1.アドベント第三の主の日を迎えて
アドベント第三の主の日を迎えています。次の主の日には、クリスマス記念礼拝を迎えます。昨日は子どものクリスマス会が行われました。今日の礼拝後と明日、明後日には訪問聖餐が行われ、今週の土曜日にはキャロリングが行われます。是非皆さんも一緒に行ってくださればと思います。昨日の子どものクリスマス会では、中高生が受付の手伝いをしてくれました。あの小さかった子たちがと思うと、本当に嬉しいことでした。
2.受胎告知
さて、今朝与えられております御言葉は、受胎告知と呼ばれる、天使ガブリエルがマリアに神の御子を宿すことを告げる場面です。絵画にもたくさん描かれている、大変有名な場面です。
先々週、先週と、洗礼者ヨハネの誕生の予告、そして洗礼者ヨハネの誕生の場面の御言葉を受けました。ルカによる福音書は、イエス様の誕生の出来事を、洗礼者ヨハネの誕生の出来事と対になるように記しています。この受胎告知の場面も、26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」と書き始められています。この「六か月目に」というのは、その前に記されております、洗礼者ヨハネが高齢になっていたエリサベトの胎に宿ってから六か月目ということです。ここでも、イエス様の誕生が洗礼者ヨハネの誕生と関連して記されています。洗礼者ヨハネが、救い主の前に遣わされる、エリヤの霊と力を持つ預言者、救い主のために道を備える者であり、その後に来るイエス様がまことの救い主であるということを語っているわけです。洗礼者ヨハネの誕生を予告した天使の名はガブリエル、そしてマリアにイエス様の誕生を告げた天使もまたガブリエルでした。
天使ガブリエルは、マリアの所に来て彼女にこう告げました。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この時のマリアの年齢は記されていないのではっきりとは分かりませんけれど、ヨセフのいいなずけであったと記されております。当時の習慣では14、5歳で結婚していましたので、そのことから考えると10代の半ばより前、12〜14歳くらいではなかったかと考えられています。現代とは社会も習慣も全く違いますので、単純に比較することは出来ないでしょうけれど、この時のマリアは中学生ほどの少女ということになります。その少女マリアの所に天使ガブリエルが来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。
3.おめでとう???
「おめでとう」と訳されている言葉は、直訳すれば「喜べ」です。これは当時の挨拶の言葉です。ここでは次の「恵まれた方」というのに合わせて「おめでとう」と訳されていますが、復活されたイエス様が墓に来た婦人たちに会った時に言われた言葉も同じ(マタイによる福音書28章9節)ですが、そこは新共同訳では「おはよう」と訳されています。
それにしても、何が「おめでとう」なのか。何が「喜べ」なのか。天使ガブリエルが告げた言葉は、少女マリアにとってただただ驚きであり、不安と恐ろしさしか感じないことでした。天使ガブリエルは更にこう告げます。30〜31節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」身ごもって男の子を産む。マリアが既に結婚しているのならば、男の子を宿すということは嬉しい喜びの出来事であったことでしょう。しかし、マリアはまだ結婚していないのです。結婚していない少女が子どもを産む。それは少しも嬉しく喜ばしいことではありません。第一、いいなずけのヨセフはどう思うでしょう。実際、マタイによる福音書には、マリアが子を宿したことを知ったヨセフはマリアと離縁することを決めたと記されています。また、当時の慣習から言えば、結婚していない女性が子を産めば、姦淫の罪を犯した者として石打ちの刑です。
当然、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)と言います。自分が子どもを産む。あり得ない。マリアはそう思います。当然です。しかし、天使ガブリエルは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(35節)と告げるのです。あなたは聖霊によって身籠もり、男の子を生む。しかもその子は、神の御子と呼ばれると天使ガブリエルは告げたのです。しかし、マリアにしてみれば、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言ったのは、男の人を知らないのに、どうやって生まれるか、どのようにして生まれるのか、そんなことを聞いているんじゃない。嫌だと言っているんだということだったのかもしれません。そのように読みますと、ガブリエルが告げることは、マリアの思いとは食い違っているようにも見えます。
そんなことはお構いなしに、ガブリエルは更に言います。36〜37節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」ガブリエルは、高齢で不妊の女であったエリサベトも子を宿しているではないか、あなたも知っているでしょう。だからあなただって子を生むことが出来ます。天使ガブリエルはエリサベトを証人として立ててマリアを説得するのです。
