1.新年を迎えて
2018年が始まりました。新しい2018年の初めの日、私共は主の御前に集い、礼拝を捧げています。何よりも御言葉を受け、御言葉と共に、この新しい年も歩んでまいりたいと願っているからです。礼拝をもって始める。ここに私共の生きる姿勢がはっきり表れています。私共はここに、今年はこういう年であって欲しいという自分の願いを携えて集ったわけではありません。もちろん、新年を迎えるに当たって、それぞれ与えられている状況の中で、今年はこういう年であれば良いな、こうなって欲しいなという願いは、誰しも持っていることでしょう。しかし私共は、その思いを叶えてくださるようにと神様にお願いするためにここに集ったのではありません。私共がここに集ったのは御言葉を受けるためです。神様の言葉を聞くためです。
私共の前には今、2018年という全く新しい時が始まろうとしています。今年、何があるのか、誰も知りません。しかし、それを知っている方がおられます。私共の主なる神様です。神様はすべてを御存知であり、その神様が私共に御言葉を与えてくださるのです。私共はその御言葉を聞くためにここに集ってまいりました。
2.ヨルダン川を前にして
そのような私共に今日与えられた御言葉は、ヨシュア記1章5節以下の言葉です。この言葉は、エジプトの地において奴隷であったイスラエルの民が、モーセに導かれてエジプトを脱出し、40年の荒れ野の旅の末、今まさにヨルダン川を渡って約束の地に入ろうとした時に、神様がヨシュアに告げられた言葉です。40年の間イスラエルを導き続けたモーセは、この直前に死にました。モーセの後継者として立てられたのがヨシュアです。ヨシュアはモーセの従者として、モーセに仕えていた者です。今まではモーセがいました。偉大なモーセと共に、モーセの指示に従っていればよかったヨシュアです。しかし、もうモーセはいない。ヨルダン川を渡れば約束の地です。ヨシュアは不安でした。恐れていました。自分がモーセのようにイスラエルの民を導いていけるだろうか。これからどんなことが起きるだろうか。ヨシュアは不安と恐れで、ヨルダン川を前にして立ちすくんでいました。
ヨシュアは、ヨルダン川を渡った向こうに何があるのか、全く知らなかったわけではありません。民数記13章に記してありますが、40年前、約束の地カナンに入ろうとした時、モーセによって十二部族から一人ずつ選ばれた者がカナンの地の偵察に遣わされました。その中にヨシュアがいました。彼らは40日の間カナンの地を偵察して回り、帰って来てモーセに報告しました。その報告は、第一に、この土地が大変豊かな土地であるということでした。それを聖書は、「乳と蜜の流れる所」と表現しています。そして、第二に、その土地の住民は強く、町は城壁で囲まれてとても大きいというものでした。そして、ヨシュアとユダ族のカレブ以外の者は、「上って行くのは無理だ。カナンの地の人々は我らよりも強い。」と言ってモーセとアロンに不平を言い、「エジプトに帰った方がましだ。」と言い出したのです。神様はこのイスラエルの不信仰の故に、40年の荒れ野の旅を課したのです。
40年前、ヨシュアは「主が共におられるのだから恐れるな。カナンの土地に上ろう。」そう民に訴えました。しかし、民は彼らの言葉に耳を貸そうとはしませんでした。そして、神様の裁きとしての長い荒れ野の旅が始まりました。今ヨルダン川を渡れば、40年前、偵察に行った者たちが皆恐れた、強い民、城壁のある大きな町がある。彼らとの戦いは避けることが出来ない。40年前、ヨシュアは恐れませんでした。主が共におられるのだから大丈夫だと言って、カナンの地に上ることをユダのカレブと共に主張しました。しかしこの時、ヨシュアは恐れました。モーセがいなくなったからでしょうか。自分の決断、判断によってイスラエルの命運を決めるという責任の重さの故でしょうか。年齢ということもあったかもしれません。これからの困難、それはカナン人との戦いの困難に加えて、イスラエルの民が自分についてくるかどうかという不安もあったでしょう。経験を積んだが故に、これから起こるであろう様々な厳しさ、困難さの予想がつき、それ故に恐れたということなのかもしれません。若いということは素敵なことです。分からない、見通しが立たない、だから恐れない、ということもあるのです。経験を積むということは、良いことばかりではありません。この時のヨシュアは40年前のヨシュアとは違っていました。しかし、神様は変わりませんでした。
