富山鹿島町教会

礼拝説教

「私のための十字架」
詩編 22編2〜32節
マタイによる福音書 27章45〜56節

小堀 康彦牧師

1.受難週を迎えて
 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火曜日から金曜日まで毎日、午前と夜に受難週祈祷会を守ります。信徒の方の証し、奨励もあります。イエス様が私のために苦しみを受け、十字架にお架かりになり、一切の罪の贖いとなってくださったことを心に刻み、喜びのイースターを迎えたいと思っています。ぜひ、皆さん奮ってご参加ください。

2.イエス様の十字架の姿
 今朝与えられております御言葉は、イエス様が十字架に架けられて息を引き取る場面です。神の御子が十字架に架けられて死ぬ。しかも、その死に際して「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた。私共は十字架の上で息を引き取るイエス様の御姿を、今、霊の眼差しをもってしっかり見なければなりません。十字架に架けられたイエス様の右と左の手は釘を打たれ、血が流れている。足もまた、釘を打たれ血が流れている。頭には茨の冠が載せられ、子どもの小指ほどもある堅い茨のとげは頭に刺さり、そこからも血が流れている。イエス様が十字架に架けられたのは、マルコによる福音書によれば朝の九時、それから六時間イエス様は十字架の上で苦しみ続け、午後三時に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれ、そして息を引き取られました。

3.私のためのイエス様の十字架
 イエス様の十字架は処刑です。たまたま起きた事故や自然死ではない。こんな奴は死んだ方がいい。死ななければならない。そう皆で決めて執行された、公の処刑です。数人が腹いせに行ったリンチ(私刑)ではありません。群衆も祭司長も大祭司も律法学者たちもそして総督ピラトも、みんなで決めて、イエス様を十字架という死刑に処した。イエス様は死刑に当たるような罪など何一つ犯していないのに、十字架に架けられた。今の言葉で言えば、全くの冤罪です。この時イエス様は、裁判の時から十字架に架けられて息を引き取るまでずっと、この不当な処刑に対して何も言われませんでした。「わたしをこんな目に遭わせて、このままで済むと思うな。」などの、恨みや呪いの言葉は一切口にせずに死んで行かれました。イエス様の十字架の死は、何から何まで異様です。神の御子であるイエス様が、何故こんな不当な十字架という処刑を甘んじて受けられたのか。イエス様ほどの力があれば、十字架から降りることが出来たでしょう。そもそも、捕らえられる前に逃げることも出来たでしょうし、御自分をメシアと信じる群衆の先頭に立ってローマと戦うことも出来たでしょう。しかし、そうはされなかった。一体、このように人間の手によって処刑される者が本当に神の子なのか。
 聖書は、イエス様がすべてを承知の上で、捕らえられ、裁判を受け、十字架に架けられたことを記しています。何故。理由ははっきりしています。神様に敵対し、神様無しで生きられる、生きていると思い違いをしている私のために、私に代わって神様の裁きをその身に受けるためです。イエス様の十字架は私のためでした。私の一切の罪が赦され、神様を父と呼べる者、神の子とされ、私が救われるためでした。イエス様の十字架の苦しみと死は、私のためでした。この「私のため」という一点を抜きにしてしまえば、イエス様の十字架は全く無意味なものになります。イエス様の苦しみも死も、いったい何であったのかさっぱり分からないことになります。イエス様は私のために、私が救われるために、私が神の子とされるために、私に代わって十字架にお架かりになった。この一点に立つ時、イエス様の十字架は、私にとって生きる力と勇気を与えるものとなります。私の人生、私の命のすべてを照らす光の源となります。イエス様の十字架の姿は、光とはほど遠い、ただただ悲惨なものです。むごたらしいものです。誰も死にゆく者の姿など見たくない。目を背けたい。しかし、その死が私のためであるなら、話は別でしょう。だから、キリストの教会はこの十字架を見上げ続けた。私共もそうです。イエス様の十字架の死が私のため、私が生きるため、私が神様から赦されるためだった。だから、イエス様の十字架の姿を忘れることが出来ないのです。

