富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しい人」
コロサイの信徒への手紙 3章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.光が差し込む十字架
 今朝は、キリスト教は初めてという方を覚えて礼拝をささげております。ここに集っている方の中には、礼拝堂に入るのも初めてという方もおられるかもしれません。見ての通り、この礼拝堂には、飾りと言えるようなものは何もありません。ただ正面に、十字架の形に切られた窓と言いますか、外からの光が入ってくる十字架があるだけです。私共はこの十字架を見上げて、毎週、日曜日に礼拝をささげております。この日曜日の礼拝は、イエス様が金曜日に十字架にお架かりになって死なれ、三日目の日曜日に復活された、そのことを記念してささげられています。キリストの教会は、日曜日が休みの日で都合が良いので日曜日に礼拝しているのではありません。そうではなくて、イエス様が日曜日に復活されて、それでキリストの教会が日曜日に礼拝を守るようになったので、礼拝を守るために日曜日が休みの日になったのです。日曜日は、休みの日である前に、イエス様の御復活を覚える礼拝をささげる日なのです。
 さて、この礼拝堂の十字架は、外からの光が射してくるような形になっています。今の時期ですと、朝の7時頃にはまぶしくて見上げることが出来ないほどの光が射し込んできます。この十字架は、イエス様の十字架を復活の光に輝く中で見上げるという私共の信仰を表しています。復活の光に照らし出されるイエス様の十字架です。イエス様の十字架を見上げる時、私共は同時にイエス様の御復活の出来事を覚えるのです。

2.十字架に架かり、復活されたイエス様を拝む
 イエス様の十字架はまことに悲惨なものです。イエス様の頭には茨の冠がかぶせられました。そして、木の十字架に両手と両足を釘で打ち付けられ、はりつけにされました。両手両足から流れる多量の血によってショック死に至る十字架という処刑方法は、苦しみの時間が長い、まことに残酷な処刑方法でした。死に至るまで何時間も苦しむのです。もちろんイエス様は、そのような処刑を受けなければならないような大罪を犯したわけではありません。そうではなくて、私共すべての者の一切の罪を神様に赦していただくために、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになったのです。イエス様は全く罪のない神の独り子です。しかし、そのお方が十字架にお架かりなることが神様の御心でした。私共を造り、私共を愛しておられる神様が、私共との交わりを回復されるために、まことの神にしてまことの人であるイエス様を、私共の身代わりとして十字架にお架けになった。イエス様は全く罪の無い神の独り子、神様が最も愛する独り子です。ですから、神様は三日目にイエス様を復活させられました。私共はその十字架のイエス様を、復活されて今も生き給うお方として、復活の光の中で拝んで、日曜日の度毎に礼拝しているわけです。
イエス様の十字架と復活がキリスト教信仰の中心にあります。このイエス様の十字架と復活は、二千年前に起きた昔話ではありません。そうではなくて、二千年の間、すべてのキリスト者を生かし、今も生かし続けている出来事なのです。

3.キリストと共に死んで、キリストと共に復活した私共
 今朝与えられておりますコロサイの信徒への手紙は、そのことを私共に示しています。コロサイの信徒への手紙というのは、使徒パウロがコロサイという町にあるキリスト教会に宛てた手紙です。
 1節を見てみましょう。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」とあります。パウロは、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」と言います。イエス様が十字架に架けられて死んで三日目に復活させられたことは先程申し上げましたけれど、このイエス様の復活は、イエス様だけのことではなくて、イエス様を信じるすべての者に及んでいることだと言うのです。復活とは死んだ者が復活することですから、私共がキリストと共に復活させられたということは、私共がキリストと共に死んだことを前提にしているわけです。
 私共がキリストと共に死んだということは、生まれながらの私、神様を知らず、神様に敵対し、自分のことしか考えられず、自分の思いのままに生きていた私は死んだということです。イエス様の十字架と共に、イエス様の十字架と一つにされて死んだということです。そして、復活されたキリストと共に、神様を愛し、神様を信じ、神様に従う者として新しい命に生きる者になったということです。  パウロはこのことを、とても具体的に言います。5節「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」、また8節「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」と言います。神様を知らなかった時、私共は自分の欲に引きずられるようにして生きていました。それを特に悪いことだとも思いませんでしたし、それが当然のことだと思っておりました。それが古い人、生まれながらの私です。しかし、イエス様はその生まれながらの私、古い人である私の罪のすべてを引き受けて、身代わりとなって十字架の裁きを受けてくださいました。イエス様を信じるすべての者の一切の罪が神様によって赦され、新しい人となって、新しい命、復活の命に生きる者としてくださいました。新しい人とされ、新しい人として生きる。それがキリスト教の信仰に生きるということです。

