1.アドベント第二の主の日を迎えて
アドベント第二の主の日を迎えています。先週はノアの会のクリスマス会、昨日には富山市民クリスマスが行われました。今週の土曜日には子どものクリスマス会が行われます。私が教会に通い始めた頃、不思議だなと思ったことの一つが、どうして教会では12月になると色々なクリスマス会が行われるのかということでした。その頃の私の感覚では、クリスマスは12月25日なのだから、その日にお祝いするのは分かる。でも、どうして何週間も前から「クリスマス、クリスマス」と言って祝うのか、ちっとも分からなかったのです。だって、正月がめでたいと言って祝う人は多いですけれど、一ヶ月も前から正月を祝っている人なんて見たことがありません。クリスマスだと言って浮かれて楽しむのが何と好きな人たちなのか。そんな感じでした。アドベントのこともよく知らなかったものですから当然なのですけれど、この違和感は多くの日本人が持っているものなのではないかと思います。それは、「クリスマス=パーティー・宴会・お楽しみ会」だと思っているからだろうと思います。ちょうど忘年会のシーズンと重なっていますので、クリスマス会というのは忘年会の別名で、ただのお楽しみの会と思っている人も多いかもしれません。実際、教会の外では、そのようなクリスマス会が色々な所で行われています。
では、何故キリストの教会は、まだクリスマスが来ていないのに、色々なクリスマス会を行うのか。一つには、クリスマスを、12月25日の一日だけでなく、アドベントから始まるシーズンとして捉えているということがあると思います。では、どうして一ヶ月もの間、クリスマス・シーズンとして喜び祝うのか。それは、クリスマスの出来事が、それほどに大きな出来事、それほどに大きな喜びの出来事だからだと思います。イエス様がお生まれになった。救い主が来られた。この方の十字架の出来事によって、すべての人が救いへと招かれた。私が救われた。この世界の歴史が変わってしまった。私の人生も変わってしまった。この喜びの大きさが、12月25日だけ祝えばいいという思いを吹き飛ばしてしまったのではないかと思います。天地創造以来の神様の救いの御計画が遂に実現した。そして、その救いの御業を完成するために、再びイエス様が来られる。確かに、まだ完成されてはいないけれど、私は、この世界は、救いの完成へ向かって歩んでいる。何という喜び。何と嬉しいこと。何と幸いなこと。
今年もまだクリスマスは来ていません。しかし、私共は既にクリスマスの喜びの中に生きている。クリスマス・シーズンに入ると、牧師は本当に忙しい。けれども、その忙しさは心を滅ぼす忙しさではありません。喜びの忙しさです。喜びに包まれての忙しさです。本当にありがたいことだと思うのです。
2.洗礼者ヨハネの誕生、自然な喜び
さて先週、アドベント第一の主の日、私共は洗礼者ヨハネの誕生が予告された御言葉を受けました。洗礼者ヨハネの父ザカリアは祭司であり、祭司としては一世一代の晴れ舞台であったエルサレム神殿において香をたくという奉仕を行っていた時、御使いガブリエルが彼に現れ、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」そう告げられたのですが、ザカリアはそれを信じて受け入れることが出来ませんでした。ザカリアも妻エリサベトも年をとっていたからです。信じなかったザカリアは、口が利けなくされてしまいました。そして、天使ガブリエルが言ったとおり、妻エリサベトは身ごもり、それから十月十日が過ぎ、ヨハネが誕生しました。
今朝与えられております御言葉はこの場面です。57〜58節「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」とあります。既に年をとっていたザカリアとエリサベトに男の子が与えられた。子が生まれるというのは、いつの時代でも嬉しいこと、喜ばしいことです。それは自然な感情です。近所の人々も親類も皆喜び、祝ったのです。現代の日本では、出産は極めて個人的な喜びになってしまっているところがありますが、イエス様の時代、子が生まれることはその村全体の喜びであり、親類一同の喜びでした。もっとも、エリサベトに子が与えられない時に、「全くあの嫁は役立たずだ。しょうもない嫁だ。ザカリアも可哀想に。」などと言っていたのも彼らだったに違いないのです。それ故、エリサベトはつらい思いをしました。しかし、そんなことはみんな忘れています。「年をとったあのエリサベトに子が与えられたって。本当によかった、よかった。めでたい、めでたい。」そんな風に、人々はエリサベトの所に来ては喜んだことでしょう。
彼らの喜びは自然な喜びです。しかし、自然な喜びというものは、自然な悲しみによって失われてしまうものです。では、ヨハネの誕生は自然なことだったでしょうか。そうではありません。ザカリアは、天使ガブリエルの言うことを受け入れることが出来ませんでした。年をとった自分たちに子が与えられるなどということは、あり得ないと思ったからです。そうなのです。この男の子の誕生は、自然なことではありませんでした。自然を超えた方、この自然を造り支配しておられるただ独りの神様による業でした。ですから、この男の子の誕生は、自然な喜びを超えた、神様の御業によって与えられる大きな喜び、どんな自然な悲しみによっても打ち消されることのない喜びをもたらすものでした。でも、ここで男の子の誕生を喜び祝う人々は、そのことに気付いていません。
