1.神様の御心としての「殺してはならない」
今朝は2月の最後の主の日ですので、旧約聖書から御言葉を受けます。1月は十戒の第五の戒「父と母を敬え。」でした。今日は第六の戒「殺してはならない。」です。「殺してはならない。」あまりに当たり前過ぎて、「当然でしょ。」で終わってしまいかねないのですが、この戒は実に長い射程を持っているものなのです。それは、単に「当たり前」で終わりにすることなど出来ない、豊かな内容を持っています。
そもそも、十戒は神様が神の民に対して、「このように生きることがわたしの思いに適っているのだ。」と御心を示してくださったものです。でも、私共が「殺してはならない」を当然のこととして受け取るのは、神様の御心だからではなくて、そうでなければ社会が成り立たないから、これが常識ではないような社会だったら大変だから、ということではないしょうか。確かに、「殺してはならない」を当然のことと受け止める社会でなければ、私共は非常に困るわけです。しかし、そのように「殺してはならない」をただの常識として受け取るならば、要するに殺さなければ良いということになります。私共は、普通に生活していれば殺人を犯すようなことはまずありませんから、するとこの戒は、日常的には問題にならない、忘れていて良い、そういうものになると言えるでしょう。
しかし、これを神様の御心であるとしっかり弁えて受け止めますと、単なる常識として理解するのとは全く違った世界が広がってきます。これが神様の御心を示している言葉であるならば、私共はこれを忘れることは出来ませんし、神様はこれによってどんな御心を示しておられるのか、私共に何を求めておられるのか、そのことに思いを巡らせないわけにはいきません。そして、その御心に従って生きる歩みを整えていかなければならないということになろうかと思います。
2.命は神様のもの
まず、この「殺してはならない」という言葉の意味ですが、これは「人間を殺してはならない」という意味です。動物や魚や植物のことは言っていません。仏教には「不殺生」という教えがありますが、それとは違います。しかし、少し重なるところはあります。
それは、この「殺してはならない」という戒の根本にあるのは、「命は神様のものである」ということだからです。命は、自分の命でさえも自分のものではありません。旧約においては食物についての規定があり、その代表的なものは、「血抜きをした肉しか食べてはならない」ではないかと思います。これは今でもユダヤ教やイスラム教などに受け継がれていますけれど、その理由は「生き物の命は血の中にある」(レビ記17章11節)と告げられているからです。つまり、動物の肉は食べるけれど命は食べない、命は神様のものだから、ということです。私共は血抜きはしませんけれど、命は神様のもの、このことはしっかり覚えておかなければなりません。これが命に対しての聖書の基本的な理解なのです。
3.なぜ、人間を殺してはダメなのか?
では、他の動物は殺して食べるのに、どうして人間を殺してはダメなのか。それは、人間は他の動物とは違うからです。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」とあります。神様は、御自分と愛の交わりを為す特別なものとして人間をお造りになった。その人間を殺すということは、神様の人間に対するこの特別な思いを踏みにじる、台無しにする、そういうことだからです。更に言えば、神様にかたどって造られた人間を殺すということは、神を殺す、神への反逆そのものなのです。たとえは悪いかもしれませんが、ある国の指導者の写真を焼くという行為は、その指導者に対しての敵対心を示すものでしょう。それと同じように、神様に似た者として造られた人間を殺すということは、神様に対しての明確な敵対心を示すことになるということです。だから、人間を殺してはいけないのです。
人はなぜ人を殺してはいけないのか。この素朴な問いは、正面から答えようとするとなかなか難しいものです。もう随分前になりますが、少年が殺人を犯し、社会問題になった時、或る少年が「どうして人を殺してはいけないのか。」と問うた。その時、いわゆる知識人と言われる人たちが色々答えたのですけれど、ちゃんとした答えにはなっていなかったのを覚えています。「人に迷惑をかけるのはいけないことだろう。その最たるものが相手を殺すことだ。」そんな感じで答えていました。しかし、これはあまり説得力を持っていないのではないかと思いました。私は、この問いは神様の前に立たなければ答えを得られないのではないかと思っています。少年の問いの中には、「いけないと言っても、世の中そんなことが横行しているではないか。