3.二つの命令と二つの約束
ヨルダン川を前に恐れを抱いていたヨシュアに与えられたのが、今朝の御言葉です。ここで神様は、二つの命令と二つの約束を与えられました。
二つの命令というのは、
@「強く、雄々しくあれ。」ということと、
A「律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」の二つです。
そして、二つの約束というのは、
@「主が共にいる。」ということと、
A「行く先々で栄え、成功する。」というものでした。
4.二つの命令
「強く、雄々しくあれ。」これは6節、7節、9節と三回も繰り返されています。しかし、この命令は、言われたからといって、そう出来るものでもないと思われる方もおられるでしょう。私共は弱く、女々しいのです。そのような私共にとって、「強く、雄々しくあれ。」と言われても、言われて出来るくらいなら苦労はないのです。
しかし、神様は私共の弱さや不安、恐れてしまう姿を知らないはずがありません。神様はそんなことは百も承知です。承知の上でこう告げておられるわけです。神様がヨシュアに告げ、そして私共にこのように告げられるのは、私共の性格とか精神力によって「強く、雄々しくあれ。」と叱咤激励して言われているのではありません。私共が「強く、雄々しく」あることが出来るのは、自らの力によってではないのです。ここで神様は「ただ信仰によって歩め。」と言われているのです。その時、私共は初めて、「強く、雄々しく」なることが出来るのです。
それが二つ目の命令、「律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」ということです。律法をすべて忠実に守るとは、ファリサイ派の人々のように、生活上の細々とした規則を作り、それで生活をがんじがらめにするということではありません。聖書に親しみ、聖書に聞いて、祈って、神様との親しい交わりの中に生きることです。8節を見ますと、「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。」とあります。「律法の書」というのを、私共は「聖書」と読み換えて良いでしょう。聖書の言葉に親しみ、口ずさみ、主の御言葉と共に生活するのです。時代の風潮、常識といったものは変わっていきますので、私共の為すことも変わっていかなければならない面もあるでしょう。しかし、私共の生活の基本、基準は聖書です。そして、聖書を通して私に語りかけてくる神様の言葉、促しをしっかり聞き取って、これに従っていくということです。
昨日、2017年最後の主の日の礼拝において、私共は「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」との御言葉を受けました。この神様の招きの言葉をしっかり受け止めて、主の日の度毎にここに集い、御言葉を受けて、主との交わりの中に生きる。これを抜きにして、神様との親しい交わりに生きることは出来ません。その時、私共は、自分が自分の力で立っているのではないことを知らされ、全能の父なる神様の御手の中に生かされている自分を発見するのです。そして、この全能の父なる神様の御手の中にあるから、私共は「強く、雄々しく」あることが出来るのです。自分の見通しや力や計算に頼る限り、私共は「強く、雄々しく」あることなど出来るはずもありません。しかし、右にも左にもそれることなく神様の言葉と共に、神様の言葉に従っていくならば、そのように生きていこうと心に定めるならば、私共は必ず不思議な平安を与えられるのです。
ヨシュアの前にはヨルダン川がありました。この川を渡らなければ約束の地にはたどり着けません。また、約束の地に着いても、カナンの地に住む人々との戦いは避けようがない。それでもヨシュアは渡らなければならないのです。しかし、どうやって渡るのか。自分の計画に従ってか。自分の能力を信じてか。そうではない。ただ神様を信じてです。神様を信じるとは、今生きて働いてくださっている神様、私共を愛し、全能の御腕をもって私共を守り、支え、導いてくださっている神様を信じるということです。
5.二つの約束