3.その名はヨハネ
しかし、事件が起きます。この出来事が神の御業であることが明らかにされる事件です。59節「八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。」当時のユダヤにおいては、男の子は生まれて八日目に割礼を施し、名前を付けることになっていました。ザカリアは祭司です。妻のエリサベトもアロン家の娘です。どちらも祭司の家系です。今では、子どもの名前は両親が付けるのが当たり前ですけれど、当時のユダヤにおいては、親類の伯父さんとかがやって来て名付け親となる、それが普通だったようです。彼らはこの男の子をザカリアと名付けようとします。しかしその時、60節「ところが、母は、『いいえ、名はヨハネとしなければなりません』と言った。」何と母親であるエリサベトが「名前はヨハネとしなければなりません。」とストップをかけたのです。当時の女性の地位からすると考えられない発言でした。「年長の親類の男たちが話し合って決めたことに、女のお前が口を出すのか。」そんな空気が流れたかもしれません。「ザカリアJr.で何がいけないのか。大体、ヨハネなんて名前は、自分たちの家系にはいない。」しかし、この時のエリサベトの言葉には、親類の者たちであっても、女の言っていることだと無視することが出来ない程の気迫がこもっていたのでしょう。
エリサベトはこの10ヶ月の間に、夫ザカリアから(ザカリアは口が利けなかったので筆談という形だったろうと思いますが)、あの時神殿で何があったのかをちゃんと教えられていたのだと思います。エリサベトは、お腹に子を宿した時からずっと、この子は不思議な神様の御業によって与えられた子、そして、この子には神様によって与えられている特別な使命がある、そのことを口の利けないザカリアから教えられ、しっかり心に刻んでいたに違いないのです。ここで、この子をザカリアと名付けてしまえば、天使ガブリエルによって告げられたことを全く受け入れないということになってしまう。そんなことは出来ない。エリサベトは、決して引き下がらないという決意と気迫をもって、「名前はヨハネとしなければなりません。」そう発言したのです。
親類の男たちは、このエリサベトの気迫に押されて、62節「父親に、『この子に何と名を付けたいか』と手振りで尋ねた。」のです。すると、ザカリアは字を書く板に「この子の名はヨハネ」と書いたのです。これはザカリアの信仰告白でした。天使ガブリエルによって告げられたことをすべて信じ、受け入れますという信仰告白でした。名前は天使ガブリエルに言われたとおりヨハネと名付けるけれども、この子が「エリヤの霊と力で主に先立って行く」ことは認めないとか、この子が「準備のできた民を主のために用意する」ことは認めないということではなくて、天使ガブリエルが言ったことをすべて信じ、受け入れます。その表明として、ザカリアは「この子の名はヨハネ」と書いたのです。
ちなみに、「ヨハネ」とは「主は憐れむ」という意味です。ですから、この名前には、神様は子どものいないザカリアとエリサベトを憐れんで子どもを与えてくださったという意味と、神様はイスラエルを憐れんで救い主のために道備えをする者を与えてくださったという意味があったと思います。
4.神様を賛美するヨハネ
さて、「この子の名はヨハネ」と書いた途端、ザカリアは口が利けるようになりました。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を信じられず、受け入れることが出来なかったために口が利けなくなったのですから、これを信じ、受け入れた時、口が利けるようになったというのは道理に適っています。
ザカリアは、口が利けるようになって何を語り出したか。それは「神を賛美する」ことでした。どうして口が利けなくなったのかを人々に説明するのでもなく、10ヶ月間口が利けなかった時のつらさを話すのでもなく、神を賛美した。私は、ここに聖なる神様の御臨在を見ます。ザカリアの人柄とか信仰深さとか、そんなことをここから読み取っていては、聖書が語ることをきちんと受け取れません。ザカリアの口が利けなくなったのも、そして再び口が利けるようになったのも、神様の御業です。そして、ザカリアが再び口が利けるようになったこの時、その神様がザカリアの上に臨み、その口に賛美を与えられたのです。この場に居合わせた人々が「皆恐れを感じた」(65節)というのは、この神様の御臨在に触れたからです。ただならぬことがここで起きている。そのことをはっきり知らされたからです。聖なる神様の現臨に触れる時、人は恐れるのです。平気でいられる人なんていません。彼らは、ここでザカリアが告げる預言を聞きます。そして、このヨハネの誕生が、単に男の子が生まれたという自然の喜びではなく、神様の救いの御業の実現という大きな喜び、自然の悲しみによって奪われることのない喜びをもたらすものであることを知ることになりました。