戦争はどうだ。一人を殺せば殺人だけれど、千人を殺せば英雄になる。経済的に豊かな国の人間が貧しい国からどんどん富を奪い、多くの人が死んでいっているのではないか。或いは、牛を食べ、豚を食べて生きている人間が、どうして人間を殺してはいけないのか。」そういう問いが含まれているのでしょう。これに答えるのはそんなに簡単ではないと思います。私は、この問いに対する答えは、「神様がダメだと言っているから。」それが唯一の正解だと思っています。善悪を決めるのは人間ではなくて、神様だからです。しかし、この答えが通じるためには、その問いを発している人が、神様の前に立たないといけません。しかし、この様な問いを発する人は、神様の御前に中々立ちませんので、その人に対して説得力ある答えにはならないのかもしれません。
4.イエス様の説き明かし
さて、この戒についてイエス様は、マタイによる福音書5章21〜22節で、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」と告げられました。この戒は、殺さなければいいということではない。隣り人に腹を立てたり、ばかと言ったり、愚か者と言ったりすることさえもダメなのだ。何故なら、それは相手を神様に似た者として重んじていないからだ。相手を神様に似た者として造られた、神の似姿を与えられた者として重んじる。それが、この戒において神様が私共に求めておられることだとイエス様は教えてくださいました。人間は、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりを形作る者、愛の交わりを形作る者として造られたからです。
このイエス様の言葉によって私共は、この戒を完全に守っているとは言えない者だということを知らされるのです。確かに私共は、直接には人を殺してはいないでしょう。しかし、自分と出会う一人一人を、神の似姿に造られた者として重んじているかと言われれば、「はい」とは言えない。自分に良くしてくれる人に対してはいいでしょう。しかし、自分と意見が合わない、考え方が違う、そういう人を私共は排除しようとする。「あいつはばかだ。」そう言って切り捨ててしまう心があるでしょう。その心をイエス様は、それは御心に適わない、それは「殺してはならない」と告げられた神様の御心に反している、そう言われたわけです。ここまで言われなければ、神様の御心に反している自分の姿に気付かない私共です。
5.私共の道しるべとして
神様の御心に反している私共の有り様を罪と言います。この罪が極まった所、それがイエス様の十字架です。まことに神の似姿そのものであられた神の独り子を十字架に架けて殺した。それは神様に反逆する人間の罪が最も露わになった出来事でした。それは二千年前に日本から遠く離れた所で起きた出来事だ、自分とは何の関係も無い、と言うのでしょうか。もしそう言い張るのなら、私共は神様の御心に逆らったまま生きるしかなく、行き着く先は滅びです。火の地獄に投げ込まれるしかありません。しかし、あのイエス様の十字架が、私の罪のためだった、私のせいだった、そう受け取る者は、神の独り子を殺した者として神様の御前に赦しを願うでしょう。そして、イエス様の十字架の前に赦しを求め願う者に対して、神様はその一切の罪を赦し、神の子、神の僕としての新しい命を与えてくださいます。この新しい命に生きる者にとって「殺すな」との戒は、まことに豊かな新しい歩みの道しるべとなるのです。神様の愛を注がれた者として、神様の愛に応える者として歩む、その歩みの道しるべとなるのです。
それは、私共が生きる具体的な日常の歩みにおける道しるべとなり、同時に、この社会がどのようなものでなければならないかの道しるべにもなります。具体的な場面でこの戒に従う者としてどう対応するのかということを考え、決断する者となっていくのです。個人的には、愛の交わりを形作る者として自覚的に歩もうとするということがあるでしょう。それは、もちろん教会の中だけのことではありません。家庭において、職場において、地域においてもです。相手を、神の似姿に造られた者として重んじるということですから、男尊女卑というようなこともいけません。社会的に力ある者が力の弱い者に対して偉そうにするのもいけないでしょう。最近はセクハラ、パワハラということが言われますが、もっともなことだと思います。今まで声にすることも出来なかっただけで、本当にひどいことを言われたり、されたりしても、ただ泣き寝入りするしかなかったどれだけ多くの人たちがいたことかと思います。過労死などということも、この戒から考えなければならないことなのだろうと思います。
