富山鹿島町教会

礼拝説教

「遣わされた者の務め」
エレミヤ書 1章4〜10節
マタイによる福音書 10章5〜15節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております御言葉は、イエス様が12人の弟子を遣わすに当たって、遣わされる者としての心得を弟子たちに示された所です。イエス様は御自身の御業を代わって行う者として、9章38節の言葉で言うならば「収穫のための働き手」として弟子たちを遣わされたのですが、それに際して心得ておかねばならないことを、大きく分けると四つ示されました。この心得は、十二弟子だけに示されたと言うよりも、この後、イエス様の御業を為すために遣わされるすべての人々、すべての伝道者に適用されるべきものですし、キリストの教会の為すべきこと、あるべき姿を示していると言って良いと思います。
 順に見てまいりましょう。

2.「今」なすべきこと
 第一に、5〜6節「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と告げられました。これは少し分かりにくいのではないかと思います。と申しますのは、復活されたイエス様は、このマタイによる福音書の最後の所で、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。この復活のイエス様の御命令によって、弟子たちは全世界に福音を伝えるために出て行ったわけです。ではどうして、この時にはイエス様は全世界に出て行くように弟子たちにお命じにならなかったのか。
 それは単純に、順番がある、その時その時に為すべきことがあるということだと思います。救い主であるイエス様は、まず神の民であるイスラエルに遣わされたのです。しかし、神の民であるイスラエルはこれを受け入れず、その結果、イエス様の福音は全世界へと伝えられることになった。そういうことでしょう。イエス様の福音は、一瞬にして全世界に広がったのではありません。少しずつ少しずつ、時間をかけて広がっていきました。私共の教会が伝道開始をした136年前まで、この富山の地にイエス様の福音を聞いた者は一人もいなかったのです。この富山の地に伝えられるまで、実に1850年ほどかかっているのです。この時イエス様は、今はイスラエルの人々に伝える時だ、そう弟子たちに命じられたのです。

3.イエス様の御業を為す者として
 第二に、7〜8節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とイエス様は言われました。ここで言われていることは、イエス様が為さっていたことです。つまり、弟子たちはイエス様の為された業を受け継ぎ、広める者として遣わされたということです。弟子たちは、自分たちが独自に何をするか考え、決め、実行していくのではありません。そうではなくて、イエス様の為された業を受け継いでいくのです。イエス様が告げられたように、イエス様が告げられたことを告げていく。私共もイエス様が告げられたように、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」と告げていくのです。神の国、それをマタイは「天の国」と言っていますが全く同じです。マルコやルカは神の国と言い、マタイは天の国と言っています。私共は神様の御支配の中に既に生き始めている、そのことを伝えていくのです。人はいつの時代、どの国でも、神様の支配ではなくて、人間の支配だけが確かなものだと考えているものです。しかし、イエス様は、「そうではない。神様の御支配はもう始まっている。」と言われた。神様が私共を愛してくださって、御手の中に生かしてくださっている。弟子たちはこの恵みの事実を伝える者として遣わされるのです。何故なら、彼らはそのことを知っているからです。知らないことは伝えようがありません。弟子たちは、イエス様に出会って、神様が本当に生きて働いて、自分を愛してくださっていること、生かしてくださっていることを知りました。神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされた、この喜びを伝える。それが、遣わされた者が第一に伝えるべきことなのです。「あなたも神様の愛の中に生かされている。私と一緒に、神様の愛の中に生きよう。自分の欲を満たすことに振り回されるような歩みではなくて、生ける神様と共に、この方の愛の中に生きよう。」そう招いていくのです。
 そして、その福音を伝えると同時に、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」このいやしの業も為していくのです。イエス様は言葉と業をもって神の国の到来を伝えられました。言葉だけではないのです。明治学院大学をつくったヘボン宣教師は、信徒であり、医者でした。彼は日本に来ると、まず病院を造って当時の西洋医学をもって病気を癒やし、そして福音を伝えました。明治時代に宣教師たちによって伝えられたイエス様の福音は、教育・医療・福祉、それらの業と共に伝えられました。教派の別なく、そうでした。それは、単なる19世紀における世界伝道の戦略というようなものではなくて、イエス様によって遣わされる者の当然あるべき姿だったからです。福音はイエス様の時代から、いつも言葉と業をもって伝えられてきたからです。
 そして、イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と告げられました。イエス様が私共に与えてくださった福音は、ただ恵みとして与えられたものです。ですから、この福音はただで伝えられていくべきものなのです。私共の教会に何年か前に来ていただいたナグネ宣教師、彼は日本人ですが、日本基督教団の宣教師として今、韓国の長老大神学校で教えています。その彼が日本語礼拝を手伝っているセムナン教会、これはアンダーウッド宣教師によって開かれた韓国で一番古い教会で、長老教会です。この教会の一画には、日曜日になると無料の診療所が開かれるのです。教会員の医師、看護師、薬剤師がボランティアでやっているそうです。日本では法律上出来ないのかもしれませんが、セムナン教会は伝道の初めからそれを続けているということでした。

