富山鹿島町教会

礼拝説教

「姦淫するな」
出エジプト記 20章14節
ヨハネによる福音書 8章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.偶像礼拝と姦淫
 今朝与えられている御言葉は、十戒の第七の戒です。十戒は、神の民として生きるとはどういうことなのか、それを神様がモーセを通して教えてくださったものです。ここには神様に愛され、神様を愛する者として生きる者の姿が示されています。十戒の前半は神様との関係、後半は人間との関係が告げられています。これは、前半の神様との関係が正しく築かれる中で、後半の人間との関係もきちんと形作られるようになるということを示しています。前半と後半は別々のことではなくて、ひとつながりのことです。それが最も明らかに示されているのが、今朝与えられている第七の戒「姦淫してはならない。」です。
 姦淫とは、結婚している以外の人と肉体的関係を持ってしまうことですが、それは神様以外のものを神としてしまう、偶像礼拝をしてしまうということと同じなのだと聖書は言います。元のへブル語では、姦淫するという言葉と偶像礼拝をするという言葉は同じ言葉です。私共は、自分を造り、自分を導き、自分を救ってくださるただ独りの神様を神とするということを、第一の戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」、第二の戒「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。」によって示されました。神様との一対一の愛の交わり、裏切ることのない真実な交わりに生きる。そして、その深い確かな愛の交わりを人間との関係においても形作るようにと聖書は告げています。何故なら、そこにこそ、まことに幸いな関係が生まれるからです。神様に造られた人間の幸いが、そこにおいてこそ実現するからです。それが夫婦という関係なのです。そして、そのまことに幸いな、神様の祝福に満ちた関係を破ってしまうのが姦淫です。だから、姦淫してはならないのです。

2.日本の宗教・文化土壌の中で
 十戒は、「殺してはならない」の次に「姦淫してはならない」と告げます。「盗んではならない」より前に「姦淫してはならない」があります。しかし、日本人の感覚としては「殺してはならない」が人間関係の初めに来るのは当然として、次に来るのは「盗んではならない」なのではないかと思うかもしれません。ところが、十戒は「姦淫してはならない」なのです。求道者の方に、洗礼を受ける前に十戒を覚えてもらうということがあります。その時、何故か多くの方が順番を間違えて覚えしまう。「姦淫してはならない」と「盗んではならない」の順番を逆にして覚えてしまうのです。それは、日本人は正直な所、姦淫をそれほど悪いものだとは思っていないからなのではないか思います。この感覚のずれ、感覚のギャップはなかなか埋められないところがあるかもしれません。
 多分、その根っこには、日本古来の自然宗教としての多神教というものがあるのだろうと私は思っています。ただ独りの神様を愛し、信頼し、この方と共に生きるという聖書の信仰が示す人間の有り様は、この人だけを愛し、この人と共に生きるという人間を造ることになります。それが愛だからです。しかし、その時々に自分の都合の良い神様を拝むというあり方は、結局の所、自分本位、自分の好み、自分の損得でしか人との関係を持つことが出来ないし、それで良いと思っている。しかし、それでは愛は分かりません。基準がどこまでいっても自分であり、もっと言えば、自分の欲だからです。
 姦淫はこの自分の欲と直結しています。この欲を野放しにしては、人間は幸いになれない。もちろん、性欲そのものは神様が与えられたものですから良いものです。しかし、それをコントロールすることも人間が幸いになるためには必要であり、大切なことなのです。ですから、神様はこの第七の戒を与えられたのです。この戒の基本には、人間がどういう者として造られたのかということがあります。それを見てみましょう。

3.人間を造られた神様の意図から
 創世記の1〜2章には、神様が人間をどのようなものとして造られたかが記されています。創世記1章27〜28節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」とあります。人間は神様にかたどって造られました。これは、愛の神であられる父・子・聖霊なる神様が、その愛の交わりを形作る者として人間を造られたということを意味しています。そして、愛の交わりを形作る者として神様にかたどって造られた人間は、男と女に造られたのです。この男と女の交わりは、愛を形作るために神様によって与えられたのです。そして、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。』」とありますように、人間を男と女に造られた神様は、男と女の性的交わりによって子が与えられるという祝福を与えられました。実に、「産めよ、増えよ」とは神様の祝福なのです。子が与えられるということは、人間の性欲のはけ口の結果などではありません。神様の祝福です。人間の男と女の性的関係は、この神様の祝福の下に与えられているものなのであり、実に麗しいものなのです。
 そして、創世記2章18節には「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言って主は男のあばら骨から女を造った、と記されています。これは、男と女という存在が本来一つである。男と女が一つとなることによって本来の人間となる。愛の交わりを形作るという、神様の創造の意図が完成する。そういうことを意味しているのでしょう。「彼に合う助ける者」というのは、男と女の関係において男が主であり、女が従であるということではありません。互いに相対して、助け合う存在であるということです。ですから、24節で「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と言われています。夫婦という関係は、実に夫と妻が互いに自分の体の一部となる、結ばれて一体となる、そういうものなのだということです。
 この夫婦という、アダムとエバから始まった関係は、一対一の関係です。アダムは何人もの女性からエバを選んだのではありません。エバ、エマ、エビ、エブ、エボの中からエバを選んだのではないのです。たった一人のエバと結ばれたのです。それが結婚というものです。結婚の関係においては、相手を他の異性と比較してどうのこうのということはありません。お互いに、この人しかいない、そういう所で育まれていく関係です。そして、そこで男と女は一体とされ、子が与えられる。それは神様の祝福によって与えられる、まことに幸いなことなのです。その幸いを破るのが姦淫です。

