1.はじめに
今日は第三の主の日ですので、一つの主題で御言葉を受けてまいります。今朝の主題は「教会」です。
教会というものをどのように理解し、これとどう関わっていくのか。これは、私共がどのように健やかな信仰生活を守っていくのかということの鍵となる、大変重要な点です。しかし、教会という所は色々な人がおりますし、様々な活動をしております。そこで、ややこしい人間関係が生じたりもします。それで、「信仰は良いのだけれども、教会とは関わりたくない。」そんな人も出てまいります。教会は地上の存在ですから、そういうややこしいことが一切無いということにはなりません。それは困ったことではありますけれど、そういうことをどう乗り越えていくのか、そこで私共の信仰が試される。そういうことでもあろうかと思います。そこで大切になるのが、教会は何であるかということをお互いによく弁えることなのだろうと思います。教会というものを、目の前にある問題や課題からだけ見るのではなくて、その本質と申しますか、本来の姿と申しますか、どうして、何のためにあって、何をする所なのか、そのことをお互いに弁えるということです。
事柄を分かりやすくするために、教会についての5W1H、「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)」という形で整理してみましょう。
2.教会はいつ?
教会は「いつ」出来たのか。
これは比較的簡単でしょう。イエス様の十二人の弟子たちから始まった。確かに、キリスト教会という点だけを考えればそういうことになります。しかし、神の民という点から考えますと、旧約のイスラエルの民から、更にはアブラハム以来ということにもなりましょう。キリストの教会は、神の民としてアブラハム以来の歴史を持った存在なのです。
そして、「いつまで」ということを考えますと、イエス様が再び来られるまで、終末において新しい天と新しい地が出来るまで、地上の教会は在り続けるということになります。私共は、教会と言えばこの富山鹿島町教会を考えるわけですが、この富山鹿島町教会もそのような壮大な神の民の歴史と繋がって存在しているということです。私共は、その壮大な神様の救いの御業の歴史の中で、今という時をこの富山鹿島町教会と共に歩んでいるということなのです。私共は、ややもすると自分の救いしか考えない所がありますけれど、教会というものに目を向けることで、自分が救われてこの様に信仰の歩みをしているということは、この壮大な神様の救いの歴史の中の出来事なのだということに目が開かれてまいります。私が救われた、信仰が与えられたということは、実に壮大な神様の御計画の中での出来事なのです。
3.教会はどこに?
次に「どこに」です。教会はどこに建っているのか。始まりは、これもイエス様の弟子たちによって、イスラエルのエルサレムから始まりました。しかし、今や全世界に広がっています。そして、今も広がり続けています。私共の教会のメンバーではありませんけれど、インドネシアや中国の教会の教会員の方が礼拝に出席されています。先日、富山地区の一泊の教師会がありましたが、そこで福光教会の牧師が、最近ブラジルやインドネシアの方が礼拝に集っていると報告されました。福光という小さな田舎の教会、礼拝出席十数名の教会に四、五人の外国の人が集うようになっている。日本の状況がそうなってきているということなのでしょうけれど、教会は世界に広がっているのだということが、ここにはっきり分かる形で表れています。
この日本に福音が伝えられましたのは戦国時代でしたけれど、その後の江戸幕府のキリシタン禁教令により、一部は隠れキリシタンとして残りましたが、その多くは根絶やしにされました。しかし、150年程前に再びキリストの福音が日本にもたらされ、この富山の地にも136年前に福音が伝えられて私共の教会へと繋がっています。確かに、まだ福音が伝えられていない地域が世界にはあります。しかし、そこにも必ず伝えられていきますし、そこにも教会が建っていくことに必ずなる。教会は全地に建てられていきます。それは、神様がすべての者を救いへと招こうとされているからです。
4.教会はだれが?
次に「だれが」ということですが、これが大切です。目に見える所で教会を建てているのは、イエス様の救いに与った人間です。しかし、教会は人間の思い、人間の計画によって建っているのではありません。神様がお建てになったし、今も建てておられるのです。何人かの人が集まって考えが一致したから設立しましょうといって建てられるNPO法人
などとは、根本的に違うのです。人間が建てた団体は必ず消えていきます。どんな団体も組織も消えていきます。国家もです。国家も歴史の波に何百年と耐えることは出来ないのです。しかし、キリストの教会は建ち続けてきましたし、建ち続けていきます。神様がお建てになったし、お建てになっているからです。
5.教会はなにを、なぜ?
