富山鹿島町教会

礼拝説教

「金の子牛」
出エジプト記 32章1〜24節
ローマの信徒への手紙 1章18〜24節

小堀 康彦牧師

1.前回を振り返って
 今日は11月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。先月の最後の主の日は召天者記念礼拝でしたので、旧約から御言葉を受けるのはお休みでした。ですから、前回は9月で、2ヶ月も前になりますので、もう忘れてしまったという方もいるかと思います。前回は出エジプト記24章から御言葉を受けました。24章の小見出しに「契約の締結」とありますように、イスラエルの民が神様から十戒を与えられて契約を結んだ場面でした。3節「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」6〜8節「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」とあります。この「契約の血」という言葉が、イエス様の十字架の血を指す言葉として新約に受け継がれていることも確認いたしました。その後、主が「教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」とモーセに言われましたので、モーセはこの「石の板」を神様からいただくためにシナイ山に登っていきました。そして、24章の最後は、「モーセは四十日四十夜山にいた。」という言葉で終わっています。

2.40日の間、山からモーセは降りて来ない
 これを受けているのが今朝与えられている32章です。1節「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」とありますが、この「モーセが山からなかなか下りて来ない」というのは、モーセが十戒を記した石の板を神様からいただいてくるはずなのに、山に登ったきり、40日間下りて来なかったということです。40日というのは、待っている者にとって決して短い時間ではありません。山の下で待っているイスラエルの民にすれば、3、4日で戻ってくる。長くても一週間か10日もすれば戻ってくる。そう思っていたのではないでしょうか。それが、10日過ぎても戻って来ない。20日過ぎても戻って来ない。モーセはもう山の中で死んでしまったのではないか。そんな思いが、イスラエルの人々の心に浮かんで来たことでしょう。そして、30日が過ぎる頃には、モーセは山で死んだということが確信に変わっていたことでしょう。
 エジプトを出発して3ヶ月、このシナイ山に着くまで色々なことがありました。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の時がありました。その時、イスラエルの人々はもうダメだと思いましたけれども、モーセが海に向かって手を差し伸べると、海は左右に二つに分かれて道が出来、その道を通ってエジプト軍の手から逃れることが出来ました。また、マラにおいて、水が苦くて飲めないと彼らは不平を言いましたが、モーセが神様に向かって叫ぶと、神様は一本の木を示され、それを水に投げ込むと水は甘くなりました。食べ物がなくなると、神様は天からの食物、マナを与えて養ってくださいました。肉が欲しいと言えば、うずらの大軍が与えられました。アマレクとの戦いにおいても、モーセが手を挙げて神様に祈ると勝利することが出来ました。何度も何度も危機的状況はありましたけれど、その度にモーセは祈り、神様の守りと導きの中、イスラエルの民は何とかここまでたどり着きました。そして、シナイ山において、イスラエルの民は神様と契約を結びました。彼らはこれでもう大丈夫と思ったでしょう。ところが、ここに来て、モーセがシナイ山に登って行ったきり帰って来ない。荒れ野のただ中に、イスラエルの民は置き去りにされてしまった。これからどうすればいいのか。イスラエルの民全体が、不安でいっぱいになってしまったのでしょう。だから、モーセが山に登って行って40日が経った時、イスラエルの民はアロンのもとに集まって来て言ったのです。1節「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」もう待てない。これ以上待っても無駄だ。イスラエルの民はそう思ったのでしょう。そして彼らは何と、「我々に先立って進む神々を造ってください」そうアロンに申し出たのです。

