富山鹿島町教会

礼拝説教

「隣人の財産を守る」
出エジプト記 20章17節
エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.十戒の第十の戒「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」
 今朝は十戒の十番目の戒から御言葉を受けてまいります。私共は、聖餐に与る礼拝において十戒を用いておりますが、そこでは「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」と唱えます。それはこの出エジプト記20章17節の冒頭の言葉を唱えているのですけれど、そこで「隣人の家」と言っているのは、隣人の家にあるすべてを指してのことです。「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」と続いているとおりです。ここには、羊や馬、お金や宝石、衣服といったものは書いてありませんけれど、隣人の持っているものすべてを含んでいることは言うまでもありません。ここで最初に妻が挙げられているのは、十戒が与えられた当時、今から三千年以上前においては、妻は財産の筆頭だったからです。結婚は相手の親から娘を買うことだと考えられていた時代でした。もちろん、現代の私共はそのようには考えません。
 第八の戒である「盗んではならない。」から御言葉を受けた時に、「この第八の戒は、物を盗むというよりも人を盗むことを禁じている。人身売買したり、誘拐したり、他人の自由というものを奪ってはならないということだ。物を盗むなというのは第十の戒で言われていることだ。」と申しました。この第十の戒は、隣人の持っているすべての物を自分のものにしようとしてはいけない、直接的にはそのことを意味していると言って良いと思います。そんなことは当たり前のことではないか、と私共は思います。実際に人の物を盗んだことがあるという人は、ここにはあまりおられないでしょう。

2.欲してはならない
 しかし、ただ隣人の物を自分のものにしなければいいのかと言いますと、この第十の戒が告げていますのは、そうではありません。更に一歩踏み込んで、それを「欲してはならない」と命じているのです。口語訳では、「むさぼってはならない」と訳しておりました。いずれにせよ、隣人が所有している物を自分のものにしようとするだけでダメだと言うのです。これは、単に盗みを禁じているというよりも、そのような思いを抱くことさえ禁じているということです。「殺すな」とか「姦淫するな」というのは、具体的な行動・行為を禁じているわけですが、この第十の戒においては、盗む以前に「欲しいと思う」そのこと自体を禁じているのです。
 このことは、この十番目の戒が、殺すな、姦淫するな、盗むなという並列の位置にあって、一つの「欲する」という行為を禁じているという以上のことなのではないかと考えさせられるのです。十戒の後半は、具体的な罪ある行為を罪の重い順に記していると理解しがちですけれど、そうすると十番目は一番軽いということになる。十戒の第六の戒である「殺すな」が一番思い罪、次が姦淫の罪、という風に読むことも間違いとは言えません。しかし、そうすると十番目は一番軽い罪ということになる。確かに、まだ実際に他人の物を自分のものにしてはいない。そうしようと思っただけです。そうしたいと欲する、それ自体がダメだと言われているわけです。この十番目の戒は、殺す、姦淫する、盗む、偽証する、そういうことの根っこにある心を問題にしているのでしょう。それはちょうど十戒の第一の戒、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」という戒が、十戒の全体の前提、大枠となっているのと同じように、この十番目の戒が、隣人との関係を破壊してしまう罪ある行為の根っこにあることなのだ。すべての罪ある行為の根っこには、この他人の物を自分のものにしようとする欲があるのだということを示しているのです。この十番目の戒と第一の戒が、十戒の大枠を形作っている。そう考えることが出来るのではないかと思うのです。そして、この他人のものを欲するという思いと戦うこと無しに、神様を愛し神様に従うことは出来ないということなのです。信仰の戦いは、この自分の心に湧いてくる思いと戦うこと無しにはあり得ません。そしてこの心の戦いは、本当に厳しい戦いなのです。

3.むさぼってはならない
 以前の訳では、「欲してはならない」は「むさぼってはならない」と訳されておりました。その時、この「むさぼる」とはどういうことなのか、私はこんな風に考えていたことがありました。牧師になったばかりの頃です。「むさぼる」というのは、自分が必要であること以上のものを求めてしまうことだ。それも間違いとは言えないと思いますけれど、だったらどこまでが必要なもので、どこからがむさぼりになるのか。そういう疑問が出てきます。例えば、車は一台は必要だけれど、二台、三台はむさぼりになるのか。今年の夏はクーラー無しにはとても生活出来ません。必要不可欠です。けれど30年前、40年前は、そうとは言えなかったでしょう。着る服は何着まで必要なのか。そして何着からはむさぼりになるのか。ブランドのバッグはどうなのか。このように読んでしまいますと、この第十の戒は質素倹約を求めている戒ということになってしまいます。本当にそうなのかということです。

4.私の心の主人は神様だけ
 この第十の戒の眼目は、私共の心が何によって占有されているかということです。私の主人は神様であって、それ以外のいかなるものも私共の心を占領し、支配してはならないということです。私共は、生きていく上で色々なものを必要としています。しかし、そのすべてを備え、与えてくださるのは神様です。この神様の守りと備えを信頼しないで、自分の手ですべてを手に入れていく。他人のものであっても、自分にそれが必要だと思い始めると、何とかしてそれを手に入れようとする。しかし、それは違うと、この戒は私共に教えているのです。
 つまり、神様を愛し、信頼し、これに従って生きる、それが神の民なのですけれど、心の中に神様以外のものが巣を作り、それがどんどん大きくなって、終いにはそれに支配されるということになると、人は様々な罪を犯すことになる。そのことを神様は戒めておられるのだと思うのです。

