富山鹿島町教会

礼拝説教

「来たるべき方は、あなたですか」
イザヤ書 35章1〜10節
マタイによる福音書 11章1〜15節

小堀 康彦牧師

1.私共を招くイエス様の言葉
 私共はイエス様の語りかけを聞き、イエス様を拝み、イエス様との交わりに与るためにここに集っています。今も生きて働き給うイエス様と出会うこと、そしてイエス様を我が主・我が神として拝みまつること、それこそが私共のこの礼拝の意味であり目的です。
 今朝与えられている御言葉において、イエス様は、洗礼者ヨハネによって遣わされて来たヨハネの弟子たちに対して、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と告げられました。私共は、このイエス様の言葉を、私共に告げられている言葉として、今朝聞いています。イエス様につまずく人、それはイエス様を神様から遣わされた救い主、メシア、キリストであると受け入れることが出来ない人ということです。どうして、イエス様につまずかない人は幸いなのか。それは、イエス様を救い主、メシア、キリスト、神の子と信じ受け入れる人は、イエス様が与えてくださる救いに与ることが出来るからです。イエス様の救いに与ることが出来るかどうかは、イエス様を救い主として、神の御子として信じ受け入れるかどうか、この一点に懸かっているからです。イエス様は今朝、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と告げることによって、「わたしを信じなさい。わたしを神の子、救い主として受け入れなさい。そして、わたしの与える救いに与りなさい。」そう招いてくださっています。私共はこの招きに応え、「イエス様、あなたこそ私共の主、私共の王、私共の救い主です。」と告白し、イエス様をほめたたえる者としてここに集っています。

2.互いに誰であるかを知っていた洗礼者ヨハネとイエス様
 さて、どうしてイエス様はヨハネの弟子たちにこのように告げられたのでしょうか。この時洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、牢に入れられておりました。その経緯については、マタイによる福音書14章に記されております。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデが兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚することを、それは律法で許されていないと批判し、それで捕らえられていたのです。それまで洗礼者ヨハネは、ヨルダン川のほとりで神様の裁きを厳しく語り、人々に悔い改めを求め、洗礼を授けていました。
 洗礼者ヨハネが告げたことは、マタイによる福音書3章7節以下に記されています。ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と告げました。神様の厳しい裁きの時が近づいている。だから悔い改めよ。そう洗礼者ヨハネは告げていたのです。洗礼者ヨハネは、この厳しい裁きを行うために来られるのが救い主、メシア、キリストであると考えていたのだと思います。
 洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けた時、彼は「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」とイエス様に言い、イエス様こそ来たるべき方、救い主、キリストであると示しておりました。ヨハネによる福音書ではもっとはっきりと、イエス様が洗礼を受けられた時に「この方こそ神の子であると証しした」(ヨハネによる福音書1章34節)と記されています。つまり、洗礼者ヨハネは、イエス様が来たるべき神の子、救い主であることを知っていました。そして、神様の厳しい裁きが来るから悔い改めよと宣べ伝えていたのです。
 イエス様もまた、洗礼者ヨハネが御自分の前に神様から遣わされて道を整える者であることを知っておられました。それ故、マタイによる福音書4章12〜17節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。……そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とありますように、イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられると、宣教を開始されました。わたしの時が来たと理解されたからです。そして、洗礼者ヨハネが告げていた「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というメッセージを、そのまま受け継いで宣教を始められたのです。