4.何も持っていくな
 第三に、9〜10節「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」とあります。イエス様は伝道に行く弟子たちに、お金も袋も下着も履物も杖も持って行くなと命じられました。「これは現実的ではない。」そんな批判も聞こえそうです。確かに、私共が実際伝道していく場合には、何も持たないでというわけにはいかないでしょう。しかしそこで、伝道において最も大切なことが見失われてしまう。イエス様はそのことを指摘されたのだと思います。それは、神様が働き、神様が導き、神様が養ってくださるということです。教会は「主の養いに生きる者たちの群れ」なのです。主が養ってくださる。この一点を外したら、伝道者は立っていくことは出来ません。神様ではなくて、お金や目に見えるものを頼るようになってしまうからです。これは本当に大きな誘惑です。イエス様はこの誘惑がどんなに強いものであるかを知っておられました。「荒れ野の誘惑」でイエス様が退けたのも、この目に見えるものの力で何とかしようとする、させようとするサタンの誘惑でした。
 私共は何も持たなくて良いのです。私共は福音を持っているからです。神様の守りと支えと導きがあるからです。神様が生きて働いてくださることを身をもって示す所において、福音は伝わっていくのでしょう。神様の御業に仕える者は、神様が養ってくださいます。具体的には、食べ物や必要なものをすべて与えてくれる人を備えてくださるということです。この主の養いによって、教会は生きてきたし、生きているのです。
 私は前任地での17年間の歩みにおいて、このことをはっきり教えていただきました。礼拝出席が30名に満たない教会でした。しかし、その17年間の我が家の食卓に、頂き物が一品も載っていない時はありませんでした。エリヤのカラスが私共を養い続けてくれました。主の養いは本当のことです。

5.平和を告げる者として
 第四に、イエス様に遣わされた者は何よりも「平和があるように」と告げていきます。11〜13節「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれであるかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」とあります。この平和は、神の平和です。一切の罪を赦され、神の子・神の僕とされ、神様と和解した者に与えられる平和です。この神の平和は、神様との関係における平和だけではなくて、人と人との間の平和をも生み出していきます。福音は、議論をして相手を言い負かして、それで伝わるなどということはありません。私は若い伝道者だった頃、よく議論をしてしまいました。様々な神学をもって相手を論破する。負けたくない。自分が伝えているものの方が優れている。論理的だ。しかし、そんなことをいくら証明した所で、福音は少しも伝わりません。実に愚かなことをしたと反省しています。どうしてあの時、あの人に神の平和を告げなかったのだろうか。悔やまれます。
 そして、イエス様は「平和があるように」と挨拶しなさいと教えられました。これは「シャローム」という挨拶でしょうけれど、それは単に口で言うだけではなくて、その人を抱き締めて受け入れて「平和があるように」と告げるのです。私共は平和の使者なのです。そして、この平和の挨拶は、まず「その村に入ったら、ふさわしい人を調べて、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」と言われているように、ふさわしい人、ふさわしい家の人々に告げられるというのです。ここで「ふさわしい」とはどういうことなのか、考えなくてはなりません。「主の平和を受けるにふさわしい人」とはどんな人なのか。この人がふさわしいか、ふさわしくないかを私は決められるのか。そんな風に考え始めると悩んでしまいます。しかし、イエス様はそんなに難しいことを言われているのではないと思います。弟子たちが告げる神の国の福音、値なく与えられる恵みを、ただ恵みとして受け取る人。それがふさわしい人なのでしょう。自分はこんなに真面目で、熱心で、社会的にも経済的にもちゃんとしていて、神の平和を受けるにふさわしいと思っているような人は、ふさわしくないのです。主の平和にふさわしい人とは、イエス様の福音をただ恵みとして受け取る人です。私共がそうであるように、その人自身の中に、主の平和にふさわしい良き所があるということではないのです。私共の中には何も無い。何も無いけれど、何も無いが故に、イエス様の救いの恵みを、ただありがたい贈り物として受け取った。だから、主の平和を与えられた。それと同じように、誇るべき所など何一つ無いけれど、否、何も無いが故に、ただ恵みとしてイエス様の福音を受け取る者。それこそ主の平和を受けるにふさわしい者なのです。
 この「平和があるように」との挨拶は、それをただ恵みと受け取る人には、事実、神様との和解が与えられ、神様との交わりに生きる者とされ、隣り人ともまた、平和が与えられる。しかし、この福音の恵みを受け取らないならば、その平和は平和を告げた者に返ってくると言います。つまり、平和の挨拶は無駄にならないのですから、どんどん平和の挨拶をしていけば良いということなのでしょう。