4.誰かの死によって与えられた命
 私は五人兄弟の末子として生まれました。長女の下に四人の男です。戸籍上は四男です。でも、実際には三男として生まれ、育ちました。それは、私のすぐ上の兄が、私が生まれる前に死んだからです。当時、台風などで大雨が降ると疫痢が流行りました。私の家は薬局で、父は自分の子のために疫痢の薬を一つだけ決して売らずに取って置いたそうです。しかし、父の友人の子が疫痢になり、その子の両親が来て、薬を売ってくれと言いました。父は「もう全部売れてしまって品切れだ。一つも残っていない。」と断ったそうです。しかし、その人は「そんなはずはない。自分の子のために取ってあるだろう。それを売ってくれ。頼むから売ってくれ。」そう言って泣かれて、我が子のためにとっておいた薬を売ってしまいました。その次の日、三番目の兄トシノリが疫痢にかかり、薬が無く、あっという間に死んでしまった。そして、私が生まれました。今度は健康に育って欲しいということで、健康の康を取り、父:武比古、長男:博彦、次男:邦彦だったのに、トシノリだけが彦の字を付けていなかったので彦を付け、康彦と名付けられました。私は小さい時からこの話を父に聞かされて育ちました。自分の命はトシノリ兄ちゃんが死んだから与えられた。そう思って育ちました。そして、「だから、ちゃんと生きなければいけない。」そんな風に思っていました。
 誰かが死ぬことによって、自分の命が助けられた、与えられたと思う人は、自分の命を粗末にすることは出来ません。皆さんの中にも、あの人の死があって自分の命がある、そう思っている方がいるのではないでしょうか。先の大戦において、多くの人が死にました。親や兄弟を亡くした方もいるでしょう。そういう方は、自分の命は自分だけのものではない、そういう感覚がどこかにあるのではないかと思います。だから、その人の死を忘れることは出来ないし、自分の命も粗末には出来ない。
 イエス様の十字架の死、それはまさにイエス様が十字架の上で死んでくださったから今の自分がある、そういう死です。私の命、私が今を生きるということと切り離すことが出来ない死です。イエス様が十字架の上で死んでくださらなかったのなら、私共は神様を知らず、愛を知らず、目の前の損得だけがすべてのように思って生きていたでしょう。希望とか、生きる意味とか、そんなことを考えることもなかったでしょう。しかし、イエス様は私のために十字架に架かり死んでくださった。私が神様と共に、永遠の命に生きるためです。神様との愛、隣り人との愛に生きるためです。

5.我が神、我が神、
 「私のため」、この一点に立つ時、イエス様の謎の言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉も、どうして神の子がこんな言葉を叫んで死んだのかさっぱり分からない、そんな言葉ではなくなります。勿論、このイエス様の十字架の上での言葉の意味はこういうことだと、断定的に言える人などはいないでしょう。しかし、イエス様の十字架が「私のため」であるならば、二つのことは言えると思います。
 一つには、この言葉が意味しているのは、イエス様は私のために、私に代わって神様に捨てられたということです。父と子と聖霊の三位一体の神、天地が造られる前から父と一つであられた御子が、父に捨てられる。何という絶望でしょう。私共は、イエス様が十字架の上で味わったこの絶望を知りません。想像することも出来ません。永遠に一つであられた父と子、永遠の愛で結ばれていた父と子、その父と子が引き離される。誰も耐えることの出来ない、光の無い絶望。それをイエス様は味わった。私のためにです。私が神様に捨てられることなく、父よと呼ぶことが出来るようになるためです。私共が神様からの光を受けるために、光の中を生きることが出来るようにするために、私が神の子と呼ばれるために、御子が絶望へと落ちてくださった。とすれば、どうして私共が神の子とされた恵みをおろそかに出来ましょう。ただただありがたく受け取り、この恵みに生き切りたいと願うばかりです。
 二つ目は、イエス様の十字架が私のために、私に代わってのものであるとするならば、この叫びもまた私のために、私に代わっての叫びであるということです。私共は人生の中で、何と理不尽なことかと腹を立て、どうして自分はこんな目に遭わねばならないのかと嘆く時があるでしょう。神様なんているのか。神様が自分を愛しているなんて信じられない。そう思うようなことがある。仕事のことであったり、家庭のことだったり、色々あります。病気だってそうでしょう。なんでこんな病気にかかるのか。自分が何をしたって言うのかと、行き場のない怒りを覚えることもある。その時、イエス様は私のために、私に代わって、この嘆きの叫びを神様に向かって叫んでくださっているのです。私共はそのような時、まるでイエス様の十字架を見て「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。そうすれば、信じてやろう。」と言った人々と同じように、この状況が変わったら、この苦しみから逃れられたら、神様を信じてやろう。そうでなければ、金輪際、神様なんて信じない。そんな風に心でつぶやいているのかもしれません。しかし、そのような私共に向かって、イエス様は十字架の上から、「あなたはそれでも神様の前から離れてはいけない。『我が神、我が神』と神様を呼べ。神様の御前に立ち続けよ。わたしもあなたに代わって、あなたと共に神に叫ぼう。『我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。』そう叫ぼう。だから、神様の御前から離れてはいけない。」そのように語られているのです。

