1.私共が問われる実は言葉です
今朝は青山学院大学ハンドベル・クワイアの方々が一緒に礼拝を守っています。献金の時の奏楽の奉仕もしてくださいます。更に礼拝後、愛餐会の後に演奏会も行われますので、皆さん是非残っていただきたいと思います。
今朝与えられております御言葉において、イエス様はこう告げられます。33節「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」特に説明する必要も無いほど、当たり前のことを言われているように思える言葉です。確かに、良い木は良い実を結ぶでしょうし、悪い木は悪い実を結ぶでしょう。しかし、イエス様はここで木の話をしておられるのではありません。人間の話をしておられる。良い木は良い人間、悪い木は悪い人間をたとえているのです。では、良い実・悪い実とは何かと言いますと、口から出て来る言葉です。34節に「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」と言われている通りです。つまり、良い言葉は良い心から出てくるのだから、それを語る者は良い人間だ。そして、悪い言葉は悪い心から出てくるのだから、それを語る者は悪い人間だと言われるのです。人が語ることは、その人の心にあることが口から出てくるものだからだ、とイエス様は言われるのです。
ここで私共は、このイエス様の言葉にドキッとさせられるでしょう。自分はいつも良い言葉を語っているだろうかと自らに問うて、「私はいつも良い言葉を語っています。」と自信を持って言える人などいないでしょう。人の悪口を言ったことがない。そんな人は一人もいません。ヤコブの手紙3章2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」とあります。しかし、完全な人などいないでしょう。完全な人はイエス様しかおられません。また、3章6節「舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」とあります。「口は災いの元」と言いますように、たった一言で人間関係を悪くしてしまった、そんな経験のない人もいないでしょう。言わなくてよいことを言ってしまった。何であんなことを言ってしまったのだろう。そんな反省を私共はしょっちゅうしています。ですから、自分の語った言葉で良し悪しを決められるなら、誰も良い木とはされないということになってしまいます。勿論、良い言葉を言ったことがないという人もいません。「ありがとう」の一言だって良い言葉でしょう。そう考えると、イエス様は、私共の口から出る良い言葉と悪い言葉を数えていて、良い言葉が多ければ良い人とし、悪い言葉の方が多ければ悪い人とすると言われているのでしょうか。そんなはずはないと思うのです。
そもそも、言葉のやり取りというものは簡単ではありません。そんなつもりでは言っていないのに、自分の思い、自分の意図とは違ったように受け取られてしまうということだって少なくない。それもまた、悪い言葉、悪い実とされてしまうのだろうか。そんな風にこのイエス様の言葉を受け取ってしまいますと、いっそのこと人とは話さない方が良い、そんなことにもなりかねません。しかし、イエス様がここで言われているのは、そういうことではないのです。あの人は口が悪いとか、口下手だとか、口が巧いとか、そういうレベルの言葉を言われているのではありません。
2.私共が問われる言葉は信仰の言葉です
では、イエス様が言われる良い言葉と悪い言葉とはどういうものでしょうか。37節「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」それは、自分が語るその言葉によって義とされる、つまり正しい者とされ救われる言葉です。また、その言葉によって罪ある者とされる、つまり神様に裁かれる言葉です。一体、何を語れば救われ、何を語れば裁かれるのか。そんな決定的な言葉とは一体何なのでしょうか。それは、「イエスは主なり」という信仰の言葉、信仰告白の言葉です。「イエスは主なり」この言葉こそ、私共が神様から良い木と見なされる言葉なのです。もちろん、この「イエスは主なり」との言葉は、それだけに限らず、色々な言葉となって現れ出てまいります。「イエス様を信じます」「イエス様を愛します」「イエス様に従います」「イエス様がすべてです」等々、様々な言葉になり得るでしょう。しかし、どれもが信仰の言葉であり、イエス様と私共との関係を言い表しています。
私共は主の日の度毎にここに集って、神様を賛美し、祈りを捧げています。それは、「イエスは主なり」との信仰から生まれてくる良き言葉に満ちています。主をほめたたえ、主を愛し、主を信頼し、主に従う。隣人を愛し、これに仕える。それらの思いを言い表す言葉に満ちています。私共はこの礼拝において、神様に良しとされる言葉を学び、身に着けていく、そう言っても良いだろうと思います。