4.この戒めを守れる人はいない
 イエス様はこの第七の戒について、こう言われました。マタイによる福音書5章27〜30節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」大変厳しい言葉です。こんな風に言われたら、姦淫の罪を犯していないと言える人はいなくなってしまうでしょう。私が洗礼を受けたのは20歳の時でしたけれど、このイエス様の言葉に、私の心は苦悶するしかありませんでした。自分の内側から突き上げてくる性の衝動を、無いことにするなど出来るはずもないことだったからです。自分はどうしようもない罪人だと思いました。そして、どうすればいいのかと途方に暮れました。
 そうなのです。この第七の戒は、誰をも「自分は罪など犯していない。」などと言えなくしてしまうものです。だから、この戒めは他の人を裁くために用いるものではなくて、自らの罪を知らされ、私共を罪人として神様の御前に立たせるものなのです。私共は、自分のことは棚に上げて、人を平気で批判します。その道具としてこの第七の戒が用いられるということさえしばしば起きます。しかし、この性の問題というものは、イエス様が指摘されたように、自分の心の中を覗いてみれば、「私はこの戒を犯していない。」と言い張れる人はいない。しかし、だからといって、「どうせみんな同じじゃないか。」と開き直るのは間違っています。そうではなくて、自らの罪を知り、自分の中に潜んでいる欲を暴走させないように治める。そのために神様に助けを求める。それが私共に求められていることなのでしょう。

5.青年伝道と性
 先週の月曜日、今私が責任を持っている教団の宣教研究所が主催するシンポジウムが開かれ、全国から数十名の牧師たちが集まりました。テーマは「青年と性〜キリスト教倫理の立場から」というものでした。二人の講師が立てられました。二人の講師は、現代の青年が性の問題において、いかに危機的状況に置かれているかを、データをもって示してくださり、教会は何を語れるのか、語らねばならないのかということをお話しくださいました。
性の問題は極めてデリケートな問題であり、プライベートな問題ですから、大切なことではあるけれども、正直な所、なかなか扱うことが出来ません。私も洗礼を受けて以来、牧師からこのテーマの話をまとまって聞いたことはありません。本当に難しい問題です。しかし、キリスト者が生きていく上で、この問題を避けることは出来ません。特に青年にとってこの問題は、とても大きな問題です。もちろん、青年だけではありません。いつの時代でもこの話題でマスコミが騒ぐように、大人の問題でもあります。学歴や社会的地位と関係なく起きます。
 お二人の先生は現状をこう言われます。ここ30年くらいの間に、性に関する情報は青年たちの周りにあふれるようになりました。そして、性的関係を持つということについての常識が大きく変わった。その人と結婚するかどうか分からないけれど、結婚する前に性的関係を持つということが当たり前のことになりました。子どもが出来たので結婚ということも少しも珍しくなくなりました。結婚式の前に既に一緒に住んでいるということも当たり前になっています。そして、学校で教えることは、子どもの出来ないような仕方でセックスをしなさい、その方法はこういうものです、というようなことだそうです。子どもが出来なければいいのでしょうか。
 二人の講師が言われていたのは、生き方としての性ということでした。命を大切にするということ、命が与えられるということ、それに対しての責任、そして結婚する人に対しての誠実ということでした。結婚して、そして子が与えられることを喜ぶことが出来る。そういう神様の祝福としてのセックスをしなさいということでした。多分、このように言うだけでは、青年は「何を言っているんだか。」という反応をするだけかもしれません。それは、あまりにも現代の日本に生きる青年たちの常識とかけ離れているからです。しかし、キリスト教倫理としてはそういうことになるし、それを説得力ある言葉としてどう伝えていくか、それは牧師の責任、教会の責任だということです。
 そこに来ていた人たちの反応は二通りでした。一つは、「今頃まだそんなことを言っているのか。」という人と、もう一つは、「よくぞ言ってくれた。」という人です。しかし、どちらにしても、「神様の御前に生きる者の課題として、この性の問題は正面に据えなければならない。」ということは受け止めてもらえたのではないかと思います。
 しかし、日頃の教会学校や青年会の中でこれを扱うのは難しいでしょう。誰にも見せたくない、心の奥底にある問題ですから、そんなに簡単に人前にさらすことなどできません。でも、外部講師や教会グループによる青年修養会やキャンプなどでなら、ちゃんと取り上げることが出来るのではないかということで、これは現実的な知恵として参考になると思いました。

