富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「神の御子の到来」
イザヤ書 11章1〜10節
ルカによる福音書 2章1〜7節

小堀 康彦牧師

1.受洗者が与えられて
 今朝私共は、主イエス・キリストの誕生を喜び祝うためにここに集っています。そして、この礼拝の中で一人の姉妹が洗礼を受けます。本当に嬉しいことです。この姉妹は教会員のM・Mさんのお孫さんで、幼い時から、多分本人の記憶にない時から既に教会に来ていたのではないかと思います。
 教会にとって、洗礼ほど嬉しい出来事はありません。この喜びは、教会員が一人増えるからといった、つまらない喜びではありません。洗礼の出来事は、神様が今も生きて働いてくださっていることを、最も明瞭な形で私共に示してくれるのです。主は生きておられる。神様は私共を愛してくださっている。神様の救いの御業はその完成に向かって進行中である。そのことを、洗礼の出来事は私共にはっきり示してくれるのです。だから嬉しいのです。神様の救いの御業を目の当たりにする喜び、嬉しさです。
 多分、洗礼を受ける本人は、そのことがまだよく分からないだろうと思います。私もそうでした。洗礼というものは、それを受ける者よりも、周りの者の方がずっと喜んでいるという不思議な出来事です。それは、この出来事が聖霊の御業だからです。洗礼を受けた時点では、まだ聖霊の御業ということがよく分からないものなのです。しかし、少しずつ神様のお働きに目が開かれる中で、洗礼に与ったということが、どんなにすごいことであるかが分かっていく。そういうものです。

2.家族の喜び、教会学校教師の喜び
 洗礼は教会全体の喜びですけれど、特に、信仰が与えられている家族にとっては本当に格別に嬉しいことでしょう。それはすべてのキリスト者に与えられるものではありません。特別な恵み、特別な祝福です。そしてまた、今回の場合は、教会学校の教師たちにとっても、大きな喜びでありましょう。10年以上にわたって毎週聖書の言葉を説き明かし続け、夏期学校を始め色々な行事を行い、その準備でへとへとになりながらも何とか神様の愛を伝えようとしてきた。それがこの洗礼へと繋がったわけです。教会学校の教師たちにとって生徒が洗礼を受けるということは、何よりも神様からの一番のプレゼントです。これもまた、誰にでも与えられるというわけではない、特別な恵み、特別な祝福です。
 前任地で50年以上にわたって教会学校の先生・校長をしておられて長老が、高校生になった教会学校の生徒が洗礼を受けた時、「本当にいいもんじゃなぁ〜。教会学校の生徒が洗礼を受けるのを見るのは2回目だ。本当にいいもんだ。」と言われたことを思い起こします。前任地では、教会学校の生徒のほとんどは、中学生になると来なくなります。そして、高校を卒業すればみんな町を出て行きます。教会学校の生徒が洗礼を受けるのを見ることが出来るというのは、すべての教会学校の教師に与えられる恵みではありません。そうであればこそ、教会学校の教師にとって、今日は本当に嬉しい、喜びの日なのです。

3.洗礼を受ける者に
 今回洗礼を受ける姉妹はまだ高校生ですから、これから色々なことがあるでしょう。神様は本当に私を愛しているのかと思うような出来事にも遭うかもしれません。しかし、神様の愛は少しも変わりません。全くぶれません。そのことは、イエス・キリストというお方を見る時、はっきりします。しかし、このお方を見るという一点を外しますと私共は、自分に都合の良いことがあれば「神様は私を愛している。」と思い、都合の悪いことがあれば「神様は私のことなんて愛していない。」と思ってしまうのです。これは全くの勘違いです。神様は私共を愛したり、愛するのを止めたりするようなお方ではありません。自分の都合で神様の愛を判断してはいけません。私共への神様の愛は、イエス様に現れています。ですから、どんな時でもイエス様を見る。イエス様に心を向ける。そのことを忘れてはなりません。イエス様の言葉に、イエス様の姿に、神様の愛ははっきり現れています。
ここに、私共への揺るがぬ愛の根拠があります。

4.小さな出来事だった最初のクリスマス
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様の誕生、クリスマスの出来事が記されております。毎年クリスマスが来る度に読まれ、聞いてきた御言葉です。幼子たちもページェントで演じてきた話です。この聖書の話で明らかにされているのは、世界で最初のクリスマスの出来事は、誰も気にも留めないような小さな小さな出来事だったということです。
 イエス様のお父さんは大工のヨセフ。お母さんは、まだ幼いと言っても良いほどのマリア。多分14、5歳ではなかったかと思われます。生まれた所は馬小屋、寝かされた所は飼い葉桶です。ヨセフとマリアは旅先で出産しました。この出来事は誰も注目しない、世界の片隅で起きた小さな小さな出来事でした。もし、当時のユダヤに新聞があったとしても、それに載るような出来事ではありませんでした。ローマ皇帝アウグストゥスが人口調査をするように命じ、それで人々が移動し、混乱した様子は新聞に載ったでしょう。しかし、その動きの中で、ベツレヘムという町で一人の男の子が生まれたということは、誰も気にも留めていなかったことでしょう。クリスマスの出来事はそんな小さな出来事でした。

