1.御国を目指して歩むキリスト者
主の日の度に私共はここに集い、父と子と聖霊なる神様に礼拝を捧げております。この礼拝において、私共は自分が何者であり、どこに向かって歩んでいる者であるかということを新しく心に刻みます。私共は、日々の生活の中でしばしばそのことを忘れてしまいます。ですから、主の日の度毎にここに集い、私共は自分が何者であるか、どこに向かって歩んでいる者なのかを思い起こし、新しい一週の歩みをここから初めていくのです。
私共は何者なのか。私共は、神様に造られ、神様に愛され、御子イエス・キリストの十字架によって一切の罪を赦され、神の子・神の僕とされた者です。一言で言えば、キリスト者です。キリストのものとされた私共は、イエス様が再び来られる日を待ち望みつつ、復活の命、永遠の命に与る者として、御国を目指して歩んでいきます。つまり、私共は御国を目指して歩むキリスト者なのです。これが、若者から年老いた者に至るまで少しも変わることのない、私共の本当の姿です。
私共の社会的な立場や置かれている状況は千差万別です。年齢と共に変わっていくということもありましょう。学生だった者が社会人になり、結婚をして家庭を持てば夫や妻、またお父さん・お母さんにもなります。更に歳を重ねれば、おじいさん・おばあさんにもなります。年金生活者ということにもなるでしょう。しかし、どのように社会的な立場が変わり、置かれている状況が違っていっても、私共がキリスト者であり、御国を目指して歩む者であるということは少しも変わることはありません。私共はそれぞれ遣わされた場において、キリスト者として生きていくわけです。
2.わたしの仲間であると言い表す
そのような私共の姿、私共のありようを、今朝与えられた御言葉においてイエス様はこう言われました。32節「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」、38節「自分の十字架を担ってわたしに従」う者。
ここで「言い表す」と訳されているのは、「ホモロゲオー」という言葉です。これは、「ホモ:同じ」+「ロゴス:言葉」から生まれた言葉で、同じことを言うという意味から「信仰告白する」という意味でも使われる大切な言葉です。イエス様の仲間であると言い表すとは、まさに信仰告白することなのです。信仰告白は、自分の心の中だけでひっそりとこっそりと行われることではなくて、「人々の前で」行われるものであり、それは「天の父の前で」為されることです。イエス様を信じること、キリスト者となること、それは洗礼を受けるということですけれど、洗礼式は公の礼拝の中で執行されます。公の礼拝というのは主の日の礼拝のことですけれど、この礼拝には誰が来ても良いのです。閉じられた場ではありません。洗礼は、人目の無い所でこっそり為されることではないということです。例外的に緊急洗礼というものがあって、これは入院している病院の病室や自宅で行われることがあります。しかし、その時も何人かの証人が立ち会うことになっています。誰も知らない所で為される洗礼はありません。
私共の信仰は、いつでもどこでも誰に対しても明らかにされるものです。もちろん、聞かれてもいないのに、初めて会った人に「私はキリスト者です。」と言うのは変でしょう。勿論、そんなことをしなければならないということではありません。しかし、私共がキリスト者であるということは、余程隠そうとしない限り、周りの人には明らかになってしまうものです。主の日の度に教会に集っていれば、近所の人だって、見ていて分かるでしょう。食前の祈りをしていれば、学校でも職場でも、何をしているのかと聞かれるでしょう。祈っていると答えれば、「へーっ!」という反応を示されるかもしれませんけれど、キリスト者であることは明らかになってしまう。それで良いし、信仰とはそういうものです。隠しておくことなんて出来ません。
そのように、この世で生きていく上で、私共は自らがキリスト者であることは隠しようがないことなのですけれど、それは単に人前で信仰が明らかになるだけではなくて、その姿をイエス様もまた見ておられるということなのです。私共は、自らの信仰の歩みが人にどう見られているかということを気にすることがあるかもしれませんけれど、それ以上に大切なことは、イエス様が見ておられるということです。そしてイエス様は、私共が父なる神様の御前に立つ時、それは裁きの場でありましょうが、私共がキリスト者としてきちんと歩んだのならば、その時にイエス様は私共を仲間だと言ってくださるし、そうでないのならば、知らないと言うというのです。父なる神様の御前でイエス様の仲間だと言われるということは、イエス様の命、復活の命に与るということ、永遠の救いに入れられるということです。逆に、イエス様に知らないと言われるということは、永遠の滅びに定められるということです。私共はこの審判の時、永遠の救い、永遠の命、復活の命に与ることを希望として、その日を待ち望んで生きていく。それは、私共がいつでも、どこでも、誰に対しても、キリスト者として生きていくということなのです。