6.赦しの中で
 さて聖書には、この問題で罪を犯してしまった人として、ダビデとバト・シェバのことがサムエル記下11章に記されています。ダビデは王宮の屋上から、女性が水を浴びているのを見ます。その女性は大層美しかったので、ダビデは召し入れて、床を共にします。彼女は子を宿します。この女性バト・シェバの夫はウリヤという軍人でした。ウリヤは前線に出ていました。ダビデはウリヤを前線から呼び戻し、家に帰らせ妻と床を共にするよう促しますが、ウリヤはそれを拒みます。皆が戦っているのに自分だけ家に帰って楽しむことなど出来ないと言うのです。立派な軍人でした。しかし、それでは妻バト・シェバが子を宿したことのアリバイが作れません。そこでダビデはウリヤを激しい戦いの最前線に送り、戦死させたのです。ダビデはとんでもないことをしたわけです。「姦淫するな」の罪を犯し、「殺すな」の罪まで犯したのです。セクハラ、パワハラの極みです。ダビデは大変な罪を犯しました。ところが、ダビデはそれが分からない。自らの罪を認識出来ないのです。罪に染まり、罪に飲み込まれるとはそういうことなのでしょう。そこで神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデが犯した罪がどれほどのものであるかということを指摘し、叱責します。そうしてやっとダビデは自らの罪を知り、悔い改めます。その時に詠んだ歌が詩編51編です。
 ダビデの犯した罪は大きな大きなものでした。しかし、赦しがあるのです。この赦しの中でダビデは立ち直っていきます。このダビデとバト・シェバの間に生まれた子がソロモンです。
 聖書は、この性における罪、姦淫の罪を無かったことにはしません。しかし、それも赦しの中にあることをはっきり告げます。それが更にはっきり告げられているのが、先ほどお読みいたしましたヨハネによる福音書8章の出来事です。
 律法学者たちやファリサイ派の人々によって姦通の現場で捕らえられた女性がイエス様の前に連れて来られます。相手の男性はどこに行ってしまったのでしょうか。多分、逃げたのでしょう。この女性を連れて来た人々は、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」とまるで鬼の首を取ったように、イエス様に問います。私はこの箇所を読むと、この手の問題でマスコミが偉そうに一人の人を叩いている場面と重なります。自分のことを棚に上げて、他人を糾弾する。しかし、この問題で自分は全く罪を犯していない、清廉潔白だと言い張れる人など一人もいません。イエス様は地面に何かを書き始めます。何を書いていたのか分かりません。きっと、あられもない姿をしたこの女性を辱めないように、女性を見ないようにしておられたのではないかと思います。しつこく問い続けられて、イエス様は言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」このイエス様の一言を聞いて、この女性を石で打とうとしていた人たちは、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエス様とこの女性だけになりました。イエス様は尋ねます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女性が「主よ、だれも。」と言うと、イエス様は言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエス様は、この女性が犯した罪を大したことではないと言われたのではありません。これが十戒違反の石打ちの刑に当たるものであることを弁えた上で、この女性を赦された。そして、「これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げられた。悔い改めて、新しく生きる道を与えられたのです。イエス様は、この女性の罪の裁きを自らの十字架によって引き受ける、そのことをもってこの言葉を告げられたのでしょう。

7.結び
 私共は、この女性と同じように罪を犯すかもしれません。しかし、イエス様の赦しの中で新しく歩み出していくのです。イエス様の赦しが与えられている者として、この戒めに生きていく。赦しを知っている者として、この問題で悩んでいる人たちと関わっていく。そして、この戒に生きる所にこそ、人間としての成熟があり、まことの幸いがあるということを確信して歩むのです。この戒に生きるように招かれている幸いを、心から感謝したいと思います。

[2018年4月22日]

メッセージ へもどる。