3.誰と契約したのか、誰が導くのか
 皆さんはどう思うでしょうか。40日は短いと思われるでしょうか。だったら、60日待てば良かったのでしょうか。80日待てば良かったのでしょうか。私には分かりません。ただ、ここには私共と同じように、神様を信じ切ることの出来ない民がいる。そう思うのです。
 イスラエルの民は「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」と言います。40日経っても指導者モーセは帰って来ない。しかし、イスラエルの民は、モーセと契約したのではありません。神様と契約したのです。それに、イスラエルの民をエジプトから導き出したのは、モーセではなく神様です。でも、彼らの目に見えていたのはモーセという人間たっだ。確かに、神の民を導くために、神様はモーセという具体的な人間、目に見える指導者を与えられました。しかし、イスラエルの民を導き出したのは神様です。そして、彼らはその神様と契約を結んだのです。モーセと契約を結んだのではありません。でも、彼らにはモーセしか見えていなかったということでしょう。
 ここで私共がはっきり心に刻んでおかなければならないことは、私共が神の民となるために契約を結んだのは神様御自身とであるということです。私共の人生を守り、支え、導いてくださっているのは神様御自身であるということです。神様は見えません。神様を見た人は一人もいない。私共は見えない方を信じ、拝んでいる。しかし、見えないということは、おられないということではありません。見えないけれどおられ、すべてを支配し、導いておられる。それが私共の神様です。

4.山の下で
 ここで、イスラエルの民にも、またモーセの片腕であったアロンにも、決定的に欠けていることがありました。それは、祈り求めるということです。この時、アロンがしなければならなかったことは、民を指導し、契約の書を読み聞かせ、共にモーセが帰って来るように祈り求めることだったのではないでしょうか。そうすれば、神様はアロンを通して、「もう少し待つように。」とか、何らかの御言葉をお与えになったかもしれません。しかし、彼らはそうしませんでした。
 「モーセがいなくなった。だから代わりの神を造ってくれ。」と民は言うのです。そして、その求めにアロンは応えてしまいました。2〜4節「アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。」これは明らかに、十戒の第一、第二の戒めを破っています。アロンとイスラエルの民は、40日前に神様と契約を結びましたが、ここでその契約を反故にしてしまったのです。何ということでしょう。たった40日で契約を破ったのです。ちなみに、アロンが造った若い雄牛の像というのは、当時の人々が牛を力の象徴と考え、拝んでいたということです。そしてアロンは、この雄牛の像の前に祭壇を築き、祭りを行うと宣言したのです。
 この祭りの様子は、6節に「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」とあります。この「戯れた」という言葉には、「性的不品行」の意味があると言われています。金の子牛という偶像、それは物言わぬ神です。ただの置物に過ぎません。それを神とするということは、要するに、自分自身の思いを神とする、自分の思い通りに生きていく、自分の願いを叶えることを第一とする者となるということです。これは、生ける神の御言葉に従って生きるということと正反対です。
 アロンがイスラエルの民に、各々が持っている金の耳輪をはずして差し出すようにと言うと、彼らは従いました。もったいないとは思わなかった。偶像を作るとはそういうことです。これだけ大切な物をささげたのだから、自分の願いは叶えてもらえると考える。これは偶像礼拝の根っこにあるものです。私共のささげる献金とは、全く意味が違うのです。

5.山の上で
 さて、この時、山の上ではどうだったのでしょうか。もちろん、神様はアロンとイスラエルの民がしていることを御存知でした。神様はモーセにこう言われました。7〜10節「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と叫んでいる。』主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』」この言葉は不思議です。神様はイスラエルの民のしていることを御存知です。そして、怒りに燃え上がっていると言われます。彼らを滅ぼし尽くすと言われます。だったら、放って置いて、イスラエルの民を滅ぼし尽くせば良いのでしょう。モーセを直ちに下山させる必要はありません。何故、モーセに「直ちに下山せよ。」と言われたのでしょうか。それは、イスラエルの民による祭りを中止させるためです。ここに、神様の本質と申しますか、神様がどういうお方なのかということが示されているように思います。神様は聖なる方ですから、このような罪を放って置くことは出来ません。しかし、御自分の民とされたイスラエルの民を滅ぼし尽くすことはなさらない。何故なら、愛のお方だからです。私には、ここで神様はモーセに対してイスラエルの犯した罪を執り成しをすることを促している、そう思えてなりません。
 モーセは、11節から必死にイスラエルの民のために執り成します。11〜13節「モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、「あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、「わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる」と言われたではありませんか。』」とあります。モーセは、イスラエルを滅ぼし尽くすことを思いとどまらせようと、神様を必死に説得します。神様の真実に訴えるのです。「このままイスラエルを滅ぼしたら、エジプト人に『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言われます。そんなことを言わせて良いのですか。アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。」イスラエルはアブラハムに対してあなたが約束した祝福、あなたの子孫を天の星のように増やすと言われた、その民ではありませんか。ここでイスラエルを滅ぼし尽くしてしまえば、アブラハムに対して為した祝福の約束は、どうなるのですか。あなたは嘘をついたことになってしまうではないですか。どうか思いとどまってください。そう説得するのです。その結果、14節「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」神様はモーセに説得されてしまうのです。ここに、イエス・キリストを送り、私共の一切の罪を赦された神がおられます。ここでモーセに説得されないような神様ならば、イエス様を送られることもなかったでしょう。罪人を赦すために、我が子を十字架にお架けになるようなことはなさらなったでしょう。罪人を滅ぼし尽くし、天地創造からすべてをやり直せばいいだけです。しかし、私共の父なる神様はそのような神様ではありません。聖なる方であると同時に、愛のお方だからです。憐れみ深いお方だからです。

