富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖霊の宮とされる」
イザヤ書 2章6〜9節
マタイによる福音書 12章43〜45節

小堀 康彦牧師

1.キリスト教の悟り?
 以前、「キリスト教にも『悟り』はあるのでしょうか。」と教会に来ていない方から聞かれたことがあります。あまり考えたことのない質問ですので、答えるのに困ってしまいました。正直に「よく分からないです。」と答えればよさそうなものなのですけれど、こういう時、牧師は、何か答えないといけないと思ってしまうものなのです。多分、このように問う方は、キリスト教でも仏教でも信仰を持つならばきっと変えられるだろうと思っているのだろうと思います。人生を生きていく上で様々な問題や課題にぶつかることがあるわけですが、そういう時でも例えばキリスト教を信じていれば、平安に心乱されることなく対処出来るのではないか、そんな期待を持っていたのかもしれません。皆さんならどう答えるでしょうか。私はこんな風に答えました。「それを『悟り』と呼んでいいのか分かりませんけれど、キリスト教にも、信仰の歩みをしていく中でいよいよはっきり分かることが二つあります。一つは、『私は本当に罪人だ』ということが分かる。はっきり分かる。それともう一つは、『それでも神様は私を愛してくださっている』ということが分かる。この二つのことがいよいよ深く、いよいよはっきりと分かる。これがキリスト教の悟りのようなものかもしれません。」そんな風に答えました。これが正しい答え、良い答えなのかどうか分かりません。この答えを聞いた人も、分かったような、分からないような顔をして、「そうですか。」と言われて終わってしまいました。それから教会に来られることになったということはありませんでした。

2.信仰によって変わる?
 しかし、信仰によって、私共は本当に変わるのでしょうか?変わっているのでしょうか?皆さんはどうでしょうか。キリスト者となって何年も経つけれど、自分はどう変わっただろうか。あまり変わったようには思えない、そういう人もいるでしょう。確かに私共は、キリスト者となってこんな風に変わったとはなかなか言えないかもしれません。しかし、全く何も変わっていないとすれば、それもまた、どうなのかと思います。
 信仰によって、人間は変えられます。それは確かなことです。私共は信仰を与えられ、変えられましたし、変えられ続けています。それは、外から見て、誰もが分かるようなあり方ではないかもしれません。しかし、私は自分のことを考えても、また、多くのキリスト者の歩みを見ても、それははっきり言えることだと思っています。その変化は、心の一番深い所において起きます。私共は、心の底において変えられる。心の底から変えられるのです。
 私共が信仰を持つようになってはっきり変わった所は、神様の御前に立つ私を知ったということです。それは、この礼拝の中で育まれていく感覚ですけれど、私というものを神様の御前に立つ者として見る。少しややこしい言い方かもしれませんが、私は今このように説教しているわけですけれど、この説教している私を見ているもう一人の私がいるのです。説教をしながら、「もう少しゆっくり言わなきゃダメじゃないか。」そんな風に私の営みを見ているもう一人の私がいる。それと似た感覚です。信仰によって、私の中に「神の御前に立つ私」というもう一人の私が生まれ、成長していく。このもう一人の私が、自分は本当に罪人であることを知り、また自分は本当に神様に愛されていることを知ります。神様に向かって「父よ」と呼ぶ私です。その私が信仰の歩みを重ねていく中で、いよいよ神様を愛し、神様を信頼し、神様に従っていこうとする者へと大きく強く成長していく。でも、それは外から見てもなかなか分かりません。霊的変化だからです。しかし、時間をかけて、少しずつこの「内なる私」の変化は必ず私全体を変えていく。私の生活、私の心、私の価値観、私の感性まで変えていくことになります。私共は、洗礼を受けた時から神の子・神の僕とされた歩みが始まるわけですが、同時にそこからイエス様に似た者に造り変えられていく歩みが始まります。どんなに遅く、どんなに小さな変化であっても、そして人それぞれ変わり方は違っていたとしても、その変化のゴールは同じです。それはイエス様です。イエス様に向かって、イエス様に似た者へと造り変えられ続けていく、その歩みが信仰者としての歩みなのでしょう。

3.私の中の戦い
それは別の言い方をすれば、イエス様が私の人生、私の存在そのものの主人となってくださる中で与えられる変化だということです。しかし、事はそう簡単ではありません。イエス様が私の主人であるということを認めようとしない私、古い私が抵抗するからです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、この二つの私の戦いをこう記しています。少し長いですがお読みします。15〜23節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」
 このパウロの言葉に、「私もそうだ。」と思わない人はいないでしょう。神様・イエス様に従おうとする私と、従うことを拒む私との戦いが、私共の中にはある。そして、私共はその戦いにしばしば敗れるのです。使徒パウロは24節で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と言います。これは嘆きの叫びです。罪の自分に気付きながらも、それを乗り越えられない嘆き。絶望の叫びです。ところが、パウロはその嘆きの叫びの直後、25節で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と歓喜の叫びを上げるのです。絶望の叫びと歓喜の叫び。ここには、自らの罪の深い自覚と、なお神様に愛されているという救いの喜びが同居しています。罪の自覚が深くなればなるほど、なお神様に愛され、赦され、救われている喜びは大きくなります。そして、パウロは8章1節で「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」という勝利の宣言をするのです。