4.変われない私
 このように申しますと、そんなに簡単に人は変われるのかと思う方もおられるかもしれません。確かに、人は簡単に変わることは出来ません。私は、小学生や中学生の時、また高校生になっても、夏休みになると予定表を作りました。先生に作らされました。一日の予定表と夏休み中の予定表です。毎日ラジオ体操に行って、午前中に宿題をして、午後はプールに行って、帰ってきたらまた勉強をする。その予定表通りに生活出来れば、一週間か十日で宿題はすべて終わるはず。ところが、三日と続かない。高校野球が始まりますと、朝から夕方までずっと見てしまう。ちっとも予定通りにいかない。宿題は結局、最後の一週間でやっつける。そんなことを繰り返しておりました。毎年夏休みになると、同じことの繰り返しでした。今年こそはと思うのですが、結局同じこと。ちっとも変われません。  また、私は整理整頓ということが出来ません。これはもう諦めました。出来る人から見れば、「どうしてそんなことが出来ないの?」というようなことなのかもしれません。しかし、出来ないものは出来ないのです。そういうレベルで、人は変われないということはあるかと思います。しかし、聖書が告げる、古い人から新しい人への変化、それはそういうことではないのです。

5.古い人から新しい人へ
 古い人から新しい人への変化。それは、求めるもの、求めることが変わるということです。1節では「上にあるものを求めなさい。」とあり、2節では「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と聖書は告げます。この「上にあるもの」が新しい人が求めるものであり、心に留めるものになるということです。では、この「上にあるもの」とは何かということですが、それは天の国、神の国ということです。イエス・キリストが神様の右に座して、完全に御心が行われる世界です。この地上の世界においては、強い者が弱い者を支配し虐げるという現実があります。国と国においてもそうですし、民族と民族においても、また経済の世界でもそういうことがあるでしょう。「#MeToo」という運動が世界的になされていますが、男と女の関係においてもそれがある。しかし、やがてイエス様が再び来られて、天の国・神の国を完成されます。すべての人が神様の御心のままに生きる。互いに愛し合い、支え合い、仕え合う。そういう世界が来ます。その日を目指して、それにふさわしい者として生きようとする。それが、古い人から新しい人への変化なのです。
 もちろん、私共は地上に生きているのですから、「地上のものに心を引かれないようにしなさい。」というのは、地上の事柄はどうでもいいものとするということではありません。私共は社会人として、仕事なり、家のことなり、子育てなり、やらなければいけないことがたくさんあります。それを放っておいていいはずがありません。「地上のものに心を引かれないようにしなさい。」というのは、神様のことなど考えもせずに自分の中にある悪い欲望に引きずられてはなりませんということです。
 9節b〜10節「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、」とあります。「造り主」というのは神様のことです。この神様の姿を完全に人間の姿として表されたのがイエス様です。ですから、新しい人というのは、イエス様の姿に倣う者になるということです。神様なんて関係ないと思って生きていた古い人がイエス様の十字架と共に死んで、復活されたイエス様と共にイエス様に倣う者として生きるということです。それが、キリスト教における「救われる」ということです。それは、私共が努力して修行して、そのような人になっていくということではなくて、ただイエス様を信じる、我が主・我が神と信じる、そのことによって与えられる新しい世界なのです。
 私共は変われなくても、神様は変えてくださいます。神様は天と地のすべてを造られた方ですから、出来ないことは何一つない全能のお方です。そのお方が私共を変えていってくださる。少しずつしかし確実に、変えていってくださいます。私共はそのことを信じて良いのです。イエス様は十字架の上で死んで、三日目に復活させられました。「復活なんてあり得ない。」常識で言えば、そういうことになるのでしょう。しかし、復活させられた。ここに神様の全能の力がはっきり示されました。天地を造られた神様は私共の常識の中にはおられません。そんな小さな方ではありません。だから私共も、この神様の全能の力によって変えられます。古い人から新しい人に変えられます。全能の神様の力によって変えられるのです。