3.ハンドベル・クワイアの大会
この良き言葉は音楽にまで広がっていきます。今朝は青山学院大学ハンドベル・クワイアの方々がおられますが、クワイアというのは聖歌隊と訳せば良いのでしょうか、その演奏もまた、「イエスは主なり」との告白から生まれてくる良き言葉なのだと思います。オルガンの奏楽も同じです。音楽は、演奏者自身が楽しむという面もありますし、聞く人を楽しませるという面もあります。そのためには演奏技術も必要ですし、大切でしょう。しかし、その演奏は神様に捧げるものです。捧げる。それは、私が主ではないということです。私が主、私の人生は私のもの、そこからは神様が良しとされる言葉や演奏は生まれてきません。私の主人は神様・イエス様です。その信仰から「捧げる」という業が生まれてくるのでしょう。
先日下見に来られた青山学院大学ハンドベル・クワイアの隊長さんにこんな話を聞きました。ハンドベル・クワイアには、地区大会、地方大会、全日本の大会、そして世界大会というものがあるそうです。しかし、それらの大会はコンテストではないというのです。各大会において、一位、二位と順位を付けたりしないのです。普通、音楽の大会というのは金賞・銀賞・銅賞などの賞があり、順位を決めて、次の大きな大会に進む人を決めるわけです。運動の大会と同じです。しかし、ハンドベル・クワイアの大会においては順位は付けない。何故なら、ハンドベル・クワイアの演奏は神様に捧げるもの、主に捧げる賛美ですから、順位を付けるのは馴染まないからでしょう。神様に捧げる営みは、人と比べて、どっちが良いとか悪いとか判定するものではないからです。そもそも、神様に捧げられたものを人間が判定することなど出来るはずがないし、そんなことは許されないことなのです。
4.神様が一番か、私が一番か
「イエスは主なり」の反対の言葉は、「われが主なり」ということになりましょう。私が主人ですから、人との関わりにおいても、その口から出る言葉には人を見下したり、偉そうだったり、自分の思い通りにしようとする意図が表れてしまいます。それは悪い実だとイエス様は言われるのです。
「イエスは主なり」という言葉から生まれる言葉は、イエス様をほめたたえ、仕える者として歩もうとする言葉となります。そして、イエス様は私共を愛しておられますから、この方を主人とし、この方にお仕えする者は、人との関わりにおいても愛する者、仕える者としての言葉を語るようになるということなのです。
自分が一番か、神様が一番か。とても単純なことですけれども、ここに私共が生きていく上での大きな分かれ道があるということなのです。そして、この分かれ道においてどちらに行くかによって、私共の語る言葉も変わってくるということであり、終わりの日の裁きにおいて救いに与るかどうかが決まってしまうとイエス様は言われるのです。
5.蝮の子ら
私共は、自分はなかなか良い人間だと思っているところがあります。善人とまでは言わないけれど、悪人ではないし、そこそこ良い人だと思っている。それはそうなのだろうと思います。しかし、それは人と比べてそうなのであって、神様の前に立つならば良い人なんて一人もいないのです。イエス様は34節で「蝮の子らよ」と言われました。これは直接的には、イエス様を悪霊の頭だと言い、イエス様を殺そうと相談し始めたファリサイ派の人々のことを指して言っているのですけれど、私共もまた、同じような者なのです。私共の口からは、人を傷付け、神様をないがしろにし、自分の力だけで生きているかのように思い上がった言葉があふれ出ているからです。先ほどヤコブの手紙の言葉を引用しましたけれど、本当に私共は自分の舌を制御することが出来ないのです。それは、私共の心は良いのだけれど口がつい滑ってしまうということではない、とイエス様は言われます。心が悪いから口から出る言葉も悪いのだと言われるのです。
政治家の失言とか、スポーツ界のパワハラとかが、マスコミで取り上げられることが多いですけれど、それは決して口先だけのことではないでしょう。問題は、口先で何と言ったか以上に、その人の心に何があるのかということなのだ、とイエス様は言われるのです。心にあることが口に出ただけだ。そしてその根っこには、私が一番だ、私が正しいという心がある。それをイエス様は悪い木だと言われているのです。だから、悪い実しかならない。
一番なのは、いつでも正しいのは、神様・イエス様だけです。私共は蝮の子らであって、決して良い人などではありません。一番でもないし、いつも正しいわけでもない。しかし、その「蝮の子ら」である私共のために、イエス様は十字架にお架かりになってくださった。私共のために、私共に代わって十字架の裁きを受けてくださった。そして、その十字架の上から私共に呼びかけるのです。「あなたは悪い木のままであってはならない。良い木になりなさい。自分が一番でもないし、自分が正しいわけでもない。わたしはそのことを知っている。しかし、安心しなさい。わたしがあなたの一切の罪の裁きを受けた。あなたは赦されている。だから、新しく歩み出しなさい。『イエスは主なり』との良き言葉を心に刻んで歩んでいきなさい。」そう告げておられるのです。
