富山鹿島町教会

礼拝説教

「私たちの祈り」
詩編 145編1〜21節
フィリピの信徒への手紙 1章3〜11節

小堀 康彦牧師

1.キリストのものとされている明るさ
 今朝与えられております御言葉には伝道者パウロの祈りが記されております。この手紙は、パウロが牢に入れられている時に記したものです。二千年前の牢獄ですから、とてもひどい状況だったに違いありません。パウロはそこからこの手紙を書いているのですけれど、この手紙には自分の状況を嘆くような言葉は少しもありません。それどころか、明るく力強い言葉に満ちています。それが最も表れている所の一つが、今朝与えられているパウロの祈りです。
 どうして彼は、牢獄に入れられていながら、こんなに明るくいられるのだろうか。力強く元気でいられるのだろうか。私もこんな明るさを、力強さを持ちたい。そう思います。そして、やっぱりパウロは特別だ。さすが偉大な使徒だ。自分とは違う。そう思うかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。このパウロの持つ明るさ、力強さ。それは私共にも備えられているものなのではないでしょうか。何故なら、パウロの明るさも力強さも、彼の性格や持って生まれた資質によるのではないからです。彼の明るさも力強さも、すべてはイエス様の救いに与った、イエス様のものとされた、その事実に基づいています。そして、そのことの故に、パウロは全く新しい世界に生きる者となった。神様と共に、イエス様と共に生きる世界、神様の支配されている世界、イエス様が主人となられている世界です。それは私共がイエス様の救いに与って生きることとなった世界と、全く同じ世界なのです。ただ私共は、日々の生活の中でそのことをしばしば忘れてしまう。まるで自分がイエス様に救われたことが無かったかのように、自分が既にイエス様のものとされていることを忘れてしまう。しかし、パウロは忘れなかった。それだけの違いです。ですから、私共にとって大切なこと、それは忘れないことです。私はキリストのものだ。私は神の子とされている。イエス様に似た者に変えられていくのだ。この世界の主はただ神様のみ。この方の御手の中に自分は生かされている。それを忘れないということです。

2.パウロの祈りの秘密
3〜4節「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」とパウロは語り始めます。ここには、「神に感謝」「祈る」「いつも喜び」という言葉があります。皆さんの愛唱聖句の中に、テサロニケの信徒への手紙5章16〜18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」があるでしょう。パウロは人々には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言っておきながら、自分はそのように生きていない。そんなことはあり得ません。実に、パウロは自分がそのように生きているが故に、テサロニケの人々にもそうするようにと告げたのです。パウロにとって、感謝と祈りと喜びは、いつも一つのことでした。こう言っても良いでしょう。パウロは祈る度に、イエス様の救いに与っていることを思い、感謝しないではいられなかった。そして、そのことを思うと、喜びがわき上がってきた。感謝と祈りと喜びは、いつも一つのことだったのです。
 ここで、私共はパウロの祈りの秘密を知ります。それは、神様の御前に立つということです。祈りは、何となく、ぼーっと、自分の願うことを誰に向かってか分からないけれど、心に願うというようなことではありません。誰に祈るのか、はっきりしています。神様に向かってです。この神様は天と地を造られた方であり、すべてを支配しておられる全能のお方です。そのお方が御子を与えてくださった。そして、御子イエス様は私を選んでくださり、十字架の救いに与る者にしてくださった。まことにありがたいことです。このお方の前に立つ。そして、このお方に向かって「父よ」と呼ぶ。その時の私は、神の子とされている私です。それは、畏れと喜びと感謝とが一つになった時でありましょう。この祈りの心をもって、パウロはフィリピの教会のことを思うのです。

3.フィリピの教会とパウロ
 フィリピの教会。それは、パウロにとって思い出が一杯詰まった、一人一人との忘れ難い出会いがあった教会です。使徒言行録16章には、フィリピでのパウロの伝道の様子が記されています。フィリピは、イエス様の福音が初めてヨーロッパに伝わった町です。パウロは、アジア州での伝道を聖霊によって禁じられ、その後「わたしたちを助けてください。」とマケドニア人が言う幻を見て、最初に伝道した町がフィリピでした。この町の紫布を商う婦人リディアとその家族が洗礼を受けました。パウロは、このリディアの家を拠点にフィリピでの伝道をしました。この町でパウロは、占いの霊に取りつかれた女奴隷から、その霊を追い出しました。しかし、そのことが元で、彼は牢に入れられてしまいました。ところがその夜、大地震が起き、牢の戸が開きました。看守は、囚人が皆逃げたと思い、自殺しようとしましたが、パウロがそれを止め、この看守とその家族も洗礼を受けました。この手紙が書かれた時、リディアとその家族、看守とその家族もフィリピの教会にいたことでしょう。
 フィリピの教会のことを思えば、あの人この人の顔が浮かんできたに違いありません。その一人一人がイエス様の救いに与った日のこと、そして今まで信仰が守られていることを思うと、パウロは嬉しくて、感謝しないではいられなかったのでしょう。フィリピの教会を思えば、神様が生きて働いておられること、その神様の憐れみを思わずにはいられなかったのです。

