の徹底性はここにありました。パウロはキリスト者を迫害していたのですから、まさに神様に対して敵対していたのです。ところが突然、一方的に神様がパウロを捕らえ、救いへと導いた。パウロは救われるために何もしていないのです。私共もそうです。神様の前に、誰はばかることなくこのように集い、「父よ」と祈り、御言葉を与えられ、神様を愛し信頼する者とされている。私共の中に良きところがあったからではありません。何も無い。しかし、救われた。まことにありがたいことであり、これが神様との間に平和を得ているということです。
4.主イエス・キリストによって
この神様との平和を与えられたのは、「主イエス・キリストによって」です。2節の言葉で言えば、「キリストのお陰で」ということです。私共は、この救いに与るために何もしていません。しかし、神の独り子であるイエス様が、私共が救われるために、私共が義とされるために、私共が神様との間の平和を与えるために、すべてを為してくださいました。私共のために、私共に代わって一切の裁きを受け、贖いとなってくださった。それがイエス様の十字架です。
そのことが6〜8節に記されています。6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」とあります。実にキリストは、私共のために死んでくださった。十字架の上で死んでくださった。それは、私共がイエス様を信じたからでもないし、神様に従う者となったからでもありません。私共は自らの罪に引きずられる弱い者でありました。神様の御心など考えたこともない不信心な者でした。神様に義とされる所など、どこを探してもありませんでした。しかし、イエス様は、その弱く不信心な者のために十字架にお架かりになり、私共の一切の罪の贖いとなってくださったのです。
更にパウロはこう告げます。7〜8節「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」本当にそうです。私共は他人のために死ぬことなんて出来ません。自分が恩義を感じる人のためなら命を惜しまないという者はいるかもしれません。でも、自分に逆らい、敵対している者、自分を無視しているような者のために死ぬ、そんな人はいません。けれどもイエス様は、まさにそのような私のために十字架にお架かりになった。命を捨ててくださった。これが神様の愛です。
パウロはキリスト者を迫害する者でした。そんな自分のために、そんな自分を義とするために、救うために、神様との間に平和を得させるために、イエス様は十字架にお架かりになって死なれた。あり得ないことです。このあり得ないほどの愛。それが神の愛です。この神の愛によって、私共は救われたのです。
5.自らの誇り
救いに与った私共は、全く新しい命に生きる者となりました。その新しさは、何を誇りとして生きるのかという所に現れています。
パウロは、それまで自分の中に誇りを持っていました。フィリピの信徒への手紙3章5〜6節にはこうあります。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」とあります。パウロは、「ヘブライ人の中のヘブライ人」という血筋における誇りがありました。信仰・生き方という面においては「ファリサイ派の一員」という誇りがありました。自分の正しさにおいては「律法を非のうちどころがない」ほど守っているという誇りがありました。イエス様の救いに与るまでのパウロは、そのように自分の中に誇るものを持っている者だったのです。
人は皆このパウロのように、何かしら自分の中に誇りを持っているものです。家柄、学歴、仕事、収入、才能、真面目さ、等々。何も無ければ、胸を張って生きていけない。誇りというものは、その意味では人間が生きていく上で必要なものでもありましょう。しかし、この自分の中にある誇りは「傲慢」や「おごり」といったものと結び付くのです。自分は○○だから大した者だと思っている。人には言わなくても心で思っている。そうすると、○○を持たない人に対して見下すということが起きる。これは個人においてもそうですし、集団においてもそうです。これが大きくなれば国家という単位においてもそうなるでしょう。今、日本と韓国との関係が大変悪くなっています。お互いに相手の国はひどいと言い合います。実際の問題としては様々なことがあるのでしょうけれど、その根っこの所には、この「自らを誇る」ということがあるのではないかと思います。これは日本と韓国だけの問題ではありません。今世界中で分断・対立が激しくなっています。その対立を激しくするように、それを煽るような役割をこの「自らを誇る」ということが果たしているように思えてなりません。自らの国を誇り、民族を誇り、人種を誇り、宗教を誇る。それは、パウロが自分のことを「ヘブライ人の中のヘブライ人」と言ったその誇りです。私共はこれを超えていかなければならないのではないかと思うのです。
6.新しい誇り
パウロはここで新しい誇りを語ります。2節b「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」、3節「苦難をも誇りとします。」ここで「誇り」と訳されている言葉は、口語訳では「喜ぶ」と訳されておりました。どちらにも訳せる言葉なのですが、「喜んで誇る」と訳しても良いのかもしれません。
