富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「主を誉め讃える者へと」
詩編 34編2〜11節
ルカによる福音書 1章39〜56節

小堀 康彦牧師

1.神の言葉は必ず実現する
 イエス様の御降誕を喜び祝うクリスマス記念礼拝を守っております。
 イエス様の御降誕は、世界の歴史をそして私共の人生を変えてしまう、重大で決定的な出来事でした。今朝与えられている御言葉には、二人の女性が出て来ます。マリアとエリサベトです。二人とも、イエス様の御降誕という出来事によって、その人生を全く変えられてしまった女性です。
 イエス様の母となるマリア。彼女はこの時、今で言えば中学生くらいの、少女と言っても良い幼い女性です。彼女は、天使ガブリエルによって突然、神の御子イエス様の母となることを告げられました。まだ結婚しておらず男の人を知らないのに、聖霊によって身ごもると告げられたのです。彼女は、告げられたことが何を意味しているのか、よく分からなかったのではないかと思いますけれど、それを受け入れます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。「お言葉どおり」です。先週お話しましたように、このマリアの返答の直前にある「神にできないことは何一つない。」という天使の言葉は、原文にある「言葉」という単語が抜けて訳されています。つまり、天使ガブリエルが告げたのは、「神様が語られた言葉で実現不可能なことはない」という意味なのです。この天使の言葉を受けて、マリアは「神様の言葉のとおり、神様の御業がこの身に成りますように。」と答えたということです。

2.主の言葉が実現することを信じる者の幸い
 神様が語られた言葉、神様が約束された言葉を、神様は必ず実現される。だから、マリアは聖霊によって男の子を身ごもり、出産する。神様に出来ないことは何一つない。マリアは、神様の言葉が現実となることを信じ、受け入れました。これが聖書が示している信仰です。神様は何でもお出来になりますし、何でも御心のままに為される。それはそのとおりです。しかし、神様は闇雲に何でも為されるということではなくて、あらかじめ言葉を与え、その言葉・約束を果たすためには何でも為さるのです。イエス様の誕生もまた、救い主を与えるという約束の実現でした。また、その救い主の前にエリヤのような預言者を与えるという約束・預言の成就として、洗礼者ヨハネが生まれます。そのヨハネの母として選ばれたのが、既に高齢となっており子など産めるはずがないと思われていたエリサベトでした。
エリサベトは、マリアより半年前に洗礼者ヨハネを身ごもっておりました。マリアがエリサベトの所に行った時、エリサベトが告げた言葉もまた、45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」というものでした。実にマリアの幸いは、主が語られたことは実現すると信じたからだと言うのです。「わたしの夫なんか、祭司なのに天使の言ったことを信じなくて、口が利けなくされちゃったのよ。」そんなことを話したかもしれません。もちろん、ザカリアも、ヨハネが生まれると口が利けるようになるのですけれど。
 私共は、「幸い」と言えば、目に見える、何か自分にとって都合の良いことが起きることだと思ってしまうところがあります。確かにそれも幸いであるには違いないでしょうけれど、聖書が告げる幸いは、もっと大きく深く豊かなものです。それは神様と共に生きて、神様の御業の道具とされることであり、神の国に招かれることであり、復活の命に与ることです。エリサベトは、神様が自分に告げたことを信じ受け入れた者こそ、この幸いに与ると言ったのです。
 今朝、一人の青年が洗礼を受けます。彼もこの幸いに与る者となる。嬉しいことです。信仰を告白して洗礼を受ける。それは、神様の約束の言葉を信じて生きる者となるということであり、神様の御業の道具とされて生きる幸いに与るということです。神様の言葉は、他でもない私の上に成就するのだ。そのことを信じ、受け入れて生きる者となるということです。