6.主の慰め:あなたの責任ではない
 伝道の実際というものは、何十、何百と平和の挨拶をしても、それを受け入れてくれる人はそんなにいるものではないかもしれません。イエス様は14節で、「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」と言われました。私は、この言葉の意味がよく分かりませんでした。「何もそこまでしなくてもいいじゃないか。」そう思っておりました。しかしある時、このイエス様の言葉は、何と弟子たちのことを気遣われた言葉か、慰めに満ちた言葉かと知らされ、本当にありがたいと思うようになりました。
 30歳で伝道者に立たされた私でしたが、伝道はなかなか進展しませんでした。特に一年目が厳しかったです。洗礼者はゼロ。前任牧師と長老会が対立して牧師が辞めた直後に行ったので、教会と幼稚園(牧師が園長をしていたので)との関係は最悪。求道者もゼロですから受洗者ゼロでも当然なのですけれど、しかし、そのような結果に私は自分を責めるわけです。自分は伝道者に向いていないのではないか。本気でそう思いました。そういう時に、家庭集会で聖書を読んでいた時にこのイエス様の言葉が心に響いてきたのです。その人が福音を受け入れるかどうかは、その人の責任なのであって、伝道者の責任ではない。私は、伝道の結果は自分の責任だと思っていたのですが、それは大変な思い上がりだ。伝道は神様がするもの、自分は忠実に正しく福音を伝えているかどうかが問われるのであって、それを受け入れるかどうかは、それを聞いた人の責任なのだ。この14節の「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」というイエス様の言葉が、イエス様の慰めの言葉として心に響いたのです。それ以来、伝道の成果によって、自分が伝道者に向いているとか向いていないとかを考えることはなくなりました。そうではなくて、伝道者に召された者としてふさわしく生きているか、ふさわしく語っているか、そのことを問うようになりました。

7.生きるように語り、語ったように生きる
 イエス様の福音を伝えるということは、勿論、伝道者だけに与えられた使命ではありません。すべてのキリスト者、すべての教会に与えられている使命です。この使命に生きようとする者は、何よりもまず、自分自身が神様の御支配の中に生かされている幸いを喜んでいるかどうか、神の平和の中に生きているかどうか、それが大切なのです。そうでなければ、どんなに口で神様の御支配の中に共に生きよう、主の平和に共に与ろうと言っても、伝わるはずがありません。私共は生きているように語るしかなく、語っているように生きるしかないのです。
 イエス様は、この時12人の弟子を使徒として召し出し、遣わされました。使徒とは「遣わされた者」という意味の言葉です。私共はイエス様によって救われました。それは、私共が使徒ではありませんけれど、その救いを人々に伝えていくためです。最近はあまり聞きませんが、以前は祈りの中で「先に救われた私たち」という言葉がよく用いられておりました。この言葉は、まだ救われていない人がいる、自分たちより後に救われる人がいる、その人たちに対して自分たちは責任がある、そういう自覚が生んだ言葉なのだと思います。私共は先に救われた者として、イエス様の福音を伝える業に、神の平和を宣べ伝える業に存分に用いていただきたい。そう心から願うのであります。

[2018年3月11日]

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