富山鹿島町教会

礼拝説教

「隣人の名誉を守る」
出エジプト記 20章16節
マタイによる福音書 26章57〜68節

小堀 康彦牧師

1.「偽証」してはならない
 先週は6月の最後の主の日でしたけれど、富山地区交換講壇がありまして、旧約から御言葉を受けることが出来ませんでした。それで、今日は旧約の続きである十戒の第九の戒から御言葉を受けたいと思います。
 第九の戒は、「あなたは隣人について偽証してはならない。」です。この戒は、教会学校などではしばしば「嘘をついてはならない。」と言い換えられることがあります。それは全くの間違いとは言いませんが、そのように単純に言い換えてしまいますと、本来この戒が持っている意図を十分に受け止めることは出来ないだろうと思います。
言葉の意味から言えば、この第九の戒めで言われている「偽証」は法廷用語であって、裁判で偽りの証言をすることです。私共は裁判というと、裁判官がいて、検事と弁護士がいて、被告がいる、そういう形を想像しますけれど、この十戒が与えられたのは三千年も前のことですから、現在のような裁判を想定しているものではありません。専門の検事や弁護士、また裁判官がいるわけではないのです。羊が盗まれたとか、食料がなくなったとか、村で何か問題が起きますと、村の出入口の所にある広場が裁判所になります。広場といっても、この礼拝堂よりも小さなものです。そして、村の長老が裁判官になって、村人が皆見ている前で裁判が行われるわけです。現在のように、警察が指紋を採ったりDNA鑑定したりということはない。ですから、裁判の中心は証言です。その時、偽りの証言がされますと、正しい裁きが出来なくなります。正しい裁きが出来なければ、得するなら悪いことをしてもいいということになってしまいますから、その共同体は崩れていってしまいます。共同体がきちんと保たれるためには、正しい裁きというものがどうしても必要なのです。
 ちなみに古代のイスラエルにおいて、成人の男子であるということは、@裁判の証言者となることが出来る、A税金を納めることが出来る、B兵役に就くことが出来るということでした。つまり、証言するということは、納税や兵役と並べて受け取られるほどに、共同体の一員として必ず果たさなければならない責任であり、とても大切な務めであったわけです。

2.裁判における証言についての規定
 この裁判について、律法は幾つもの規定を持っています。その幾つかを見てみましょう。 まず、出エジプト記23章1〜3節です。「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」とあります。また、6〜8節「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。わたしは悪人を、正しいとすることはない。あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は、目のあいている者の目を見えなくし、正しい人の言い分をゆがめるからである。」と言われています。悪人に加担して偽りの証言をするな、多数者に追随して偽りの証言をするな、弱い人を曲げてかばって偽りの証言をするな、賄賂を取るな、と言います。とても小さな共同体における裁判ですから、訴えている人のことも知っているし、訴えられている人のことも知っている。そうすると、色々な気持ちがそこに入ってしまうわけです。情も入ってしまう。しかし、その情に流されて証言すると、裁きが曲がってしまうということになります。それを戒めているわけです。そして、賄賂の禁止です。賄賂は必ず裁きを不正なものにしてしまうからです。私共の弱さを知り抜いた神様の知恵に満ちた戒めであると思います。
 また、申命記19章15〜17節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出なければならない。」とあります。一人の証人の証言だけでは証拠にならず、二人ないし三人の証言が必要であるとしていることも、偽証によって裁きが曲げられることを防ぐためです。ここでは更に、係争中の両者は「主の前に出る」「祭司と裁判人の前に出る」と言われています。これは、裁きは神様の御前で為されるものであることをしっかり弁えよと告げているのです。人の目はごまかせても、神様の目はごまかせない。神様の御前での裁きであるという理解が、神の民の倫理の根本にあるわけです。この「神の御前」ということが抜け落ちてしまいますと、人間は必ず「バレなければ良い」とか「どうやればごまかせるか」ということに知恵を使い始めます。それでは正しい裁きにはなりません。
 このように見てきますと、この第九の戒は、裁判という場面において偽りの証言をすることによって正義を曲げてしまう、そういうことを禁じている戒であるということが分かると思います。正義が曲げられた共同体、それは神の民にふさわしくない。神様は、そのような共同体を作るためにイスラエルをエジプトから救い出されたのではない。正義が行われる共同体を形作るために出エジプトが為されたということなのでしょう。富でもなく、力でもなく、神様の御心が支配する共同体、それを造るために神様は神の民を召し出されたのです。それは私共も同じです。私共がイエス様によって救われたのは、正義が為される共同体を形作るためです。神の民である教会においても、神様の御心が第一とされる共同体が、神の正義が現れる共同体が形成されていかなければならないのです。