ここではっきりしておかなければならないことは、私共がキリスト者であるということは、自分の主義主張、生き方、信念といったものではなくて、命の問題だということです。この肉体の命を超えた永遠の命、まことの命の問題、イエス様との関係・神様との関係の問題だということです。もちろん信仰は、生き方や信念といったものを、私共に与えもするでしょう。しかし、信仰はそれと同じではありません。信仰からは、色々な生き方や信念というものが生じます。私共が生きているこの社会との関わりについて、キリスト者ならこう考えるはずだ、もっと具体的に言えばこういう政策や政党を支持するはずだということになるでしょうけれど、そんなことは全く言えません。これについては実に多様です。それで良いのです。しかし、神様との関係・イエス様との関係、そこには全く多様性はありません。イエス様は私の主、私はイエス様の僕、イエス様の十字架の血によって一切の罪を贖っていただいた。復活の命、永遠の命に与る者としていだだいた。ここに多様性などありません。そして、ここに私共の命が懸かっています。この神様・イエス様との関わりに私の命が懸かっている。このことを弁えた者として生きる。それが、私共の歩みなのです。
3.家族超えて第一とすべきお方
私共が、自分の命が懸かっているのはこの信仰の一点においてです、神様・イエス様との関わりにおいてです、このことを弁えませんと、「人々の前で」信仰を言い表すことをためらうということが起きてしまいます。「人々の前で」ということは、この世の生活の中でということです。その最たるものが家族でしょう。家族というものは、神様が私共に与えてくださった素晴らしい恵みの一つです。しかし、この家族が、神様・イエス様との関わりよりも大切になってしまう。そういたしますと、私共は神様との関係において道を誤ってしまうことになってしまいます。
34〜37節「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」このイエス様の言葉は、どう理解したら良いのか、少なからず戸惑ってしまうでしょう。この御言葉を一読して、その通りと思う人がどれだけいるでしょうか。イエス様は平和の主ではないのか。剣をもたらすために来たとはどういうことなのか。自分の家族が敵になるとはどういうことか。信仰が与えられたら、麗しい家族が形作られていくのではないのか。信仰の故に家族が敵対しバラバラになるのなら、そんな信仰は要らない。そんな思いを抱く方もいると思います。
何度でも申しますが、聖書は家族なんてどうでもいいなどとは言っていません。アダムとエバは結婚し、子が与えられました。十戒の第五の戒は「父と母を敬え。」です。家族は大切。そんなことは言うまでもないことなのです。しかし、この麗しい家族によって私共の命が与えられるのではない。そのことを見誤ってはならない。イエス様はここで、そのことを言おうとしておられるのです。神様・イエス様を第一とする。ここに私共の命が懸かっているということです。家族もまた、神様が与えてくださったものです。その順序を逆にしてはならないということです。
家族は本当に良いものです。しかしそうであるが故に、そこには神様を抜きにして幸いを得ようとする誘惑もまた生じやすいのです。私共がイエス様を知る前にしていた祈りは、「家内安全・商売繁盛」だったでしょう。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」なんて祈りはありませんでした。家族が皆仲良く暮らせれば、贅沢をしなくても何とか生活していていければ、それ以上何を望むことがあろう。そう思っていた私共でした。それが39節の「自分の命を得ようとする者」ということなのでしょう。神様抜きの命、神様抜きの幸い、それで本当に良いのかということです。イエス様は、そうではないと言われるのです。家族以上に大切なものがある。それが神様との関係・イエス様との関係です。神様の愛、イエス様の愛です。この愛によって、イエス様というお方を通して私共に与えられたまことの命、永遠の命です。
こう言っても良いでしょう。家族は麗しいものですけれど、また、もろいものでもあります。自分の家族は何の問題も無い。まことに麗しい。愛の交わりそのものだ。そう言い切れる家族がどれほどあるでしょうか。親子が、兄弟が、夫婦が、なかなか麗しい愛の交わりにならない。それが私共の現実でもあるでしょう。アダムとエバに与えられた二人の息子、カインとアベル。兄カインは弟アベルを殺してしまうのです。これが、神様との関係が崩れたアダムとエバの家庭に起きた現実だと聖書は言います。そして、これが私共が直面している現実でもあるのでしょう。家族は放って置いても麗しいものとなる。それは幻想です。しかし、イエス様が来られた。罪の赦しを与えてくださり、新しい愛の交わりを形作る道を備えてくださった。神様を第一とすることによって、家族もまた新しくなるのです。