3.何故、マリアはエリサベトの所に行ったのか
 さて、マリアはエリサベトの所に行ったのですが、39節「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」とあります。マリアは「急いで」行ったのです。ナザレから、ザカリアとエリサベトの家があるユダの町まで、この町が何という名の町なのか、どこにあったのか分かりませんので断定することは出来ませんけれど、100kmは離れていたと思います。ちょっと行ってくるという距離ではありません。どうして、マリアはこんなに離れたエリサベトの所まで、急いで行ったのでしょうか。
 それは、天使ガブリエルがマリアに男の子を産むと告げた時、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。」と知らせたからです。しかし、既に高齢であるエリサベトが本当に身ごもっているかを確かめに行ったということではないでしょう。マリアは、天使ガブリエルによって男の子を産むと告げられ、それを受け入れましたけれど、そのことを共に分かち合う人はいなかった。いいなずけのヨセフに言っても信じてくれないでしょう。こんなあり得ない話は、誰に話しても信じてもらえないし、まして共に喜ぶことなんて出来ないでしょう。マリアは、特別に選ばれた人であるが故の孤独もあったのではないでしょうか。そういう中で、この人なら分かってもらえる、この人なら共に喜び合える、神様の不思議な選びと力によって身ごもるという経験をこの人となら分かち合える、そう思って、マリアはエリサベトの所に急いだのではないかと思います。
 マリアの期待通り、エリサベトはマリアの挨拶を聞いただけで、マリアが誰であり、マリアの上に何が起きたのかを分かってくれました。エリサベトに聖霊が降り、すべてを悟らせたからです。そして、エリサベトは声高らかにマリアに言いました。42〜45節「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」神様の不思議な御計画と力によって子を宿した二人の女性。高齢のエリサベト、そして年齢だけ見れば祖母と孫ほどの年齢の違いがあるマリア。二人は自分の身に起きたこと、そしてそこから始まる神様の救いの御業について、共に喜び合ったのです。

4.マリアとエリサベトの交わり:キリストの教会
 ある人は、ここにキリストの教会の姿があると言います。その通りだと思います。神様に触れ、神様の御業に与った者は、独りではいないのです。必ず交わりを求めます。同じ救いに与った者による交わりを形作る。それは、共に神様をほめたたえたいから、賛美したいからです。神様の不思議な選びと御計画の中で、共に神様の救いの御業に用いられることになった者の交わりには、必ず賛美が生まれます。この交わりは何と麗しいことかと思います。
 クリスマスのこの時期、どこでもクリスマスの飾りが飾られ、子どもたちはサンタクロースのプレゼントを楽しみにしています。しかし、このクリスマスが、私のために、私に代わって十字架に架かってくださった神の御子の誕生を祝う日であることをまともに受け取る人は多くはありません。キリスト無きクリスマスが祝われている。しかし、私共は知っています。このクリスマスの出来事によって、この世界も私の人生も変わってしまったということを。そして、そのことを私共は喜び祝っている。マリアとエリサベトのように年も違い、生きる場も違っているけれど、共に神様の不思議な御業に生かされている。56節「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」とありますが、その三か月間、マリアとエリサベトの間には、互いに心を開き、主をほめたたえる麗しい時が流れていたことでしょう。

5.マリアの賛歌
 マリアはここで神様をほめたたえます。46〜55節にあるマリアの賛歌です。この歌は、ラテン語訳の最初の言葉をとって「マニフィカート」と呼ばれてきました。教会でとても大切にされてきた歌です。
 この歌は、マリアとエリサベトの交わりの中で与えられたと言って良いでしょう。神様の不思議な御業、救いの御業に与った者が二人、三人と集えば、そこに必ず神様をほめたたえるという出来事が起きる。「主をほめたたえる」ということは、私共の交わりを特徴付けるものと言っても過言ではありません。実に私共は、神様によって「主を賛美するために創造された」(詩編102編19節)者だからです。共に賛美することの重大さに私共は目が開かれる必要があります。
 昨夜はキャロリングをしました。車に分乗して、教会員のお宅を訪ねる。玄関の外で讃美歌を歌う。すると、家の中から教会員とその家族が出てきて、一緒にクリスマスの讃美歌を歌う。冬の空に響き渡るように大声で歌います。私は、ここに神の国は来ている、そう思いました。共に主の御降誕を喜び祝って讃美歌を歌う。ここに神の国の姿が現れている。最初のクリスマスの日、天ではおびただしい数の天使たちが、主の御降誕を喜び祝った。神の国において私共が為すことは、神様を賛美することなのです。