3.隣人をおとしめる偽証、自分が得をする偽証
 では何故、人は偽証するのか。それはケースバイケースなのでしょうけれど、いくつかの理由が考えられるでしょう。第一には他人をおとしめるため、第二には自分が得するため、そして第三には自分や誰かを守るため。第一の他人をおとしめるためと第二の自分が得するためは、しばしば合体するでしょう。また、第三の自分や誰かを守るための偽証は、他人をおとしめるため、自分が得するためのものとは区別されなければならないと思います。
 まず、第一の他人をおとしめるためと第二の自分が得するための偽証がダメだということは、誰にでも分かるでしょう。ここで私共は、先ほどお読みいたしましたマタイによる福音書26章57〜68節に記されておりましたように、イエス様は、十字架に架けられる前の日、ユダヤの自治を任されていた最高法院において、偽りの証言を求める人々によって死刑と定められたということです。彼らは、十戒を百も承知の祭司長や律法学者たちでした。しかし、敢えて偽証を求めてまでイエス様を死刑にしようとしました。イエス様の十字架は、この第九の戒を破るというあり方で決められたということです。彼らはイエス様をおとしめるため、ねたみのために、偽りの証言をしました。それは、自分たちの立場、利益を守るためでもありました。私共は、この第九の戒を破ることは、イエス様を十字架に架けることを決めた人々と同じ罪を犯すことだということをしっかり心に刻まなければならないと思います。私共はイエス様に救われた者なのですから、私共が最もなってはならない人とは、イエス様を十字架に架けた人々でしょう。第九の戒を破れば、私共はそのような人になってしまうということです。

4.うわさ話との決別
 しかし、私共は第一の他人をおとしめるためと第二の自分が得するための偽証と無縁だと言えるかといえば、残念ながらそうとは言えない。確かに今の時代、わざわざ裁判所に出頭して、他人をおとしめるために、また自分の利益を得るために偽りの証言をする人はあまりいないでしょう。そもそも、裁判所の証言台に立つということ自体、人生の中で一度も経験しない人がほとんどだと思います。しかし、裁判所に於ける証言以外でなら、このような意図で偽りを言ってもいいのかと言えば、そうではないでしょう。
 まず私共がしっかり心に刻まなければならないこと、神様がここで私共に求めておられることは、神様の正義がなされる共同体を形作るということです。そしてそれは、偽りをもって隣人の名誉を傷付けない交わりということなのです。現代では裁判所に行かなくても、悪意のある偽りの情報をインターネットなどで流せばあっと言う間に広まって、その人の社会的立場を台無しにすることも出来ます。そのような文明の利器を用いなくても、うわさ一つでその人を傷付け、社会的に葬ることは出来ます。悪意に満ちたうわさ、それはいつでもテレビや週刊誌で垂れ流しになっています。そんな大きな事でなくても、うわさ話というものは、その人を痛めつけるのにとても大きな力を発揮するものです。
 例えば、こんなうわさを何人かで流したらどうでしょうか。「小堀牧師は不倫をしている。」或いは「小堀牧師は教会のお金をごまかして自分のものにしている。」そんなうわさを立てられたら、事実はどうであれ、一発レッドカードです。牧師として立っていくことは出来ません。もちろん、そんなことは起きないでしょうけれど、悪意のあるうわさというものは、時には刃物よりも人を傷付け、その人を社会的に葬ることが出来るものなのです。
 こんなに分かりやすいものではなくても、うわさ話は、神様の正義が現れる神の民であるキリストの教会においては、あってはならないものなのです。逆に言いますと、うわさ話というものが、その教会の霊的状態、霊的な質を表しているということでもありましょう。人が集まる所ではうわさ話は防ぎようがない。会社でも学校でも地域でもそうかもしれません。しかし、そのような社会のただ中にあって、キリストの教会はうわさ話というものと決別することによって、この教会の交わりが神の国を指し示す交わりであることを証しすることになるのではないかと思うのです。このうわさ話の中には、陰口、中傷、悪口、そういうものも含まれていることは言うまでもありません。