パウロはイエス様の救いに与って、自分が今まで誇っていたものが、何の意味も無い「塵あくた」であることを知らされました。この「塵あくた」という言葉は口語訳では「糞土」、糞、土と訳されておりました。自分が今まで誇っていたものが、自分の救いには何の役にも立たないことを知らされた。そして、誇ることが全く変わってしまったのです。先ほど、誇ることは「おごり」に通じると申し上げましたけれど、この新しい誇りは、神様の前に謙遜になることと結び付く誇りです。おごること、傲慢になることではなく、謙遜になることへと導く誇りです。私共が何かを誇る時、私共はそれを頼っているわけですが、その意味では、頼るものが変わったということです。
「神の栄光にあずかる希望」、それは終末においてイエス様と似た者にされるという希望ですが、パウロはこれを誇る者、この希望に頼る者となったというのです。苦難をも誇るというのは、「そればかりでなく」とありますように、神の栄光にあずかる希望を誇る者にされたばかりでなく、苦難をも誇る者とされたということです。つまり、終末の希望、救いの完成の希望を与えられて、それを誇り、それに頼る者とされたが故に、苦難だって誇れるのだというのです。何故ならば、この希望によって「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という歩みへと導かれたからです。
苦難には誰も遭いたくはありません。しかし、人生の中で何の苦難にも遭わないということなどあり得ません。多くの宗教はこの苦難から逃れることが出来るように約束します。人もそれを求めます。しかし、人は苦難から逃れることは出来ないのです。何故なら、私共は必ず老い、病になり、死を迎えるからです。けれども、パウロは終末の希望、救いの完成の希望を与えられた者として、苦難にも耐え得る者とされた。そして、その歩みの中で練達、これはキリスト者らしい人格と言っても良いでしょうが、それをも与えられることを知っている。それは、どんな時も「希望」が失われることはなく、その希望の中に生きる者となったからだというのです。苦難の中でも希望と共にあり、忍耐の時も希望と共にあり、練達の時も希望と共にある。この希望の力、それを頼り、それを誇る。その希望を与えてくださる神を誇る。神を頼る者とされたというのです。
パウロは「神を誇る」という、新しい誇りに生きる者にされたのです。私共もそうです。目に見えるものを誇り、それを頼るにしても、それは私共の救いには何の役にも立ちません。すべては消えていくだけです。ただ神様だけが、神様が与えてくださった救いの完成の希望だけが、私共をどんな時も生かす力となるのです。この希望、神の栄光に与るという希望こそ、それを与えてくださる神様こそ、私共をどんな時も生かす力であり、どんな苦難や死によっても破られることのない確かなものなのです。
7.聖霊によって与えられる信仰と希望と愛
最後に、「希望」はどのように私共の中に確かなものとされるのかを確認して終わります。5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とあります。希望は聖霊によって私共に与えられます。私共がイエス様の十字架によって救われたことを知るのは、聖霊なる神様が働いて、私共に信仰を与えてくださったからですが、聖霊なる神様は、私共に信仰と共にこの希望をも与えてくださいます。そして、聖霊なる神様は、私共に神様の愛も注いでくださいます。
信仰と希望と愛はいつもセットです。信仰はあるけれど、希望も愛もない。そんなことはあり得ないことです。希望も愛もない信仰など、聖霊なる神様が私共に与えてくださる信仰ではありません。イエス様の十字架の救いを信じる信仰ではありません。イエス様の十字架による救いを信じる者は、その救いの完成の希望を与えられ、神様を愛し、隣り人を愛する愛も与えられます。希望はあるけれど、信仰も愛もない。それはまことの希望ではありません。救いの完成という、何にも破られることのない希望は、信仰無しに与えられることはありません。そして、その希望と共に神様を愛する者とされます。愛はあるけれど、信仰も希望もないということもありません。信仰も希望もない愛は、愛の名に値しませんし、それは聖書が教えるまことの愛ではありません。
私共を生かす神の愛は、信仰と希望と一つです。聖霊なる神様の御業の中で、私共に神様・イエス様への信仰と、神の愛と、終末の希望とが与えられ、御国に向かって生きるという、全く新しい命に生きる者とされた私共です。私共の中に善いものなど何も無いのに、敵対していた私共のために、御子イエス・キリストは十字架に架かってくださった。その御業によって与えられた新しい命です。まことにありがたいことです。この恵みの中、この一週もまた、それぞれ与えられている場において、神の子・神の僕として確かな歩みを為してまいりたいと心から願うのであります。
[2019年1月20日]
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