さて「なにを」「なぜ」ということですが、これは二つあります。一つは、キリストの福音を保持するため、もう一つは、キリストの福音を伝えていくためです。神様は、この二つの目的のために教会をお建てになりました。この二つは、別々なことではありません。神様が、イエス様によってすべての人に与えた救いを保持するということは、同時代の人に伝えるだけではなくて、次の世代に伝えるということがなければ継続出来ないからです。このことを為すために建てられたのがキリストの教会です。それ以外の目的はありません。この神様の教会設立の目的、意図、何をするものなのか、それを見失いますと教会が何なのか、さっぱり分からなくなってしまいます。
このことは、別の言い方をしますと、イエス様によって為された救いの御業を受け継ぎ継続するために教会は建てられてきたし、建てられているということです。ですから、12節にあるように、教会は「キリストの体」と言われるのです。イエス様はマリアから生まれ、十字架の上で死に、三日目に復活され天に昇られました。そして、今も天におられ、父なる神様の右におられます。その天に昇られたイエス様の御業を継続するために、地上の存在として教会は建てられました。確かに、地上にある教会には、いつも問題があり、課題があります。しかし、それが教会を根底から崩すかというと、そうではありません。教会がキリストの体である以上、そんなに簡単に崩れ去ったりはしないのです。
教会がキリストの体であるということは、教会にキリストの霊である聖霊が臨んでおられるということです。聖霊なる神様が、救いの御業を為し続ける場として教会を用いておられるし、そのために教会を建ててくださっているということです。
教会は社会学的に見れば、人間が任意に集まった他の団体と少しも変わらないように見えるかもしれません。しかし、その建てられている目的、建てておられる方が違うのです。主人が違うと言っても良いでしょう。15節に「頭(かしら)であるキリスト」とありますように、教会の主人はキリストなのです。キリストの御業を為すために建てられているからです。キリストが頭であるということが決定的に重要です。教会の頭は牧師ではないし、長老でもないし、信徒でもありません。教会も人間の集まりですから、リーダーは必要でしょう。しかし、リーダーは頭ではありませんし、主人でもありません。このことをしっかり弁えませんと、教会はただの人間の集まりになってしまい、キリストの救いの御業を継続する群れではなくなってしまいます。牧師が教祖のようになってしまうのは、その典型でしょう。或いは、その町の社会的な地位のある信徒が、まるで牧師を雇っているかのように勘違いするようなことだって起きます。しかし、それは勘違いなのです。
日本では、よく素人の合唱団でキリスト教の宗教曲が歌われます。最近では、ゴスペルを歌うグループもあります。それらと教会の聖歌隊とは何が違うのか。それは目的が違うのです。宗教曲を歌う合唱団もゴスペルのグループも、歌うのが好きだから集まっています。自分のために集まっています。歌っている曲は神様を賛美する内容ですし、しかも教会の聖歌隊よりずっと上手に歌い上げもします。しかし、その根っこは、自分が楽しむことです。神様の栄光を現す。神様の御業にお仕えする。そんな思いはありません。ですから、リーダーがいなくなれば消えてしまいます。教会の聖歌隊は、リーダーが有名な人だから、指導力があるから集まってくるわけではありません。もちろん、そういう聖歌隊もあるでしょうけれど、多くはそうではありません。それで良いのです。
6.教会はどのように? @職務につく人を立てて
最後に「どのように」ということです。今朝与えられている御言葉は、このことについて幾つかのことが記されています。順に見てみましょう。
第一に、神様は教会を建てるに必要な人を立てられます。11〜12節「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げて」いくのです。ここで、使徒・預言者・福音宣教者・牧者・教師という職務の名称が記されておりますが、これにあまりこだわる必要はないでしょう。ここにあるのは、この手紙が書かれた時代の教会にあった職務の名称です。要は、教会に必要な職務に、神様はその人を選んで立てられたということです。私共の教会には、牧師・長老・執事という職務があります。このことについては、午後の修養会でお話しさせていただきます。教会はその長い歴史の中で、その時代・その状況の中で、教会の務めを全うするために色々な職制(教会の制度)を持ってきました。これは、現代ではそれぞれの教派によって違います。しかし、どんな職制を持つにしても、教会は無秩序ではありません。制度を持たない教会はありません。先ほど民数記3章をお読みしましたが、そこには神の民が出エジプトの時に、祭司と幕屋に仕えるレビ人が選ばれ、立てられたことが記されていました。神の民は、その出発の時から制度・秩序を与えられていたのです。もし神の民が一切の制度・秩序を持たなかったのならば、人間の罪に対抗して神様の救いの御業を為し続けることなど出来ないからです。
ここで大切なことは、「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ」とあることです。教会の制度は、どのようなものであったとしても、それは「奉仕の業」を整えるためにあるということです。この奉仕とは、神様の御業にお仕えする奉仕です。キリストの救いの福音を保持し、伝えていく。その御業に仕える業です。そのために教会はあるのですから、当たり前のことです。そして、その職務に召された者は、それに適した者とされていくということです。適した者としてくださるのは、もちろん神様です。教会に臨んでくださる聖霊なる神様です。私は、牧師も長老も執事も、それに適した者とされていくということをずっと見てまいりました。私自身そうですが、神学校を出て、すぐに伝道者となるのですが、その時既にそれに適した者とされているかと言えば、そうではありません。右も左も分からず、本当によちよち歩きです。しかし、まことに欠けの多い者が、それでも奉仕の業に適した者とされていくのです。神様が選んで立ててくださったとは、そういうことです。変えられていくのです。長老も執事も、教会学校の教師もオルガニストも、みんなそうです。自分の能力や経験で、自分でやっていけると思う人は必ず砕かれます。やっていけないのです。しかし、神様は必要な賜物を備えて、適した者としてくださり、用いてくださいます。私共はこの神様の御業を信じて良いのです。