5.自分や隣り人を守るための偽りの証言
 では、第三の偽証、自分や隣り人を守るための偽りの証言ならいいのか。これも単純にそうだとは言えません。昨年から、国会で森友・加計学園の問題がずっと論議され、結論が少しも出ないわけです。ここで証人として立っている人たちは、自分を守る、或いは他人を守る、そういう嘘をついているのかもしれません。この場合、自分や他人を守るための偽りの証言だから、これはいいんだと言えるか。そう単純には言えないでしょう。神様の御前ということが明らかでない所、或いは神様の御前ということが分からない人にとっては、自分を守る、他人を守るといっても、一体自分の何を守るのか、隣り人の何を守るのか、それが少しも分からない。神様の正義を守るということは、自分のメンツや隣り人の社会的立場を守ることなどではないのです。
 自分を守る、隣り人を守る。それは、神様に造られた者としての命を含めた、人間としての尊厳を守るということです。自分や隣り人の、この世での立場を守るということでは全くありません。自分のメンツを守るために平気で嘘をつく人はいます。しかし、これが良い事であるはずがありません。
 しかし、神様に造られた者としての尊厳を守るための嘘というものはあり得るし、それは神の知恵と言っても良いものです。例えば、ヨシュア記2章にあるのは、ヨシュアによってエリコの町に遣わされた二人の斥候が見つかりそうになります。遊女ラハブはこれを匿い、「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、出て行きました。どこへ行ったのか分かりません。」と答えます。そして、二人を屋上に隠し、窓から綱でつり降ろして逃がしました。ラハブは嘘をついたには違いありません。けれど、これは知恵と言うべきものでしょう。少しも悪いことではありません。

6.真実を語る
 さて、次に私共がしっかり心に刻まなければならないことは、この第九の戒めが私共に求めていることは、神様の真実、愛、イエス様の御業について、私共はいつも真実を語る、偽りの証言をしてはならないということです。私共はイエス様の十字架と復活によって救われ、新しくされました。この救いの恵みの故に、今、生かされています。このことについて黙っていたり、自分には関係ないかのように嘘を言ってはならないということです。
 ここで私共はペトロを思い起こすことが出来るでしょう。ペトロはイエス様が捕らえられた時に三度、イエス様を「知らない」と否認しました。大変有名な話です。もちろん、これはペトロが嘘をついた、偽証したということです。私共は、この嘘・偽証がどれほどペトロを苦しめたかを知らなければなりません。勿論、復活されたイエス様は、そのようなペトロを赦し、再び弟子として召し出し、お遣わしになりました。そして、ペトロは、赦された者、新しくされた者として、イエス様の福音を生涯伝えていきました。しかし、ペトロにとってイエス様を三度「知らない」と言ってしまったあの出来事は、決して心から消えることはありませんでした。ペトロがイエス様を三度知らないと言った時、彼の周りには弟子たちはいなかったのですから、ペトロが黙っていれば誰にも分からなかったことでしょう。しかし、どの福音書にも記されている。それは、ペトロ自身がこの出来事を何度も語ったからです。ペトロにとってこの出来事は、自らの罪をはっきりと示すものでした。ペトロは赦されたけれど、この出来事が無かったことにはならなかった。ペトロは赦されたが故に、生涯二度とあのような、イエス様を知らないなどとは言うまい、そう心に深く刻んで生きたに違いありません。
 私共もペトロと同じように、神様なんて知らない、イエス様なんて知らない、そんな嘘と共に生きてはならないのです。それどころか、私共は神様の愛と真実を証しする者として立てられ、遣わされていく。この神様の恵みと愛と真実を証しし、主をほめたたえるために召し出され、立てられているのが私共なのです。
 私共は、ただ今から聖餐に与ります。洗礼が神様との契約式であるならば、この聖餐は契約更新式です。今朝私共は、「あなたは隣人について偽証してはならない。」との神様の契約の言葉をいただきました。この言葉を喜んで受け入れ、これに従う者として、ここから遣わされてまいりましょう。隣人の名誉を傷付けるようなうわさ話とは決別して、神様の恵みと真実を、黙ることなく、言葉と存在をもって証しする者として、ここから歩んでまいりたいと思うのです。

[2018年7月1日]

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