富山鹿島町教会

礼拝説教

「憐れみ深い神様との契約主は復活された」
詩編 16編5〜11節
マタイによる福音書 28章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.「契約の書」
 8月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。前回まで十戒を順に見てまいりました。その十戒の直後、出エジプト記20章22節〜23章33節ですが、新共同訳ではこの部分に「契約の書」という見出しが付いています。これは、24章において、イスラエルの長老たちと神様が契約を結ぶことが記されています。それにあたり、モーセが長老たちに読み聞かせたのが、十戒とこの契約の書だったのです。24章3節に「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」とあります。ここで「主のすべての言葉」と言われているのが十戒で、「すべての法」と言われているのが「契約の書」を指していると考えられています。今、この「契約の書」のすべてを見ていくことは出来ませんが、大切な一つの特徴について見ていきたいと思います。
 「契約の書」は小見出しの上に番号が付けてあって、16の項目について記されているわけですが、今日はその中の「(9)人道的律法」と「(13)訴訟において」という小見出しが付いている所を見てまいります。 2.あなたたちはエジプトの国で寄留者であったから  この二つの箇所は、先ほど司式者が読んだ時にすぐにお分かりになったと思いますが、寄留者や寡婦や孤児を圧迫したり、虐げたりしてはならないということが記されています。寄留者というのは、現代の言葉で言えば難民です。寡婦は未亡人です。この寄留者、寡婦、孤児といった人々は、古代イスラエル社会において、保護してくれる人や守ってくれる人がいない、そして経済的にも生きていくのがやっとという状態に置かれている人々でした。社会的弱者と言って良いでしょう。神様がイスラエルの民と契約を結ばれた時、そういう人たちを圧迫したり、虐げてはならないと言われ、十戒と共に読み上げられたこの契約の書に記されました。それは、神様と契約を結ぶことによって生まれる神の民が、このような社会的・経済的に弱い者を圧迫しない、虐げない民となっていかなければならない。神様は神の民がそういう民になることを求められ、そのような民となることを神の民は、その出発の時から定められていたということです。
 その理由として、22章20節と23章9節に「あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」と告げられています。神の民が生まれるというこの神様との契約は、出エジプトの旅の途中で為されました。イスラエルの民が、奴隷であったエジプトから神様によって導き出され解放された、その旅の途中で結ばれたのです。神の民としての歩みは、この出エジプトの出来事から出発しました。出エジプトの出来事は、言わば神の民の原点です。決して忘れることの出来ない出来事、忘れてはならない出来事です。そして、この出来事によって生まれた神の民は、寄留者、寡婦、孤児を虐げないということを守らなければならない。それが神の民の在りようなのだと神様は告げられたのです。
 自分たちはエジプトの国で寄留者だった。誰も守ってくれず、ファラオの命じるままにれんがを作り、強制労働させられ、虐げられていた。そのような者を神様は憐れんでくださって、エジプトから導き出してくださった。その神様が、「あなたがたはエジプトの国で寄留者だったのだから、寄留者の気持ちを知っているだろう。だから、そのように弱い者、小さい者を虐げるような者になってはならない。あなたがたは、そのような者にはならない。」そう告げられるのです。
 私共は大変だった時のことをすぐに忘れます。しかし、神様は「忘れてはならない」と言われるのです。何故なら、自分たちがエジプトにおいて奴隷であったことを忘れるということは、神様の憐れみによって今日があるということを忘れることだからです。神の民とは、忘れない民なのです。

3.憐れみ深い神様
 22章20〜23節「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」ここで、「彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」と言われる。これは、出エジプト記2章23〜25節「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」と全く重なります。つまり、イスラエルの人々の叫びが神様に届き、神様はその嘆きを聞き、そしてモーセを立てて出エジプトの出来事を起こされたわけですが、それと同じように、イスラエルの人々が寄留者を虐げ、神様に向かって叫ぶ声が上がったならば、神様はその叫びを聞き、怒りに燃え上がり、事を起こすと言われるのです。
 この神様の御心は、寄留者、寡婦、孤児に限定されたものではありません。24〜26節「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」とありますように、貧しい人に対しても向けられています。更に、「わたしは憐れみ深いからである。」とある通り、神様が憐れみ深いのは、神の民イスラエルに対してだけではないのです。神様は天と地のすべてを造られたお方ですから、すべての民に対して憐れみ深いのです。
 その神様の憐れみを最も良く知っている者、それが神の民です。神様の憐れみによって出エジプトの出来事に与り、神に救っていただいたからです。神の民は、ただ神様の憐れみによって神の民とされました。だから、神の民はこの神様の憐れみを体現する、神様の憐れみを自分の心として生きる民とならねばならないということなのです。
 しかし、人間の罪というものは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言うように、この神様の憐れみによって生かされた、生かされているということを、いつの間にか忘れてしまうのです。そして、世の常として、やがてイスラエルの社会も弱い者は虐げられるという社会になってしまいました。イスラエルの民が後にバビロン捕囚という神様の裁きを受けた理由は、二つです。一つは、偶像礼拝に走ったこと。そしてもう一つは、社会的に弱い者を虐げたということです。この二つこそ、神様の怒りの原因でした。預言者たちはそのことを告げています。