4.イエス様のたとえ
 今朝与えられておりますイエス様の御言葉は、このような私共の信仰の歩みについてお語りになったものと考えて良いと思います。
 43〜44節「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」とイエス様は言われます。「汚れた霊」というのは悪霊と同じです。私共を神様から引き離そうとする霊です。これが出て行きますと、私共は様々な悪しき業から遠ざかります。これで一件落着だと思います。心も落ち着き、日々の生活も落ち着き、これでもう大丈夫だと思います。しかしイエス様は、これでは終わらないと言うのです。
 45節「そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」とイエス様は続けます。ここで、前よりもっと悪くなるとイエス様が言われているのは、直接にはファリサイ派の人々や律法学者たちのことでしょう。彼らは誰よりも熱心に、誰よりも真面目に律法を守って生活を整えていました。彼らは、これでもう大丈夫、私は正しい人、罪人とは遠く離れた者と思っておりました。しかし、イエス様は彼らの中の大いなる罪を見ておられました。それは、神様に自分を明け渡していないという罪です。彼らは他の誰よりも神様に従っているように見えたし、自分たちもそう思っていました。しかしそこで、自分の熱心、自分の真面目さによって神様の御前に正しい者となれる、正しい者になっている、そう思い違いをしてしまった。正しいと思っている人が、どうして神様に赦しを求めるでしょうか。外から見ればどう見ても正しい人なのですから、「あなたは罪人でしょ。」と言っても受け付けません。正しい行いをすることによって、神様の赦しを求めなくなり、いよいよ神様から遠くなってしまったのです。神様の御前においてさえ自分は正しい者だと言い張る、そのような者になってしまった。イエス様は、それは前よりもっと悪いと言われたのです。

5.イエス様が主人となる
 イエス様はこの時、ファリサイ派の人々や律法学者たちのことを言っておられました。しかし、だから私共には関係ない、とは言えません。私共がここで問われていることは、「あなたは、キリスト者となって、どんな正しい歩みをするようになりましたか。」ということではなくて、「あなたの人生の主人はイエス様になりましたか。」「自分の主人という場所を、自分自身からイエス様に明け渡しましたか。」ということなのです。自分の人生の主人が自分である限り、私共は、イエス様に似た者へと変えられていく歩みには決して進んでいけません。
イエス様が私の主人である。神様が私の父である。これが信仰によって生まれた、新しい私、内にある人、もう一人の私です。この私が大きく強くなっていく中で、私全体が変わっていくのです。この新しい私こそ、聖霊を宿した私です。使徒パウロはこのことを、コリントの信徒への手紙一6章19〜20節で、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と言いました。私はもはや自分自身のものではない。イエス様が、十字架の血潮という尊い代価をもって私共を買い取ってくださり、御自身のものとしてくださったからです。私共はキリストのもの、私の中には聖霊なる神様が宿ってくださっている。私共は信仰を与えられた。だから、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従おうとするのです。
 私共はこの、キリストのものとされた私、神の子・神の僕とされた私を見るのです。そして、その私が、神様の御前に立つ私です。相も変わらず、言わなくてもいいことを言ってしまい、してはならないことをしてしまう私かもしれません。しかし、それでも私は神様に愛されています。赦されています。救われています。この内なる私と外なる私の戦いは、天の国において私共がイエス様に似た者に造り変えられるまで、止むことはありません。しかし、この戦いの決着はもうついています。イエス様が、十字架・復活・昇天によってすべての悪しき力に対して勝利されたからです。私共は、その勝利されたイエス様ののものとされている。勝利されたイエス様と一つにされているからです。

6.恵みにとどまり続ける
 私共は、この恵みにとどまり続けることによって、霊的な私、新しい私は強く大きく成長していきます。この恵みの中にとどまり続けるために、私共はどうすれば良いのか。特別なことではありません。主の日の礼拝に集い続けること。御言葉に学び続けること。神と人とに仕えること。愛の交わりを形作ること。そして祈ることです。特別なことは何もありません。特別な修行があるわけでもありません。そんなことで良いのかと思う人もいるかもしれませんが、そんなことで良いのです。その中でも、この主の日の礼拝は中心的位置を占めるでしょう。御言葉に学ぶことも、神と人とに仕えることも、愛の交わりを形作ることも、祈ることも、すべてはこの主の日の礼拝の中で為されていることであり、その中でうながされることです。主の日の礼拝の度毎に、霊的な私、内なる私、神の子・神の僕とされた私が、大きく強く成長していくのです。この礼拝において、私共が似た者にされていくイエス・キリストというお方の御姿を見させていただくからです。その神様の御心を示していただくからです。
 先週の礼拝の後で教会修養会を行いました。全国連合長老会の式文が改訂されましたので、その新しい式文に基づいて聖餐についての学びを行いました。幾つかポイントがありますが、その中でも大切な点は、この聖餐において、イエス様の十字架・復活・昇天の出来事によって一切の罪から私共を救い出してくださったことを覚えると共に、私共はそのイエス様と一体とされる恵みに与るということです。そこに私共の信仰の熱心さや真面目さが入る余地はありません。ただただ神様の一方的な恵みです。私共はこの救いの恵みに与るだけです。
 私共はどこまで行ってもただの罪人です。しかし、神様に愛され、赦され、救われた罪人です。私共の中に誇るべきものなど、何もありません。聖なる神様の御前に出る度に、私共はそのことを知らされます。しかし同時に、その聖なる方に向かって「父よ」と呼ぶことが許されている幸いを思います。まことにありがたいことです。この恵みをしっかり受け止めて、新しい一週もまた、御国に向かっての歩みを、我が内に宿り給う聖霊なる神様と共に、その御支配の中で歩んでまいりましょう。イエス様が教えてくださった祈り、「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなりますように。」との祈りと共に歩んでまいりましょう。この祈りを祈る者こそ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことの出来る新しい私なのです。

[2018年10月7日]

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