6.「イエスは主なり」によって変えられていく
「イエスは主なり」との良き言葉は、私共が手に入れるというよりも、聖霊なる神様によって与えられるものです。「イエスは主なり」と語る者、告白する者は、既に聖霊を注がれ、聖霊なる神様の御手の中に生き始めています。だから、変われるのです。変えられ続けていくのです。聖霊なる神様が変えていってくださるからです。そしてそれは、何よりも私共が日常において語る言葉が変わっていくということです。私共はそのことを信じて良いのです。
私共は、人を傷付けたり見下したりする言葉を言ってしまうことがあるでしょう。その時には、正直に自分の非を認めなければなりません。そして、自分はどういうつもりでそんなことを言ったのかを相手に伝える。そして、赦してもらうのです。これはなかなか難しいことです。しかし、聖霊なる神様が必ずそこに働いてくださり、和解へと導いてくださいます。更に、イエス様の御前に立って悔い改めるのです。「もうあの人とは口をきかない。」なんて言わず、すべてを赦してくださるイエス様の赦しの中で、新しく大胆に、愛ある言葉を語りかけていく。そして、その人との交わりを新しく形作っていく。そのような営みが私共には求められているのでしょう。お互いに「私が一番。」「正しいのは私。」という所に立ち続けるならば、そのような交わりは決して形作れません。
イエス様は36節で「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」と言われます。「裁きの日」、つまり終末において永遠の救いに与るのか、永遠の滅びに定められるのか、そのことをしっかり受け止めて歩みなさいと言われているわけです。単に、語る言葉に気をつけよ、言葉に気をつけないと人間関係は上手く作れない、そんなことを言われているのではないのです。私共の口から出る言葉に私共の心が表れている。その心を変えよ。自分が一番、自分が正しい、そのような自分中心の心を変えよ、と言われているのです。「イエスは主なり」との信仰によって変わっていきなさい、と言われているのです。
7.「イエスは主なり」の信仰を持って生きる
私共は人生の中で、選択し決断しなければいけないことが何度もあります。自分で決めなければならないこともありますし、周りの意見を聞いて決めることもあります。そういう時、私共は正しい選択をしたいと思う。間違いたくないと思う。しかし、その正しさとは何なのか。将来、一番得な道を選びたい、損をしたくないということならば、それはつまらないことでしょう。そうではなくて、私共の選択の基準は、それが神様の御心に適っているかどうか、そのことを第一にして選択したいということでしょう。しかし、神様は「こうしなさい。」と言ってくれるとは限らない。だったら、どうしたら良いのか。
それは、「イエス様、あなたが私の主人です。ですから、あなたの御心のままに歩んでいきたいです。御心に適う道を開いてください。」そう祈って決断することです。そう祈って決断した道は、最早私の道ではありません。神様が開いてくださった道です。神の道です。辛い時もあるでしょう。苦しい時もあるでしょう。どんな道を選んだとしても、それは付いてきます。しかし、その道は神様が開いてくださった道なのですから、神様が何とかしてくださいます。私共は出来るだけ精一杯のことをすれば良いのです。もし、それでもダメだった時にはどうするのか。神様の道なのだから、どんなことがあっても歯を食いしばってそこで生きていかなければならないのか。そんなことはありません。そんな時は「神様、もうダメです。この状況を変えてください。ここで生きていける力を、勇気をください。それでもダメなら、新しい道を開いてください。」そう祈ったら良いのです。神様は私共を愛してくださっているのですから、私共を天の御国に導こうとしてくださっているのですから、生きる力と勇気を与え、状況を変え、また新しい道を主は備えてくださいます。そうしたら、その新しい道を主の道として歩んで行けば良いのです。それは失敗などではありません。「イエスは主なり」との信仰をもって歩む時、私共の人生に失敗などというものはないのです。
どの道も御国に向かう道です。「イエスは主なり」との言葉を心に刻んで、主にお捧げする歩みを為していくならば、神様は必ず最も良いものを備えてくださいます。神様はその独り子を与えるほどに、私共一人一人を愛してくださっているからです。
[2018年9月2日]
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