4.イエス様のものとされ、イエス様が再び来られる日に向かって
 パウロは、フィリピの教会の人々を、神様の御業の中に生かされている人々として見ています。これがパウロの視点です。もちろん、それはフィリピの教会の人々を見る時だけではありません。パウロ自身、今、彼は牢の中にいるわけですけれども、この状況の中にあっても、自分はキリストのものである、イエス様の救いに与った、この事実を覆すことは誰にも出来ない。だから、パウロは、5〜7節「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」と言うのです。フィリピの教会の人々よ、あなたがたは最初の日、つまりパウロの伝道によってイエス様を信じ、救いに与った日から今日まで、福音に与っている。あなたがただけではない。わたしも「共に恵みにあずかる者」だ。それは今、このように牢に入れられている時も、少しも変わらない。
 このイエス様の救いに与ったパウロのまなざしは、イエス様が来られる日に向けられています。それが6節「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」です。フィリピの教会の人々を救いへと導かれた神様は、今までもそうでしたが、これから後も、イエス様が再び来られる日、キリスト・イエスの日まで、御手の中に置いてくださり、遂にはその救いの御業を完成してくださる。つまり、イエス様が再び来られるその日、共々によみがえりイエス様に似た者として復活させてくださる。そのことを確信しているとパウロは言うのです。
 イエス様の救いに与った者は、このキリスト・イエスの日に向かって、神様の御手の中を歩む者とされたのです。確かに、パウロは牢の中に入れられていますし、この時のフィリピの教会の人々も、様々な具体的な問題や課題を抱えていたことでしょう。しかしそれが、自分はイエス様の救いから外れたのだとか、神様の愛が私から離れてしまったとか、自分は神様に見捨てられたとか、もう自分はダメだ、ということにはならないのです。神様の御支配、イエス様の愛は、どんなことがあっても私共をとらえて放さない。わたしはキリストのものだ。それがパウロの揺るぎない確信でした。私共もその確信に立つ者として生きるようにと召され、生かされているのです。

5.パウロの執り成しの祈り
 さて、パウロはフィリピの教会の人々のために祈ります。その祈りが9〜11節に記されています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」これは、フィリピの教会の人々のための、パウロの執り成しの祈りです。私共は、愛する者のための執り成しの祈りと言えば、健康であるようにとか、平和であるようにと祈ることだと思っているところがあります。それは大切な祈りであり自然な祈りであるに違いありません。しかし、イエス様の救いという所から見ていく、その視点からの祈りというものがあるはずなのです。パウロはそれをしているのです。ここで、その一つ一つについて見ていきたいと思います。

5−1.知る力と見抜く力
 まず、「知る力と見抜く力とを身に着けるように」と祈っています。この知る力と見抜く力というのは、「本当に重要なことを見分けられる」ためのものです。本当に重要なことというのは、私が救われ、周りの者が救われ、世界が救われていくことです。これよりも重要なことはありません。そして、そのために何が大切なのかということを見分けることが出来るようになるということです。ですから、この「知る力と見抜く力」とは、単なる知識や洞察力のことではありません。信仰によって与えられる知る力であり、見抜く力です。神様が、私をそしてこの世界のすべてを愛しておられ、支配しておられる。やがて、イエス様が再び来られて、救いの御業を完成してくださる。このような信仰による知識、そしてそれに基づいた洞察力です。今は悪しき力が我が物顔をしているけれど、それはやがては滅ぶものに過ぎない、それを洞察する力です。私の地上の命が終わっても、キリストのものとされている私の命は滅びることはない。キリストの教会は、この世界では小さな存在でしかないけれど、神様の御前においては、大いなるものとされている。そのように信仰によって弁える力です。