天使ガブリエルはマリアを説得します。しかしそのあり方は、マリアの気持ちを汲んで妥協点を見出すというあり方ではありません。マリアが、救い主であり神の子であるイエス様を産む。それは決まっていること。しかも、聖霊によって身ごもる。それは神様がお決めになっていること。ガブリエルはそれを告げに来ただけであって、それを変更するような権威は与えられていないのです。
4.お言葉どおり、この身に成りますように。
マリアにしてみれば、何が何だか分からない。何で自分が子を産むのか。まだ結婚していないのに。しかも、その子は神の子。こんなことはあり得ない。そう思った。この「あり得ない」というのは、「結婚していないのにあり得ない」ということと、「わたしのような者が神の子を産むなんてあり得ない」という二重の意味があったでしょう。そして、「嫌だ!真っ平御免だ!」というニュアンスもあったと思います。しかし、マリアは結局、天使ガブリエルの告げたことを受け入れるのです。
ここで天使ガブリエルは「神にできないことは何一つない。」と言うのですが、この訳には抜けている言葉があります。それは「言葉」という単語です。直訳すれば、「神はすべての言葉で実現不可能なものはない」です。この「神にできないことは何一つない」という言葉は、単に神様の全能性を告げているだけではありません。神様が語られたこと、神様が約束なさったことは必ず実現するとガブリエルは告げたのです。この言葉は創世記18章14節において、年取ったサラに子どもが与えられると告げた天使の言葉を受け入れずに笑ったサラに対しても告げられました。この時も、既に「来年の今ごろに子どもが生まれている」と言う天使のことを笑ったことに対して、天使が「そうではない。告げられた神様の言葉は必ず実現する。」と言われたのです。ただ、神様は全能なのだと言っているのとは少し違います。そして、この天使ガブリエルの言葉を受けて、マリアは、38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えているわけです。「お言葉どおり」です。
何故マリアがこれを受け入れたのか、その事については後ほど述べます。ただ、ここで記されていることは、昔話でもなければ、おとぎ話でもありません。実にリアルな神様と人間との関わりです。神の子をお腹に宿すというこの驚くべき出来事は、マリアだけが経験したことです。他の誰にもこの経験はありません。その意味で、マリアはまことに特別な存在です。しかし、天使ガブリエルが告げた「神の言葉は何一つ実現不可能なことはない」ということを受け入れた者の幸いは、すべてのキリスト者が知っていることです。私共は神様の約束・神様の言葉を信じ、そこに自分の人生を投入していく、そのような者として新しく生まれ変わらせられた者です。マリアは、この「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉と共に、すべてのキリスト者の歩みの先頭に立つ者となりました。
5.マリアの幸い
ここで、マリアの人生を少し考えてみましょう。神様は、いいなずけであったヨセフにも夢でお告げを与え、マリアを受け入れるように導きます。ヨセフはマリアを受け入れ、ヨセフとマリアは人口調査のためにナザレからベツレヘムに旅をします。ナザレからベツレヘムまで、直線でも100kmです。道は曲がりくねっていますので、多分2、3週間はかった旅だったと思います。身重のマリアにとって、それは大変な旅だったでしょう。そして、ベツレヘムでイエス様を産みます。それは家畜小屋での出産でした。さらに、ヘロデ王にイエス様の命は狙われ、マリアたちはエジプトに逃げました。(マタイによる福音書2章13〜14節)。今で言うところの難民にもなったのです。やがてナザレに戻ったイエス様は成長し、父ヨセフと同じ大工の仕事をしていたと考えられています。そして、イエス様は30歳になると、公の生涯を始められました。マリアは、そんなイエス様を家に連れ戻そうとします(マルコによる福音書3章21節)。しかし、それも出来ず、マリアはイエス様が十字架に架けられて殺される姿を見なければなりませんでした。我が子の死を見る。しかも、十字架という処刑による死です。母として、こんなに辛いことはないでしょう。こうして見ると、イエス様を産んだ母マリアは幸せだったのかどうか。そう思われる方もいるのではないでしょうか。
しかし、福音書記者ルカは、マリアは「恵まれた方」だと明言するのです。天使がそう告げたのです。そして、キリストの教会もまた、このマリアを恵まれた方だ、女の人の中で最も幸いな人だと受け止めて来ました。それは、聖書が告げる神の恵み、神様が与えるまことの幸いとは、家内安全・商売繁盛というようなことではないからです。それが幸いではないとは言いません。しかし、聖書が告げる幸い、神様の恵みとは、そんな小さなものではないのです。聖書が告げる神の恵み、神様が与えるまことの幸いとは、「主が共におられる」ことです。そして、この自分と共におられる主の御業の道具として、自分自身が、自分の人生が用いられることだからです。マリアは、主の言葉が自分の上に実現することを受け入れ、自分の人生が神様の御業の舞台となることを受け入れた。聖書が告げるまことの幸い、神様が与えてくださる本当の恵みがここにあります。
6.私共に告げられる神の言葉