3.揺れる洗礼者ヨハネ
 ところがこの時、洗礼者ヨハネはイエス様の所に弟子たちを送って、「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3節)と尋ねさせたのです。一体、洗礼者ヨハネに何が起きたのでしょうか。
 洗礼者ヨハネの中には二つの確信がありました。一つは、今まで預言者として語ってきたこと、生きてきたことです。「『神様の厳しい裁きが来る。悔い改めなければ滅びる。』このことを伝えるために自分は神様に召され、遣わされた。」というものです。この確信こそ、洗礼者ヨハネを預言者として立たせ、生かしているものでした。この確信の故に、彼は領主ヘロデの結婚に反対し、牢に入れられていたのです。そして、もう一つ。それは「イエス様が救い主、キリストである。」ということです。自分はイエス様の道備えとして人々に悔い改めを求めてきた。この二つの確信がヨハネの中にはありました。
 洗礼者ヨハネは、今までこの二つの確信によって生きてきましたし、牢の中にあってもこの二つの確信をもって生きていた。ところが、牢の中に聞こえてくるイエス様の行動は、大いなる力を用いて厳しい裁きを行っているというものではありませんでした。そこで洗礼者ヨハネの中に、この二つの確信に対する揺らぎが生じたのです。神様は厳しい裁きを為されないのか。その時はまだ来ないのか。或いは、イエス様はキリストではないのか。そのような揺らぎが生じたのでしょう。洗礼者ヨハネにしてみれば、神様の厳しい裁きがないとすれば、自分が今まで語ってきたことは何だったのか。自分は嘘を語ってきたのか。それは自分の預言者としての歩みのすべてを否定することになる。それは出来ない。その確信の故にヨハネは牢にまで入れられているのです。そこで、「イエス様は本当に救い主、キリストなのか。」そういう問いになったのではないかと思います。
 洗礼者ヨハネであっても揺れるのです。揺るがぬ信仰。それは素敵なものです。しかし、洗礼者ヨハネであっても揺れるのです。私共が揺れるのは当たり前なのでしょう。

4.御言葉と出来事によって正される信仰
 それに対してのイエス様の答えは、直接、「わたしはあなたが待っていた来たるべき者です。」とか、「わたしはキリストです。」というものではありませんでした。4節「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」とお答えになったのです。見聞きしていること。それは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(5節)というものでした。これは、マタイによる福音書の5章から9章までイエス様が語り、また為さったことをまとめたものと理解して良いでしょう。そして、これは同時に、イザヤ書26章19節、29章18節、35章5〜6節、42章7節などで預言されていた、神様によってもたらされる救いの御業の預言の成就でありました。イエス様はこのことによって、御自分が確かに預言者たちによって預言されていた来たるべき方、救い主、キリストであることを示されました。しかし、それは洗礼者ヨハネが考えていた救い主のイメージとは大きく違っておりました。
 イエス様はここで、洗礼者ヨハネに対して二つのことを問うたのだと思います。一つは、「あなたのイメージ、あなたの確信が正しいのか。それとも御言葉が正しいのか。」もう一つは、「あなたのイメージ、あなたの確信が正しいのか。それとも出来事が正しいのか。」ということです。そして、「それはあなたが判断し、決断しなければならないことだ。」だから「わたしにつまずかない人は幸いである。」とお告げになったのでしょう。
 私共もここで同じ問いの前に立たされます。私共もしばしば、神様が私を愛しているならばこうしてくれるはずだと思い込む。そして、そうならないと、神様は本当に私を愛してくださっているのだろうかと不安になる。イエス様の十字架が見えなくなる。しかし、神様は私共のイメージの中におられるのではありません。御言葉と御業をもって私共の上に臨まれるのです。私共には、その時には全く意味が分からないような出来事でも、しばらくすれば、「ああ、こういうことだったのか。」と分かる。そういうことは少なくありません。神様は生きて働かれるお方ですから、私共のイメージで捉えきることなど出来るはずがないのです。私共は、御言葉によって、出来事によって、いつも新しく神様・イエス様と出会っていくのでしょう。
 では、洗礼者ヨハネが語ったことは間違っているのでしょうか。そうではありません。ヨハネは神様から遣わされた預言者でした。確かに、厳しい裁き、決定的な裁きは行われるのです。しかしそれは、ヨハネが考えていたあり方とは少し違っておりました。神様の決定的に厳しい裁きは、イエス様の上に下されました。それが十字架です。イエス様は私共のために、私共に代わって徹底的な裁きを十字架の上でお受けになりました。そのことによって、罪にあえぐすべての人に救いをもたらされたのです。