家族を第一とするか、神を第一とするか。目に見えるこの世の命、自分の命を第一とするか、イエス様の命に与ることを第一とするか。そこには対立が起きるのです。そして、イエス様は37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われた。イエス様は単に「父や母を愛する者」「息子や娘を愛する者」と言われたのではありません。「わたしよりも父や母を愛する者」「わたしよりも息子や娘を愛する者」です。それは「わたしにふさわしくない」のだと言われたのです。家族を愛する。それは自然なことです。しかし私共に与えられる救いの恵み、命の恵みは、自然を超えた恵みです。神の子とされ永遠の命に与るという救い。これは自然に与えられるものではないし、自然の中にあるものでもありません。これは、実に驚くべき恵みです。この驚くべき恵み、まことの命に与る者へと召し出された私共です。イエス様は、この恵みにしっかりとどまりなさいと、今朝も私共に語りかけてくださっているのです。
4.自分の十字架を担う
「自分の十字架を担う」とは、このように神様を第一とする歩み、イエス様を第一とする歩みを為す上で、私共はどうしても担わなければならないものがあるということなのです。これは「自分の十字架」ですから、各々担っている十字架は同じではありません。皆違っています。他の人と比較するものではありません。私はこうしたのだから、あなたもこうしなさい。そんな風に言われることでもありません。
十字架を担うということは、大変なこと、重荷を担うということです。少しも大変じゃない。苦しくもない。それは十字架ではないでしょう。しかし、この自分の十字架は、それを担うことによって自分が倒れてしまう、そういうものではありません。そうではなくて、この十字架を担うことによって私共の歩みはキリスト者としてしっかりしたもの、はっきりしたものになる、そういうものです。神様は、私共が担うことが出来ないものまで担わせようとはなさいません。大切なことは、この自分の十字架は神様第一、イエス様第一とする中でどうしても担わねばならないものだということです。
神様第一、イエス様第一とする中で、神様が私共にこれを担うようにと促されるのです。そして私共は、この神様の促しに応えて、それを為していこうと決めるのです。私の十字架というものは、それを担うようにとの神様からの促し、召し、召命があるということです。それは教会の御用に仕えるということもあるでしょう。地域や家庭において仕えるということもあるでしょう。介護も、神様の召しとして受け止めるならば、それもまた私の十字架ということになるでしょう。私共は、自分が置かれている状況の中で、神様の召しを受けて、自分の十字架を担っていくのです。その歩みこそが、人々の前でイエス様への信仰を告白していくことなのです。
5.水一杯でも
さて、そのような私共の歩みを見て、「大変だね。」と言って水一杯でも飲ませてくれる人がいたら、その人は私共と同じ報いを受けるとイエス様は言われました。私共は、神様第一、イエス様第一として歩む中で、「何やってんだか。」と馬鹿にする人もいるでしょう。イエス様に従う者はいつでも世の人々に喜んで受け入れられるわけではないということを、イエス様は繰り返し語られました。しかし、そういう人ばかりではない。神様第一、イエス様第一として生きて、与えられた場で自分の十字架を担って歩む中で、心に寄り添ってくれて、水一杯でも飲ませてくれる、助けてくれる、励ましてくれる、そういう人もいる。イエス様は、そういう人のことも神様は見ておられ、そういう人にも必ず報いてくださると言われるのです。それは、私共が神様第一、イエス様第一とする歩みは、私共と出会う人々に神様の報い、神様の救い、神様の愛に与る機会を与えることにもなっているのだということでしょう。またこのことは、イエス様の福音は、私共が水一杯を与えてもらうほどに小さくなる在り方の中で、周りの人々に伝わっていくということなのではないかと思います。42節にある「この小さな者」という言葉は、「ミクロン」という言葉です。1000分の1ミリメートルを表す、あのミクロンです。本当に小さな、取るに足りない私共です。私共が、上から偉そうに「神とは」「救いとは」そんな風に語っても、誰も聞いてくれないかもしれない。しかし、小さな者として、人に仕え神様に仕えていく歩みの中で、福音は伝わっていくということなのでしょう。
この主の日の礼拝に集うために家の人が車で送ってくれる、そういう人が何人もいます。きっと送ってくれる人はそんな風には思っていないでしょうけれど、神様はその人のことも見ておられ、私共と同じ報いを備えてくださっているのです。私共はそのような、いと小さきキリストの使者として生かされているということです。いと小さきキリストの使者であるが故に、人々に福音を携えていけるのです。ですから、自らの小ささを嘆くのではなくて、それぞれが出来ることを出来るように、神様から召された者として、各々の十字架を担って、与えられた所においてこの一週もまた、御国に向かって歩んでまいりたいと思うのです。
[2018年5月13日]
へもどる。