4.神様の憐れみを最も正しく知るお方
 この神様の憐れみを最も正しく、最も明確に知っておられた方、それが主イエス・キリストです。イエス様は、マタイによる福音書25章31〜46節において、御自身が再び来られる時のことについて語っておられます。31〜33節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」とあります。羊を右に、山羊を左に分けるように、すべての国の人々を分けると言われる。右の羊は救われて永遠の命を受ける人、左の山羊は永遠の罰を受ける人です。それは、飢えた人、のどの渇いた人、旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人に対して親切にしたか、しなかったかの違いで分けられるというのです。イエス様はここで、40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」、また45節「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と言われます。最も小さい者。それは具体的に困り、弱り果てている人です。社会的、経済的に小さい者です。そのような人たちにどう接したか。そのことが、イエス様が再び来られる終末の裁きにおいて問われることなのだ、とイエス様は言われました。
ここでイエス様が言われていることは、契約の書に表れている神様の憐れみに生かされた者は、神様の憐れみを現す者として生きるのだということと同じです。神様の憐れみによって救われ、生かされておきながら、その神様の憐れみと無関係に、自分のことだけ考えて生きることなど出来ないということです。イエス様は、契約の書に表れている神様の憐れみ、そしてその憐れみに応えて生きる神の民の姿を言い換えられたのです。

5.最も小さい者に
 ただ、ここで注意しなければならないことは、このイエス様の言葉は、最も小さい者に対して親切にすれば救われ、そうしなければ滅んでしまう、そのように理解してはいけないということです。そういうことでしたら、私共は神様の憐れみによって救われる、信仰によって救われるのではなくて、自分の為す善き業によって救われるということになってしまうでしょう。そして、イエス様の十字架も復活も無意味になってしまう。私共の救いのために必要なものではなくなってしまいます。ですから、イエス様はそんなことをここで言っておられるのではないのです。
 イエス様が「最も小さい者」と言われたのは、その人に親切にしても見返りを期待出来ない人ということです。そういう人のために自分の時間や労力や富を割いても、少しも得にならない。もし、その人が王様なら、金持ちなら、見返りを期待出来ます。しかし、見返りが期待出来ない人にどう接したか、それが問われるというのです。ここで弱い者、小さい者に親切にした人も、親切にしなかった人も、「いつ、そんなことをしたでしょう。」と言っています。覚えていないのです。それは覚えていないほど、些細なことなのです。別の言い方をすれば、これはとても日常的なことだということです。見返りを期待出来ない人に、日常的にどのように接しているのかということです。それは、私共がそのような最も小さい人をどのように見ているのかということが現れるのでしょう。ここでイエス様は、イエス様御自身がその弱い者・小さい者と一つになってくださっていると言うのです。だから、イエス様に相対するように弱い者・小さい者と関わって生きなさい、そうイエス様は言われたのです。