そして、ヨシュアに与えられた約束は、主が共にいてくださるというものでした。主が共にいるということは、ただ共にいるだけということではありません。5節b「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と神様は言われました。モーセは死んでしまった。しかし、ヨシュアはずっとモーセのそばにいて、主なる神様が何をしてくださったか、つぶさに見ておりました。イスラエルの民がモーセに反抗したことも何度もありました。もうダメだと思うようなこともありました。しかし、神様はその度に具体的な出来事を起こしてモーセを守り、イスラエルの民を導き、このヨルダン川まで来たのです。神様がモーセと共にいてくださったことをヨシュアは知っていました。そして、その神様は今、ヨシュアと共にいてくださる。見放すことも、見捨てることもしないと約束してくださるのです。だから、「強く、雄々しくあれ」なのです。
第二の約束は、8節b「そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」との約束です。この約束は、3〜4節の言葉と重なります。3〜4節「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。」ヨルダン川を渡れば、そこには強く大きな民がいるわけです。人間の目には、イスラエルは戦いに敗れ、カナンの地から追い出されるか、滅ぼされてしまう、そう見えても仕方がない状況だったことでしょう。しかし、神様は、「そうではない。」と言われるのです。「わたしが共にいて事を起こし、あなたを守り、与えると約束した土地を与える。だから大丈夫だ。」と言われるのです。主が共にいて道を開いていってくださいますから、その主に従っていくならば私共は必ず守られるのです。
この「必ず栄え、成功する」というのは、目に見える成功だけを意味するのではないでしょう。これは私共の霊的成長をも指しています。神様が生きて働いて、私共と共にいてくださることを様々な出来事をもって示してくださり、それによっていよいよ私共が主を愛し、主を信じ、主に従う者となっていく。そういう約束として受け取って良いと思います。良いことだけが起きるわけではありません。しかし、その出来事を通して、神様の栄光が現れる。私共はその御業の道具として用いられる。それは、私共の思いを越えた成功です。それが約束されているということです。
6.変わらぬ神様の言葉
先程、使徒言行録18章をお読みしました。ここには、パウロのコリント伝道が記されています。パウロは神様から御言葉を受けました。9〜10節「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」この言葉に従って、パウロはコリントでの伝道を行いました。ここでパウロが与えられた言葉も、ヨシュアに与えられた言葉と基本的に同じです。「恐れるな。」「わたしが共にいる。」「あなたに危害を加える者はいない。」「この町にはわたしの民が大勢いるから、あなたの伝道は進展する。」神様は、ヨシュアにもパウロにも同じ御心を示して、言葉を与え、励まし、導かれました。その同じ神様が、今日私共に言葉を与えられました。
何が起きるのか誰も知らない2018年という新しい年を歩み出すにあたって、神様は私共に二つの命令と二つの約束をしてくださいました。「強く、雄々しくあれ。」「わたしが共にいる。」「わたしの言葉に従って、右にも左にもそれるな。」「必ず成功する。」そう告げてくださいました。
私共には様々な課題がありますし、楽観的な見通しを皆が持っているわけでもありません。自分の健康のこと、家族の介護のこと、新しい仕事のこと、職場での課題、子どもの進学のこと、それぞれでありましょう。そして、この年、私共の人生において何が起きるのかは誰も知りません。しかし、神様は御存知ですし、その神様が「強く、雄々しくあれ。」「わたしが共にいる。」「右にも左にもそれるな。」「行く先々で必ず成功する。」との言葉を与えてくださいました。ヨシュアが、この神様の言葉に押し出されてヨルダン川を渡ったように、私共もまた、この神様の言葉を信じ、この言葉に押し出されて、新しい2018年の歩みを歩み出してまいりたいと思います。そして、2018年の終わりには、この神様の言葉はまことに真実であったと証しすることの出来る群れでありたいと思うのです。それぞれが、自分の願いや思いを超えて、主が求められるならと信仰による一歩を踏み出して、そこで生ける主と出会っていく、神様の恵と真実に出会っていく、そのような一年でありたいと心から願うのであります。
[2018年1月1日]
へもどる。