5−2.愛が豊かになるように
 そして、その知る力と見抜く力によって「愛がますます豊かになる」ということです。信仰による知識、聖書の知識、教理の知識も増えた。しかしそれが、愛が豊かになるということにつながっていかなければ意味がないのですし、信仰の知識や知恵というものが与えられたならば、いよいよ愛が豊かにされていくものなのです。この愛と信仰の知識・知恵というものは、決して分離することはありません。このことは、私が牧師として歩みながら、本当のことだと思わされ続けて来たことです。信仰による知識とは、どんなに神様が、イエス様が、私を愛してくださっているかを知ることです。このイエス様の愛は、知れば知るほど、イエス様を愛するようになります。そして、その愛は、神様・イエス様に向けられると同時に、隣り人へと向けられていく。神様・イエス様は愛するけれど隣り人は愛せない、そんなことはあり得ません。神様を愛することと隣り人を愛することは、一つのことです。本当に重要なことは、神様を愛することと隣り人を愛することです。これをしっかり弁える者となるようにと、パウロはフィリピの教会の人々のために祈った。それは、キリスト者としての信仰の歩みを確かなものとされますようにという祈りでもありましょう。

5−3.キリストの日に備えて
 それが、10節の「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となる」ようにという祈りへと続きます。私共は、イエス様に救われました。しかし、それで終わりではありません。救われた者としての歩みがそこから始まったのです。その歩みは、「キリストの日」つまり、イエス様が再び来られる日、その日に備えての歩みとなったのです。
 私共は愛において欠けがあり、知る力や見抜く力においても欠けがあります。しかし、キリストの日にそのすべての欠けは満たされ、キリストに似た者へと造り変えられます。しかし、その日まで私共はただボーッと生きているのではありません。その日を目指して、その日に向かって歩んでいきます。欠けた所を、聖霊なる神様の導きの中で少しずつ変えられて、キリストの日に備える者として歩み続けていくのです。
 私が牧師として、日々の祈りの中で第一に願い求めていることは、私が愛において豊かな者になるようにということと、謙遜な者になるようにということです。それは、私に愛がないということ、私が実に傲慢な者だということを知らされているからです。本当に情けないことです。しかし、私共はこれを神様に求め、神様がこれを注いでくださり、私共を変えていってくださることを信じて良いのです。

5−4.神様をほめたたえる者として
 そして、キリストの日には、11節「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」なるのです。私共は、その日を目指して、その日に向かって歩んでいる。パウロは、その日から、フィリピの教会の人々を見ているのです。その日を目指す人々、その日に神様の御前に立ち、神様の栄光を誉れをほめたたえることになる人々として見ている。それは、自分に対してもそうでありました。フィリピの教会の人々はキリストの日を目指すけれども、自分はそうではない。そんなことはあり得ないでしょう。パウロにとって本当に重要なことは、この救いの完成に与ることでした。そのためにすべての営みがある。それが、パウロが与えられた信仰の知る力、信仰の見抜く力によって明らかにされたことだったのです。
 詩編145編の詩人の祈りも同じでした。詩編の詩人は、自分が神様を崇める、それで十分とは考えていないのです。世の人々すべてが主をほめたたえる日を待ち望んでいるのです。4節「人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。」6節「人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。」7節「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように。」10〜11節「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。」21節「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは代々限りなく聖なる御名をたたえます。」私共もそうです。このことが、私共にとって最も重要なことなのです。
 天の国において、すべての者は主を誉め讃えることとなります。私だけが主をほめたたえるのではありません。すべての者です。これが救いの完成において、私共が為すことです。実に、主をほめたたえるということは、神の国の先取りであり、そこに既に神の国が到来していることのしるしでもあるのです。

  6.主の祈りと共に
 イエス様は私共に、「このように祈りなさい」と「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りの始めの三つの祈りは、「御名があがめられますように。」「御国が来ますように。」「御心が天になるごとく、地にもなりますように。」です。この三つが私共にとって最も大切な祈りであることをイエス様は教えてくださいました。この祈りが完全に成就するのは「キリストの日」において、イエス様が再び来られる終末においてです。その日に向かって歩む私共は、この主の祈りと共に生きていくのです。
 私共は、「本当に重要なこと」を本当に重要なこととしたいと思います。私共の周りには、少しは重要だけれども、本当に重要なわけではないというものがあふれています。その中で、何が本当に重要なことなのか。そのことをしっかり見極めて、「本当に重要なこと」を本当に重要なこととして、そこを外すことなく、神様に与えられた「救われた者としての歩み」を全うしていきたい。そして、やがてイエス様が再び来られる日を待ち望みながら、愛において豊かにされつつ歩んで行きたい、そう心から願うのであります。

[2018年11月18日]

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