6.神様を大きく、私は小さく
 マリアはこう歌い始めます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」「主をあがめる」とは、直訳すれば「主を大きくする」ということです。そして、48節「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と続けます。マリアは自らを低くし、主を大きくします。いや、主の大きさに打たれて、自らは必然的に小さくされるということなのでしょう。自分が自分がと思っている限り、主を大きくする、主をあがめることは出来ません。
 マリアは、聖霊によって身ごもるなんてあり得ないと初めは思いましたが、神様の言葉ならそういうことも起きる、と受け入れました。しかし、マリアは、自分が神の御子を産むにふさわしいとは決して思いませんでした。神の御子を産むこと、神の御子の母となることにふさわしい人なんているはずがありません。神の御子の尊さの前に立てば、マリアは自らを「はしため」(女奴隷)と言うしかなかった。これはマリアが実際に女奴隷であったということではないでしょう。パウロも自らを「主の奴隷」と言いました。神様が大きくなる時、私共は小さくなる。それは、立山に登れば、自分の小ささを否応なく知らされるのと同じです。神様は大きい。私は小さい。それで良いのです。私が大きくなれば、神様を小さくしてしまう。
 ここで、自分を小さくするとは、自分を卑下することではありません。自分はどうせ何も出来ない、取るに足らない者だと卑屈になることでもありません。マリアは、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」と歌います。それは、「力ある方が、」つまり神様が、「わたしに偉大なことをなさいましたから。」ということなのです。神様から受けた愛、神様の憐れみ、神様の御業の大きさ、それをしっかり見つめてその前に立つ時、私共は、自分のプライドなどどんなにつまらないものかということを知るのでしょう。そして、神様が私に為してくださった御業、神様が私に注いでくださっているまなざしだけが、私の本当の価値を教えてくれるのです。
 一昨日、松原葉子姉のクリスマス・コンサートが県リハビリテーション病院にて行われました。私共の教会から20名くらいの方が聴きに行きました。葉子姉は20分くらいリード・オルガンを演奏されました。神様はここまで葉子姉を回復させてくださった、そのことを喜ぶと共に、葉子姉の演奏・存在・言葉が一つになって神様を指し示していて、「主をあがめる」とはこういうことだと思わされました。思わず涙が出ました。この涙は、神様の御臨在に触れた涙だったのではないか。そう思いました。

7.神の国から見ると
 マリアは、51〜53節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」と歌います。ここで、マリアは現在のこの世の秩序が逆転するかのように歌っていますけれど、マリアが見ているのは神の国です。主の到来によって始まる神の国です。神の国の秩序、神の国の有り様です。この世では、地位や名誉や富が大きな意味を持ち、その人の価値を決めるようなところがありますけれど、神の国ではそんなことはありません。例えば、神の国にお金はあるでしょうか。私は無いと思います。富そのものが無いと思います。ですから、富んでいる者と貧しい者の区別もありません。地位も権力も無いでしょう。あるのは、神様御自身の御心と栄光だけです。やがて必ず来る神の国においては、地上における権力や身分や富といったものが無意味なものになってしまう。マリアはそのことを歌っています。実にキリストの救いに与った者は、この地上を生きながら、天の国、神の国を目指し、その心をもって生きる。それが、クリスマスによって人生を全く変えられてしまった私共の歩み方です。

8.聖餐に与る
私共は今朝、マリアとエリサベトという、イエス様を身ごもった女性と洗礼者ヨハネを身ごもった女性について記した聖書の言葉を聞きました。二人は、不思議なあり方で我が身に子を宿したわけです。私共はこの二人のように特別な子を宿すわけではありません。男性はもちろんいつまでたっても子を宿すことは出来ません。しかし、私共は聖餐に与ります。イエス様の体と血とに与ります。それは子を宿すということと全く同じではありませんけれど、イエス様御自身を、イエス様の命を我が身に受けるということにおいては似ていると思います。
 私共がへりくだる前に、神様が徹底的にへりくだられ、天から地へと降られた。全能の方が、何も出来ない赤ちゃんになられた。そして、飼い葉桶に寝かされ、十字架の上で殺されるという所にまで下られ、更に陰府にまで下られた。この徹底した神様のへりくだりは、今このパンと杯の中に御自身を臨ましめるというところに現されています。この聖餐に与る度に、私共は神様の徹底したへりくだりの事実に触れます。イエス様がマリアに宿られたように、イエス様は今、このパンと杯に御臨在され、私共の中に入り、私共と一つになってくださる。何とありがたい、何と畏れ多いことかと思います。今、マリアと共に、エリサベトと共に、憐れみ深い主をあがめ、ほめたたえたいと思います。

[2018年12月23日]

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