6.靴屋のマルチン
 ここで、『靴屋のマルチン』の話を思い出します。数十年前には、よく教会学校のクリスマス会などでこの劇がなされたものです。知っている方も多いでしょう。こういう話です。
 マルチンは妻に先立たれ、一人息子にも先立たれた、ひとりぼっちの老人です。そんなマルチンに、ある人が聖書をプレゼントします。マルチンは靴屋の仕事が終わると、聖書を熱心に読みました。そしてある日、「明日あなたの所へ行きます。」というイエス様の言葉を聞きます。マルチンは、いつイエス様が来ても良いようにお茶を沸かし、料理を作り、部屋を暖かくして待ちます。しかし、マルチンが見るのは、寒さの中で道を掃除する人だったり、リンゴを盗む少年だったり、乳飲み子を抱える貧しい母親だったりします。彼はその人々を家に入れ、イエス様のために用意していたお茶や料理をごちそうします。そして一日が終わります。イエス様は来なかったなと思っていたマルチンは、いつものように聖書を読むと、ちょうどこの箇所が目に入ります。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」この御言葉によって彼は、「今日、確かにイエス様はわたしの所に来てくださった。」という喜びに包まれるという話です。
マルチン自身、世間から見れば「最も小さい者の一人」なのかもしれません。しかし彼は、この聖書の言葉を「自分は社会から、人々から、親切にしてもらうのが当然なんだ。」という風には読みませんでした。そうではなくて、今日、イエス様を待っていたら、困っている人が次々と目の前に来て、自分は良いことをしているという意識も持たず、自分に出来る小さな親切をした。しかし、イエス様はそのことを自分にしてくれたこととして、喜んで受け取ってくださった。マルチンの喜びはそこにありました。

7.神様の憐れみとしての十字架
 このイエス様のたとえ話を聞いて、自分は最も小さい者に親切にしているかな、していないかな、どっちだろう、と不安になる必要はありません。いつでも最も小さい者に親切にしている人なんていませんし、逆に、全く親切にしたことがないという人もいないでしょう。イエス様は親切にした時をプラスに数え、親切にしなかった時はマイナスに数え、合計がプラスだったら救われる、マイナスだったら滅びる。そんなことを言われているのではありません。もしこれが私共の裁かれる基準だとすれば、誰も救われないということになってしまうかもしれません。しかし、そうではないのです。私共は、ただ神様の憐れみによって救われるのです。ただ、イエス様はここで、神様の憐れみによって救われ生かされている者の基本的な生き方をお示しになったということなのです。神様の憐れみは、イエス様が「最も小さい者と一つになる」ほどに徹底したものだということです。その徹底した神様の憐れみ、神様の愛が示されたのが十字架です。
 イエス様の十字架によって救われた者、それは神様の憐れみによって神の子、神の僕とされた者です。神の子、神の僕とされた者は、この憐れみに生きる者となるのです。この最も小さい私を神様は憐れみ、御子を十字架にお架けになるほどに愛してくださり、神の子としてくださった。だから、この神様の憐れみを身に帯びた者として生きる。それ以外に生きようがないということです。キリスト者は、神様の憐れみの道具とされて生きるしかないのです。
 イスラエルの民がエジプトでの寄留の状態から救われたが故に、寄留の民を虐げないことを求められたのと同じです。イスラエルが神の民として神様と初めて結んだ契約と、イエス様によって私共が結んだ契約は、同じ神様の憐れみが土台にあり、この憐れみ深い神様と契約を結んだ者が歩むべき道は、旧約以来一貫して、神様の憐れみを現す者として生きる、神様の憐れみの心を自分の心として生きるということです。神の国を目指して生きるとはそういうことです。

8.神の民の伝統
 教会学校では子どもたちにお菓子をあげたりする時、必ず小さい子から先にあげます。これは小さい者が大切にされる伝統と言っても良いでしょう。これは、一般の社会では当たり前ではないのかもしれません。一回小さい子からあげたのなら、次は大きい子からあげる。そうすると、真ん中の子はいつも一番になれないから、時には真ん中の子からあげる。そんなこともあるのかもしれません。しかし、教会では何時でも小さい子からあげるのです。時々、大きい子が「いつも小さい子からでずるい。」と言います。しかし、大きい子からはあげません。何故なら、これが教会の伝統だからです。もっと言えば、これが神の国の秩序だからです。教会が、幼児教育や福祉といった分野において、日本における草分けとして事業を展開したのも同じ理由です。小さい者、弱い者、それが虐げられるようなことを神様は決してお望みにならないことを知っているからです。
 神の民である教会は、天国、神の国ではありません。しかし、天国、神の国を知っていますし、それに向かって歩んでいる群れです。この群れは、神様が望んでおられることが何かを知っており、それに従うことによって、一般社会とは違ったあり方、違った秩序を持つことになります。その秩序の基本にあるのが、最も小さい者を大切にするという神様の憐れみなのです。この憐れみによって生かされ、救われた私共です。ですから、目の前の小さな者、弱っている者、困っている者に対して、愛の業をもって関わる者として歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2018年8月26日]

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