5.ダビデの例、事件の例
 このことについての具体的な例は、旧約から幾らでも挙げることが出来ます。例えば、ダビデです。彼は、イスラエル史上最も大いなる王様でした。神様を愛し、神様に愛された王でした。しかし彼は、ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにするために、ウリヤを激しい戦いの最前線に送って戦死させてしまう。そして、そのことを預言者ナタンによって叱責されるまで、自分がしたことが悪いことだと気がつかない。ダビデはナタンに叱責されて悔い改め、神様の赦しを与えられはしました。しかし、彼はこの第十の戒を破ることによって、次に姦淫の罪、更に殺人の罪まで犯してしまったわけです。
 このようなことは、新聞を開けば毎日のように様々な事件として報道されています。神様を愛し、信頼し、これに従う。つまり、神様だけを神様とする。これが具体的に失われる場合、それが「隣人の家を欲する」という形で表れ、更にそれが具体的な罪を犯すことに繋がっているということなのです。私共は神様を主人として持たねばならないのに、神様抜きに、あれを手に入れたい、ああしたい、こうしたいという思いが私共の心を支配する時、私共は具体的な罪を犯してしまうということなのです。たとえ自分の子どものためであろうとも、富や地位や名誉を手に入れさえすれば幸いになると考え違いをする時、罪の奴隷になってしまうということです。「我が子のため」というのは、私共が最も安易にこの第十の戒めを破ってしまう理由になりやすいものです。
 最近、文科省の役人の不正事件が次々に起きています。何ということかと思いますけれど、これもまた、心の中から正しく生きるということが失われて、損か得かという所に生きるようになってしまった人間の姿、隣人の家を欲してしまった人間の姿なのでしょう。 アルコール、ギャンブル、覚醒剤などの依存症なども、この戒を破ってしまった悲惨の具体的な例と言えます。

6.イエス様の教え
 ここで、イエス様がお語りになった言葉を思い起こすことが出来るでしょう。マタイによる福音書5章27節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」大変厳しい教えです。誰がこれを守ることが出来るだろうかと思うほどのものです。イエス様はここで、十戒の「姦淫するな」という第七の戒と、この「隣人の家を欲してはならない」という第十の戒とを、一つにして受け取らねばならないと教えてくださったのです。第七の戒「姦淫するな」との戒めは、実際に姦淫しなければ良いというようなことを意味しているのではなくて、その根っこにある「みだらな思いで他人の妻を見る」ということにおいて、既に第十の戒を犯しているのであるということを教えてくださった。十戒というものは、一つ一つ独立した戒ではなくて、全体が繋がっている。全体として守ることによって、神様の御前に生きる神の民の姿が現れ出てくる。もっと言えば、神の国における私共の交わりのあり方が現れ出てくるというものなのです。

7.すべては神様が備えられたもの
 私共が「隣人のものを欲する」という戒を軽々しく受け取り、これを破ってしまうと、更に具体的な罪へと繋がっていく。それは、個人の場合でもそうですけれど、国の単位でそれが行われれば戦争となります。戦争の多くは、自国を守るという名目で始められるものです。しかし、その根っこには、隣の国のものを自分のものにしようとする心があることは明らかです。残念なことですけれど、この心に支配され、引き金が引かれると、もう誰にも止めることが出来ない所まで暴走してしまう。そして、人間が犯す最も悲惨な罪の現実が現れてしまう。むさぼりの罪が引き起こす最も悲惨な罪、それが戦争です。
 私は素晴らしい。私の国は素晴らしい。私は特別だ。私の国は特別だ。そんな思いが私共の中に無いとは言えません。しかし、自分のことや自分の国を特別だと思う中で、隣人の持っているものを自分のものにしても良い、自分のものにすることが出来る、そんな風に考えることは決して許されることではありません。聖書が告げることは、特別なのは私でも私の国でもなく、神様だけです。神様がすべてを造り、すべてを支配してくださっているからです。私共の心を占有することが出来るのは、この神様だけです。それ以外のものが占有する時、私共は偶像礼拝の罪を犯し、偶像に仕えて具体的な罪を犯してしまう。この罪に抗い、唯独り特別であるお方の御手の中で安らうことが出来るようにと与えられたのが、十戒です。私の命も、隣人の命も、私の持っているものも、隣人が持っているものも、みな神様が備えてくださり、与えてくださったもの。だから、互いにそれを尊重して生きていく。そこにまことの平安がある、と聖書は告げ、その平安に生きるようにと、神様は十戒をもって招いてくださっているのです。

8.死から命へ
 先程お読みいたしました、エフェソの信徒への手紙2章1節「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」とパウロは告げます。私共は死んでいたのです。神様を知らず、神様の愛を知らず、自分の欲に引きずられるしかなかった私共を、「死んでいた。」とパウロは言う。その有り様は、2〜3節「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」とあります。つまり、私共はイエス様の救いに与るまで、諸々の霊力の下にあり、肉の欲に引きずられて、これをコントロールすることも出来ずにいたのです。神様が私共を愛し、必要のすべてを備えてくださっていることが分からずに、それ故自分の手で力任せにすべてを手に入れていくことしか知りませんでした。そして、少しでも多くのものを手に入れることが幸いだと思っていました。その結果、心はいつも戦いの中にあり、平安を知りませんでした。確かに死んでいたのです。しかし、今は違います。イエス様と出会って、神様がどんなに私を愛してくださっているか、自分の持っているもののすべてが神様によって備えられ与えられたものであることを知りました。何かを手に入れる所に平安と幸いがあるのではなく、神様にまた隣人のために自分の持っているものを捧げるという所にこそ平安と幸いがあることを知りました。そして私共は、自らを誇るのではなくて、神様を誇る者、神様に感謝する者に変えられたのです。まことにありがたいことです。この幸いの中に生きることが出来るようにと与えられた十戒。この一週もまた、遣わされている場において、これに喜んで従う者として歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2018年7月29日]

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