7.教会はどのように? A成長させて
第二に、神様は教会を成長させるということです。それは、教会が全地に広がり、数を増していくということも含むでしょうが、もっと大切なのはそういうことではありません。13節「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」ここで「成熟した人間になり」と言われておりますのは、教会のことです。「成熟した人間」という言葉は単数形が使われています。主語は12節の「聖なる者たち」ですから、ここは複数形でなければ理屈が合いません。しかし、それは「聖なる者たち」つまりイエス様の救いに与った人たち、この人たちが一つに合わせられてキリストの体としての教会となって、その教会が一人の人のように成熟し、キリストの満ちあふれる豊かさ(それは愛の豊かさであり、赦しの豊かさであり、希望の豊かさであり、信仰の豊かさであり、奉仕の豊かさでありましょう)、そのような教会へと成長するというのです。その成長の基礎、根っこにあるのは、私共の優しさや有能さ、熱心さなどではありません。「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」ということです。「神の子に対する信仰と知識」とは、何も難しいことではありません。イエス様は神の独り子であり、私共のために人となり、十字架に架かり、死んで三日目によみがえり、天に昇り、今もすべての者の上に臨み、支配し、愛しておられるということ。そしてそのお方は再び来られるということです。このイエス様に対しての信仰と知識において一つになる所に、その福音を保持し、それを伝える教会は建ち続けることが出来るし、キリストに向かって成長していくのです。ここで一つになれなければ、教会は成長することは出来ません。
8.教会はどのように? B組み合わされて
第三に、このキリストの体なる教会は、組み合わされるということです。教会に集う一人一人は全く違う賜物を持っています。賜物というと何か特別なものをイメージするかもしれません。そうすると、「自分にはそんな賜物はありません。」と言う人も出て来るでしょう。しかし、この賜物というのは、何も特別なものではありません。人と話すのが好き、或いは人の話を聞くのが好き。これも賜物です。人と一緒に何かをするのが好き、独りでこつこつ何かをするのが好き。これも賜物です。大きな声が出る。これも賜物です。この賜物というのは、そういう意味では、教会に集う私共一人一人の特性と言っても良いでしょう。私共は賜物といいますと、すぐに自分の能力や才能といったことを考えて、自分はこれが出来る、これが出来ないなどと考えたり、人と比較してしまいます。しかし、この賜物は神様が与えてくださったものですから、人と比較したり、うぬぼれたりする筋合いのものでは全く無いのです。
そもそも、キリストに向かって成長していくためには、どんなに有能な人であっても、その人だけでは何も出来ないのです。自分と違った賜物を持った人と組み合わされて、初めて意味を持つことになるのです。イエス様の御業にお仕えする教会は、何よりもお互いに組み合わされ、神様の栄光を現すものなのだということです。この組み合わせられる、補い合うということは、どうして出来るのか。それが次です。
9.教会はどのように? C愛によって
第四に、その成長は「愛に根ざして」「愛によって」為されます。この愛は、もちろん、神の愛です。愛は、夫婦もそうですが、互いに違う者同士を結び合わせるものです。違うものは互いに反発し、排除する。そういう心の動きが私共の中にはあるということを知っています。しかし、神様の愛はこの違う者同士を結びつけるのです。それは、全く聖なるお方が、罪人である私共を愛し、独り子さえも与えられた。そのことによって、罪人である私共が聖なる神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようにされた。ここに示された愛。これが神様の愛です。そして、この愛が私共に注がれ、この愛によって互いに組み合わされ、結びつけられ、神様の救いの御業を証しする存在として教会は建っていく。教会は何が出来るのかということ以上に、どのような交わりを形作っているか、そこにキリストの愛を証しする、伝えていく存在としての使命を全うしていくのではないかと思います。
そしてこの愛は、決して教会の内に対してだけ向かうのではなく、外に向かっても注がれていきます。それは、父・子・聖霊なる神様の交わりの中にあった愛が、罪人である私共に向かって、外に向かって注がれたのと同じです。それが伝道ということです。そして又、教会の幼稚園であったり、保育園であったり、福祉施設という形として現れたりもしているのです。
教会はキリストの福音(これはキリストの命と言っても良い)、これを保持し、伝えるために神様によって立てられているものです。このことをしっかり心に刻み、この神様の御心に仕える者として、それぞれの場でこの一週もまた、歩んでまいりましょう。
[2018年2月18日]
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