68節以下に記されているザカリアの預言は、ラテン語訳聖書のこの部分の最初の言葉を取って、「ベネディクトゥス」と呼ばれてきました。教会の歴史の中でとても大切にされてきたものです。ここでは小見出しに「ザカリアの預言」とありますけれど、47節以下にある「マリアの賛歌」と同じように、「ザカリアの賛歌」と言って良いと思います。確かにザカリヤは預言していますけれど、彼は今現に進みつつある神様の御業を知らされ、喜びに包まれています。そして、神様を賛美している。実に、賛美は神様の御臨在によって与えられるものなのです。
5.罪の赦しという救い
ここで、ザカリアがヨハネについて語っているのは、76〜77節だけです。その他の部分はすべて、イエス様によって与えられる救いの御業を語っています。ここで、ヨハネとは何者であるのか、イエスサのによる救いとはどのようなものなのかが明示されています。
76〜77節「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」とあります。76節の「幼子」とはヨハネのことです。「お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」とあります。一方、イエス様については、天使ガブリエルがマリアに現れた時、イエス様は「いと高き方の子と言われる」と告げました(ルカによる福音書1章32節)。イエス様は「いと高き方の子」であり、ヨセフは「いと高き方の預言者」です。つまり、ヨハネは預言者であり、イエス様はヨハネによって預言される方、救い主として指し示される方ということです。
そして「主に先立って行き」と言われた「主」とは、イエス様のことです。つまり、ヨハネはイエス様に「先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」のです。ここで、ヨハネが先立って整える道とは、「罪の赦しによる救い」の道であることが明らかにされています。68節では「解放」という言葉が使われ、71節では「憎む者の手からの救い」、74節では「敵の手から救われ」と言われており、何か社会的、民族的な敵からの解放、救いというイメージを持つかもしれませんけれど、そうではありません。ここではっきりと、「罪の赦しによる救い」と告げられています。イエス様によってもたらされる救いとは、「罪の赦しによる救い」なのです。もちろん、この世界に今も厳然としてある国と国、民族と民族の対立、紛争、これも私共の罪の結果でしょう。ですから、そのような問題に対しても、イエス様の救いに与って平和への道が備えられていくことを信じて良いのです。しかし、この罪の問題が解決されない所では、やはり罪が我が物顔にのさばり、私共自身も、この世界も、ただ罪の闇の中にうずくまるしかない。しかし、イエス様は、そのような闇を引き裂いて天来の光をもたらす方として来てくださったのです。それがクリスマスです。私共は最早罪の闇の中に生きるのではなく、イエス様が与えてくださった「罪の赦し」という救いの道を歩む者とされたのです。
6.旧約の成就としての救い主の到来
今、残念ながら、このザカリアの預言について丁寧に見ていく時間がありません。ただ二つのことを確認します。
第一に、68〜75節が告げていることは、イエス様によってもたらされる救いは、アブラハムとの契約が忘れられていなかったからであり、救い主はダビデの家から起こされるという預言の成就だということです。ヨハネもイエス様もたまたま生まれたのではありません。旧約の歴史の結果、長い神様の救いの御業の結果として与えられた出来事だということです。アブラハムとの契約も、ダビデの子孫として生まれるとの預言による約束も、神様は何一つお忘れにはなっていなかったということです。
第二に、78〜79節ですが、イエス様によってもたらされる救いは、「あけぼのの光」のように、罪の暗闇、死の陰に力なく膝を折って座り込んでしまっている人々に、生きる力と希望を与えるものだということです。この光は、罪の赦しをもたらす十字架の光、死を打ち破られた復活の光です。この光の中で生きる者とされたのが私共です。この光の中に生きるということは、新しい命の中に生きるということです。ザカリアはまだイエス様を見ていません。しかし、既にこの光を見て、主をほめたたえています。それは、私共が終末における再臨のイエス様をまだ見ていなけれども、既にその救いの光の中に、希望の中に生きているということと同じです。
クリスマスは、この壮大な神様の救いの歴史の中に自分が身を置いているということを、改めて心に刻む時なのです。その時、私共の唇は、ザカリアと同じように神様を賛美するしかない、主をほめたたえるしかない。確かに、まだ救いは完成していないし、日々の生活の中で起きる様々な問題を抱えている。しかし、イエス様は来られたし、再び来てくださる。私共はそのことを知っているし、信じている。私共は最早、罪の暗闇から抜け出し、死の支配からも救い出されている。イエス様の十字架と一つにされ、イエス様の復活とも一つにされているからです。イエス様がもたらす光に照らされているからです。何と幸いなことか。共々に主をほめたたえたいと思います。
[2018年12月9日]
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