6.仲保者モーセ
十戒を記した二枚の石の板を持ってモーセが山を下って来ると、そこではまだ祭りが続いていました。モーセは、雄牛の像と、踊っている人々とを見ました。モーセは激しく怒って、持っていた石の板を投げつけ、砕いてしまいました。モーセは、神の怒りと一つになっていたのです。モーセはイスラエルの民のために神様に執り成しをしましたが、神様の契約を反故にするようなこの出来事を、何も無かったことにする、すべて水に流す、そんなことはしませんでした。イスラエルを滅ぼし尽くすことはない。しかし、裁きは為されなければならなかったのです。モーセはイスラエルを愛することにおいて、また罪を憎むことにおいて、神様の思いと一つにされていました。モーセは、神様に向かう時はイスラエルの民の代表として、そして、イスラエルの民に向かう時は神の代理者として臨んだのです。このモーセの姿に、まことの仲保者であるイエス・キリストの姿が指し示されていると言って良いでしょう。
 モーセは、アロンに向かって言います。「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか。」アロンはこう答えます。22〜24節「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、わたしが彼らに『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」何とアロンは、「民が持って来た金を火に投げ入れると、この若い雄牛ができた」と言うのです。これは真っ赤な嘘です。言い逃れです。彼自身が、のみで雄牛の像の型を作って鋳造したのです。
 しかし、このアロンの言葉にも考えさせられる所があります。それは、偶像はいつの間にか出来てしまうものだということです。知識や技術や地位や財産、或いは美しさ、家柄、何でも偶像になり得ます。まことの神様に従うということを外してしまって、自分の心の心のおもむくままに生きていくならば、私共が手にするものはいつの間にか、神様が与えてくださったものではなくて、自分が手に入れたものばかりになってしまうでしょう。そして、人は神様ではなくて、自分自身や自分が手に入れたものを頼って生きるようになってしまいます。それが偶像礼拝というものです。ですから、どんなものでも偶像になり得るのです。
 モーセは再び山に登ります。そして、神様にこう言います。31節b〜32節「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」モーセは自分の命と引き替えに、イスラエルの赦しを願うのです。私共は、このモーセの姿に、イエス様の十字架の姿を重ねて見るでしょう。神様はこのモーセの言葉を受け入れます。そして再び、モーセにイスラエルの民を導いていくように告げるのです。

7.危機の中でこそ
 この金の子牛の出来事は、旧約における最も罪深き出来事として記憶されることになりました。そしてこの出来事は、すべての神の民がこのような罪を犯すことのないようにという戒めとなりました。イスラエルの民は、荒れ野のただ中で具体的指導者であるモーセを失ったかもしれない、これからどうすればいいのかという不安に陥るという危機の中で、偶像を造るという罪を犯しました。私共も様々な危機を迎えるでしょう。頼りにしている人、愛する人を失うのは、最も深刻な危機の時でしょう。この危機を迎えた時こそ、私共の眼差しを神様に向けなければなりません。私共は誰に救われたのか、私共は誰と契約を結んだのか、その契約による約束は何なのか、そのことをしっかり心に刻んで歩んでいきたいと思うのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって私共に約束されたものは、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命です。この救いの恵みを私共から奪うことが出来るものなど、この世界には存在しません。私共は神様の子とされているのです。だから、大丈夫です。安心して行きなさい。

[2018年11月25日]

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