私共の生涯もそうなのです。私共の中で、絵に描いたような幸いな生涯を送った人なんでいないでしょう。皆、様々な課題があり、心配事がある。色んなことがあった。どうしてこんなことになってしまったんだろうと思うような状況の中を生き抜かなければならないこともあった。聖書は、どうしてそのような状況の中を私共が歩まなければならないのか、それについて上手い説明をしてくれるわけではありません。ただ、はっきりこう告げるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」これが今朝、私共に告げられている神の言葉です。何とふざけたことを言うのか。私のどこが恵まれているのか。そう言いたいことだってあるかもしれません。でも、神様は、マリアに告げたこの言葉を取り消されなかったように、今朝私共に告げる「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉も撤回されません。皆さんが今どのような状況の中を生きているとしても、撤回されません。何故なら、神様はそのような者として私共を愛してくださっているからです。神様が語られた言葉は必ず実現します。私共に告げられた神様の言葉は必ず実現します。神にできないことは何一つありません。私共は、神様が今朝私共に告げられた言葉は実現する、そのことをマリアと一緒になって受け入れるのです。そこに、私共のまことの幸いがあるからです。
少女マリアが、このように神の御子の母となることを受け入れたということは、本当に奇跡です。しかし、本質的にはこれと同じ奇跡の中を、私共も生きているのです。長老や執事、或いはオルガニスト、教会学校の教師、そして牧師も皆、自分が立てられる時、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」そうつぶやいたのではないでしょうか。自分なら、なって当然。そんな風に思った人など一人もいないと思います。しかし、「私は主の僕です。」と言ってこれを受け入れ、立てられたのでしょう。私も、牧師の召命を受けた時、「そんなことはあり得ません。」と言って7年間、神様の召命を受け入れることが出来ずに逃げ続けました。しかし捕らえられ、こうして牧師として立てられ32年が経ちました。
そもそも、信仰を与えられキリスト者となるということ自体が奇跡なのです。どうして、罪に満ちたこの私が神の子としていただけるのか。イエス様と一つにされて、一切の罪を赦していただき、永遠の命に与る者とされるのか。あり得ないことです。しかし、あるのです。神様がそのようにすると約束されたからです。神様が、その全能の御力をもって私共に臨み、頑なな心を砕き、神の僕となることを受け入れさせてくださったからです。神様の言葉がそのとおりになると信じる者としてくださったからです。
7.主が共にいてくださるが故に
天使ガブリエルは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。ということは、天使ガブリエルがマリアに現れた時、既に主がマリアと共におられたということです。だからマリアは、この天使の言葉を受け入れることが出来たのです。マリアがとても受け入れることが出来ない様な天使の言葉を受け入れた秘密がここにあります。マリアが信仰深かったからとか、マリアが純真だったからというようなことではないのです。聖霊なる神様が共にいて、マリアが天使の言葉を受け入れることが出来るようにしてくださったのです。そして、マリアをまことに幸いな者としてくださった。
私共とて同じです。主が共にいてくださるから、信じることが出来たのです。信じる者としていただいたのです。イエス様の十字架も復活も、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言わざるを得ない出来事です。クリスマスの出来事もそうです。どうして、少女から男の子が生まれるのか。どうして、天地を造られた永遠のお方、無限のお方が、一人の人間としてマリアという女性から生まれるのか。あり得ないことです。このあり得ないことを、ありがたいこととして受け入れ、信じる者としていただいたのでしょう。
このクリスマスの出来事の不可能性、あり得なさは、マリアが主の言葉を受け入れる以前にあります。マリアが自分を「主のはしため」(神様の女奴隷)とへりくだる前に、実に神様御自身が天の高みから地の低きへと降られるという決断、神様の徹底したへりくだり、あり得ないほどのへりくだりがあった。私共がへりくだる前に、神様のへりくだりがあった。このへりくだりこそ、本当に驚くべきことなのです。天の高みから地に降り、地でも更に低い飼い葉桶にくだり、更に人の中でも最も低い十字架に架けられる罪人のところにまで降り、更に黄泉にまでくだられる。この徹底的にへりくだられた神様の有り様こそ、あり得ないこと、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言うべきことではないでしょうか。
そして、この神様のへりくだりは、まことに愚かで自分のことしか考えられない私と共にいてくださる、私と共に歩んでくださる、私共の父となってくださっている。そこまで徹底されています。この驚くべき事実に目が開かれること、そしてこの方と共に生きること、それこそが私共に与えられている最も幸いなことです。この幸いは、私共の肉体の死を超えて、決して失われることのない幸いです。この幸いに生きる者とされていることを、今朝マリアと共に喜びたいと思います。
[2018年12月16日]
へもどる。