6.この戒めに生きる共同体
しかし、セクハラだ、パワハラだと相手を責めることでは、愛の交わりは形作られません。そこには互いに神様の御前に立つ者として、相手を重んじるということがなければならないでしょう。しかし、日本はキリスト者が少ないのだから、どうしようもないではないか。そうかもしれません。でも、そこで「教会」なのでしょう。教会において、私共は互いに愛し合い、支え合い、仕え合うことを学んでいく。また、教会はそのような交わりを形作ることにおいて、社会に対し、共同体のあるべき姿を示していく責任があるということでしょう。教会は、この戒を知らない者たちと同じような共同体であっては意味がないのです。この戒に喜んで従う者の群れとなっていなければなりません。
少し社会に目を転じてみましょう。ヘイト・スピーチということが世界的に問題になっています。富山ではあまり聞いたことがないのですが、東京などではしょっちゅう行われているようです。これは主に在日韓国人、朝鮮人に対して、その存在そのものを否定するような、「この国から出て行け。」とかいうことを、デモのような形で大声で叫ぶのですが、これは「殺すな」の戒を真っ向から否定しているものだと言えるでしょう。
或いは、最近はネット社会と言われますが、インターネット、スマートフォンなどですぐに悪口などが書かれて、あっと言う間に広がる。悪意ある言葉、中傷するような言葉が氾濫しているようです。先日オリンピックのジャンプで銅メダルをとった日本人の女性に対しても、「化粧ばかりしているから金メダルを逃したんだ。」というような言葉がたくさん出たそうです。私はSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を使っておりませんのでよく分かりませんが、このような無責任な悪意ある言葉が野放しでまき散らされるというのはどうかと思いますし、この戒から見て、明らかに罪だと言わなければならないでしょう。また、報道も、人の心の中の悪意や憎しみを増大させるようなものであってはならないということでもありましょう。中国や韓国に対する今の報道の仕方に、そのような危険を感じるのは私だけでしょうか。
また、この戒は、国のあり方というものをも射程に置いていると思います。国家は国民の命を何よりも大切にする所で政策を決めていかなければならないということです。政策を論じる場合、すぐにお金の話になってしまう傾向がありますけれど、それ以前に何を大切にしなければならないのかということがはっきりしていなければなりません。それは命ということです。ただ、この戒は、戦争や死刑というものを全面的に禁じているわけではないということは知っておいて良いでしょう。この「殺してはならない」という言葉は、戦争や死刑に際して用いられる言葉ではありません。この他、妊娠中絶の問題、生命倫理の問題、自殺の問題等々、この戒の射程は実に広い範囲に及んでいます。もちろん、それらの具体的な問題には個々の事情もあり、十把一絡げに「ダメだ」というようなことは言えないだろうと思います。ただ、神様が与えてくださった命、神様に似た者として造られた人間、これを重んじること無しに、神様の御前に正しく生きることは出来ないし、神様の御心に適った社会を形作っていくことも出来ない。そのことはしっかり心に刻んでおきたいと思います。
7.御国を目指して
最後に一つだけ確認して終わります。それは、この十戒が完全に行われる時が来るということです。この地上において、これが完全に行われる国や社会は無いかもしれません。しかし、それが完全に行われる日が来ることを私共は知っています。それは終末です。神の国の完成の時です。その神の国を目指す者として、神の国が来ることを知っている者として、神の国への憧れを持つ故に、私共はこの戒に従って生きるということです。
私共はすぐに、好き嫌いで人を判断したりします。嫌いとなったら目も合わせたくない。それが現実かもしれません。しかし、そのような私共に、「殺すな」との神様の言葉が与えられている。この戒に従って生きなければ、愛の交わりを形作ることが出来ないからです。神様は私共に聖霊を注ぎ、信仰を与えてくださいました。イエス様の十字架による罪の赦しを与えてくださいました。それは、この戒に生きる力と勇気、愛と希望をも与えてくださったということです。私共は神様によって変えられていきます。そのことを信じて良いのです。神様はこの戒を与えてくださるほどに、私共を愛してくださっているからです。
[2018年2月25日]
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