6.執り成しの祈りへ
 イエス様は、十字架の上で息を引き取る時も、「我が神、我が神」と神様を呼ばれました。確かに、イエス様は父なる神様に捨てられました。しかし、それでもなお「我が神、我が神」なのです。神様がイエス様の神様ではなくなる、父と子の関係が断絶する。そんなことはなかったのです。父なる神と子なる神の関係、この絆は断たれていない。イエス様は、父なる神様と御自身とのそのような関係、決して断絶されることのない父なる神様との絆を私に与えてくださった。私共を神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者としてくださった。だから、私共は「なんでこんな目に。」と言わざるを得ない状況の中にあっても、それでも「我が神、我が神」と祈る。私共はそういう者へと変えられ、導かれているのです。
 私は牧師として、何人もの病気の方、年老いた方のためにいつも祈っております。一日に何度も祈っています。それは、その人のために、その人に代わって祈っているわけです。中には、どうしてこの人がこんな状況になってしまったのかという人もいます。訪ねていくと、そのように私に言われる方もいます。どうしてなのか私にも分かりません。だから、祈るしかない。「我が神、我が神、どうしてこの人がこんな目に遭わねばならないのか。いやしてください。守ってください。支えてください。」そう祈る。それは、イエス様のこの十字架の叫びを教えられ、導かれているからです。私共が困窮の中で神様に向かって叫ぶ時、イエス様もまた、共に叫んでくださっている。私はそのことを信じ、執り成しの祈りを祈るのです。

7.イエス様の十字架による希望
 イエス様の十字架は、今の私を生かす力であり、希望です。この神の御子の十字架によって、私共は神様との交わりに生きる者とされたからです。この救いの事実は、何によっても破られることはありません。イエス様の十字架の事実を無かったことにすることは、どんな大きな力によっても、悪魔によっても出来はしません。私が救われた、神の子・神の僕とされたのは、このイエス様の十字架の死によってもたらされたものです。ですから、私共の信じる気持ちなどによって左右されるようなものではありません。このイエス様によって与えられた救いは、私共がやがて迎える肉体の死によっても決して破られることはありません。
 週報にありますように、今日の午後、N.M.さんの病床洗礼を行います。96歳になられる方です。お孫さんに連れられて何度か礼拝に来られたことかあります。イエス様のこと、神様のことなど、よく分かっていないかもしれません。しかし、洗礼を受けるということは、このイエス様の十字架と一つにされるということです。地上での命はもうそれほど長くないかもしれない。しかし、この方はイエス様の十字架の死と一つにされる。イエス様の十字架の死と一つにされるということは、イエス様の復活の命と一つにされるということでもあります。イエス様が再び来られる時、イエス様に似た者とされて、永遠の命に与るということです。イエス様の十字架によって私共に与えられる希望は、この世のどんな力によっても、悲しい嘆きの現実によっても、死によってさえも、決して破られることのないものです。私共は、イエス様の十字架による救いの事実によってその希望に与り、その希望に生きる者とされています。本当にありがたいことだと思います。
 私のために十字架の上で死なれたイエス様の御姿をしっかり心に刻んで、この出来事によって与えられた救いの恵みをほめたたえつつ、喜びのイースターを共に迎えたいと思います。

[2018年3月25日]

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