6.隠されている新しい命
 イエス様は十字架で死んだ。しかし、復活させられた。この出来事が私共の上に起きる。それが変えられるということです。キリスト者とは、この神様の力によって変えられた人、変えられ続けている人です。確かに、そのような変化は誰の目にも明らかというようなものではありません。或いは、キリスト者になって、洗礼を受けて、自分は変わったとはっきり実感するというようなものでもありません。私は、宗教的な実感というものは大変怪しい、危ない、そう思っています。オウム真理教という、大変な犯罪を犯した宗教がありましたけれど、これを信じた人々はみんな実感していたのでしょう。私共にとって大切なことは、実感すること以上に信じることです。
 3節を見てみましょう。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」私共の命、イエス様の復活と一つにされた新しい命は隠されているのです。誰が見ても明らかなように現れているわけではありません。しかし、確かにその新しい命に生き始めている。そして、その隠されている命が明らかにされる時がやがて来ます。それが、4節に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」と記されていることです。イエス様が再び来られる時、神の国が完成する時、私共はキリストと共に栄光に包まれる。復活されたキリストと同じ姿に変えられます。そのことを信じています。

7.新しい人に与えられている希望
 これがキリスト教が教えている救いの完成です。私共はその日を目指して、その日に向かって生きる者になった。ここに私共の人生を貫く希望があります。古い人にとっての希望は淡いものです。この地上での将来の生活についての「こうなったらいいな。」というくらいのものでしょう。しかし、それはちょっとしたことで崩れてしまいます。病気であったり、事故であったり、そして人に必ずやって来る死というものによって、淡い希望は打ち砕かれてしまいます。しかし、やがてイエス様が来られて、復活されたイエス様と同じ栄光の姿に変えられるという希望は、何によっても決して失われるものではありません。キリスト者はこの希望と共に生きるようになります。
昨日、91歳の教会員であるO・K姉からお葉書をいただきました。こうありました。「人生初めての入院生活も三か月余となりました。…手と足のリハビリを受けながら、娘たちの介護を受けながら過ごす日々です。一日に何度も、教会の礼拝堂にいるつもりで主の祈りをささげております。…手のリハビリで何とかペンを持つことが出来るようになり、ご報告させて頂きました。…」と記されておりました。この方は今まで何でもお出来になる方でしたし、特に手芸が得意な方でしたので、手と足のリハビリをしながらの日々はさぞおつらいだろうと思います。そういう中で、「一日に何度も、教会の礼拝堂にいるつもりで主の祈りをささげております。」とありますように、この方は祈っている。神様に向かって「父よ」と呼びかけながら祈っている。「礼拝堂にいるつもりで」とありますので、きっとこの光の十字架を心に描いているのだろうと思います。十字架に架かり復活されたイエス様と一つにされた恵みの中で、入院しながらも御国に向かって歩んでいるO・K姉の姿を思いました。高齢になり、体も弱くなり、入院生活をされている。しかし、確かに御国に向かっての歩みをされている。新しくされた者として生きておられる。そう思わされました。
 確かに、新しい人は神様の御心に適う歩みを為す者とされるわけですけれど、それは、あれをしない、これをしない、というようなつまらないことではなくて、まなざしを天に向けて生きるということです。天から来る光の中を生きるということです。

8.生まれ育ちの区別なし
 最後にもう一つだけ申し上げて終わります。11節「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」とあります。この新しい人として生きるという救いの恵みは、その人がどのような家に生まれたとか、どういう教育を受けたとか、どの国の人であるとか、若者であるとか、年老いた者であるとか、そのようなものは一切何も関係ないということです。新しい人とされて生きるということは、イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた恵みであって、それは私共が努力して手に入れるようなものではないからです。
 時々、「私の家は代々仏教なのですが、そんな人間が教会に行ってもいいのでしょうか。」と聞かれることがあります。何の問題もありません。私の家も代々仏教の家でした。そうじゃない家なんて日本にはほとんどありません。代々仏教の家であろうと、神道の家だろうと、ただイエス様を我が主・我が神と信じるならば、一人の例外も無く、人は必ず新しい人になり、キリストと共に生き、やがて復活されたイエス様と同じ姿に変えられるという希望の中を生きるようになります。それが、聖書を通して神様が私共に約束してくださっていることです。古い私が死んで、新しい私が生きるようになる。その救いの恵みの中を、イエス様の復活の光の中を、御一緒に歩んでまいりたい。そう心から願うものです。

[2018年10月21日]

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