5.ヨハネはエリヤ
 イエス様はヨハネの弟子たちが帰った後、群衆に向かってヨハネについて語りました。ヨハネがまことの預言者であり、救い主が来る前に遣わされることになっていた預言者であることをはっきり告げられました。7節b〜10節「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」10節の言葉はイザヤ書40章3節の言葉です。また、14節後半「実は、彼は現れるはずのエリヤである。」と言い、洗礼者ヨハネもまた、預言者たちによって告げられていた救い主が来る前に現れるエリヤであることをお告げになりました。これは旧約の最後のマラキ書3章23節にある「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」と預言されていたことの成就だとイエス様は言われたのです。
 エリヤは、紀元前8世紀に現れた、力の預言者です。彼が為したことは、列王記上17章以下に記されております。烏が運ぶパンと肉で養われたり、使っても尽きることのない小麦の壺や油の瓶を備えたり、死んだ子を生き返らせたり、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人とカルメル山で祈り合戦をしたりした人です。旧約における最も力ある預言者と考えられていました。このように見てまいりますと、イエス様がお語りになったこと、為された業は、旧約の預言の通りであったということが分かると思います。

6.偉大な父祖たち<洗礼者ヨハネ<私共
 イエス様は、ヨハネについて更にもう二つのことを言われています。11節です。一つは、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」もう一つは、「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」ここでイエス様は、洗礼者ヨハネはモーセやアブラハムやダビデよりも偉大だと言っているわけですが、それはヨハネ自身が、そのような旧約の偉大な父祖たちより力があるとか人格的に優れているという意味ではありません。そうではなくて、洗礼者ヨハネは、イエス様を救い主、キリストとして直接指し示すことが出来たし、そうした。それ故に、すべての預言者よりも偉大だと言われたのです。何故なら、旧約のすべての言葉、すべての預言者は、まことの神の子であるキリスト・イエスを指し示すためのものだったからです。アブラハムもモーセもダビデもイザヤもエリヤも、みんな来たるべきイエス様を指し示していました。しかし、直接イエス様を指し示すことが出来たのは、洗礼者ヨハネだけでした。だから、洗礼者ヨハネは最も偉大だとイエス様は言われたのです。
 しかしイエス様は、その洗礼者ヨハネでさえ、天の国で最も小さな者の方が彼より偉大だと言われた。それは、天の国に入れられた者は、イエス様が誰であり、イエス様の十字架と復活によって救われたということを知っているからです。残念ながら、洗礼者ヨハネはそこまでは知らなかった。だから、心が揺らいでしまったのです。
 私共は一人一人見れば、どう見ても、洗礼者ヨハネのように牢に入れられるまで神様の言葉に忠実であり、人々に厳しく悔い改めを求めることが出来るような者ではありません。しかし、私共は知っています。イエス様がまことの神であり、イエス様の十字架と復活によって一切の罪を赦され、永遠の命に生きる者とされているということを。そして、主の日の度毎にここに集って、イエス様を我が主・我が神として拝み、イエス様の救いに与っています。私共は既に天の国に生き始めています。私共は天の国の最も小さな者の中でも、さらに最も小さな者です。私共の中に誇るべき所などどこにもありません。にもかかわらず、私共は洗礼者ヨハネよりも偉大だと、イエス様は告げてくださっています。なぜなら、あなたは既に天の国に生き始めているのだから。何とありがたいことでしょう。何ともったいない言葉でありましょう。

7.K・T兄の葬式を行って
 先週、私共はここでK・T兄の葬式を行いました。K・T兄は1960年に32歳でこの教会の長老になり、2000年まで、72歳になるまで40年間、この教会の長老として歩まれた方です。入院される直前まで、今年の4月22日(日)の礼拝まで、休むことなく主の日の礼拝と聖書を学び祈る会に出席されていました。大きな怪我をされたこともありました。大きな手術を受けられたこともありました。しかし、イエス様を我が主・我が神として歩み通されました。「わたしにつまずかない人は幸いである。」と告げられたイエス様の幸いに生きた方です。そして、ヨハネより偉大な者として天の国に召されました。ある牧師が、K・T兄の逝去を知ってこんなメールをくださいました。「愛する方を失い、寂しいことですね。しかし、天の軍勢にまた一人加わりましたね。」本当にそうだと思いました。

 私共は今から聖餐に与ります。イエス様の体と血に与る、イエス様の命に与り、イエス様御自身と一つにされるのです。この恵みをヨハネは知りませんでした。私共はイエス様と一つにされる恵みに与る者とされている。その恵みに与るために、今日もここに集っているのです。この恵みは天の国に至る恵みです。いや、天の国がここに突入して来ているのです。このイエス様との命の交わりを与えられている者として、この一週もまた、遣わされている場において、健やかに御国に向かっての歩みを為してまいりましょう。

[2018年6月3日]

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