5.聖霊によって知らされなければ
 確かにイエス様の誕生は、この地上においては小さな出来事でした。マリアとヨセフ、それに何人かの羊飼いたちだけに、これは救い主の誕生という、天地始まって以来の大きな出来事であることが知らされました。そう、この出来事は知らされなければ分からないのです。知らされない者にとっては、何が嬉しいのか、何が喜ばしいのか、さっぱり分からないのです。それは今でも同じです。
 昨日、夕方からキャロリングを行いました。教会員の家を訪ねて、クリスマスの歌、キャロルを歌います。昨日は月がきれいでした。寒い夜空に讃美歌が響く。教会員の方が出て来て一緒に歌う。大きな声で歌うものですから、何事かと周りの家のカーテンが開けられたりしました。けれど、すぐに閉められてしまいます。きれいな歌声だなと思って家の中で聞いていた人もいたでしょう。しかし、うるさいなと思った人もいたでしょう。神様から知らされていない人にとって、クリスマスは今でも、何が嬉しいのかさっぱり分からない出来事なのです。しかし、イエス様が誰であるかを知らされた者にとっては、賛美しないではいられない、本当に嬉しい、これ以上喜ばしいことはないほど喜ばしい出来事なのです。イエス様が来てくださったから、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る「今の私」がある。イエス様が来てくださったから、神様に愛されているということを知っている「今の私」がある。イエス様が来てくださったから、神の御国に向かって生かされている「今の私」がいる。神様から生きる力と勇気とを与えていただいている「今の私」がいるからです。

6.飼い葉桶と十字架
 クリスマスの出来事は、この日生まれた方が神の御子であるというところがポイントです。ただの赤ちゃんの誕生ではありません。そこで、昔からこんな話がされてきました。飼い葉桶と十字架の話です。「昔、枝が二つに分かれた大きな木があった。一方の枝は、生まれたばかりのイエス様を寝かせるための飼い葉桶になった。そして、もう一方の枝はイエス様の十字架になった。」これが事実であるかどうか、そんなことはどうでもいいのです。この話は、イエス様が飼い葉桶に寝かされたということと、イエス様が十字架にお架かりになったという出来事とが一つながりのことなのだ、一つの神様の御心の現れなのだということを示しています。
 そうなのです。クリスマスを私共が喜び祝うのは、クリスマスに生まれたイエス様が、私のために、私に代わって十字架にお架かりになってくださった方だからです。神の御子であるイエス様が飼い葉桶に寝かされたのは、どんな小さな者、弱い者、貧しい者とも共にいる、決して見捨てない、必ず救うという神様の御心の現れでした。そして、この御心がはっきりと示されたのが十字架です。イエス様の十字架の救いに与ることが出来ない人は一人もいません。ただこの方を我が主、我が神と信じ、告白するならば、人種も、性別も、年齢も、社会的地位も、立場も、金持ちも貧乏な人も、病人も健康な人も、才能のある人もない人も、そんなことは一切関係なく、一切の罪を赦され、神の子とされ、永遠の命に与る者とされるのです。

7.ページェントで兵隊がイエス様を拝んでいいの?
 アドベントの日々を過ごしている時、ある幼稚園の園長先生からこんな電話がありました。「ページェントの最後はいつも、出演した子どもが次々にイエス様の所に来てイエス様を拝むことにしています。今年のページェントでは兵隊も出演するので、兵隊もイエス様の所に来てイエス様を拝むことにしたのですが、これで良いでしょうか。」という相談の電話でした。兵隊というのは、マタイによる福音書に出て来る、東方の博士たちがヘロデ王の所に行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」という場面で、ヘロデ王の周りに何人かの兵士たちを立たせのでしょう。この兵隊については、ヘロデ王に命じられてベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしたという記事がすぐその後に記されているわけで、イエス様を拝むどころか二歳以下の男の子たちを殺してしまうわけです。イエス様を拝むというのは、聖書が記していることと全く違うわけで、それで、どうしたものかと困って園長先生は電話をかけてこられたわけです。園長先生としては、ページェントに出演した子ども全員がイエス様を拝むということにしたいわけです。でも、それでは聖書と違うことになってしまう。皆さんはどう考えるでしょうか。
 私はこう答えました。「全く問題ありません。ページェントの最後の場面、あれは終末の出来事を示しているのです。すべての者がイエス様を拝むようになる。それはイエス様が生まれた時のことではなくて、終末において起きることです。あの最後の場面は、それを先取りしているということです。終末論的に見れば全く正しいのです。みんなイエス様を拝むようになるのです。だから、問題ありません。だって聖書には、星がイエス様を拝んだ、天使たちがイエス様を拝んだ、羊たちがイエス様を拝んだとは書いていないでしょう。」
 その園長先生は、みんながイエス様を拝むようになって欲しい、そう願い、そう祈って保育を続けて来た。その思いが、兵隊もイエス様を拝むようにしたいという形になったのでしょう。それは正しいと私は思いますし、その園長先生の思いも御心に適ったことです。どんな罪人も決してイエス様の救いから除外などされてはいないからです。だって、私共は皆、二歳以下の男の子たちを殺したあの兵隊のような者だったでしょう。しかし、こうしてイエス様を拝んでいる。ページェントの最後の場面は、もうここに現れているのです。終末は既にここに来ているのです。

8.天上と地上において響き合う礼拝
 この時期、我が家にはクリスマスカードが届きます。夫婦でお茶を飲みながら、それを読むのが一日の終わりの楽しみです。先日ある方からいただいたカードにこんな言葉がありました。クリスマスカードというよりも手紙と言った方が良いものでしたが、その中で、今年は私の母と妻の母の二人を天に送ったことに触れて、こんな言葉を書いてくださったものがありました。「昨年アドベントに拝見したあの祝福されたご家族は、今年は天と地に拡大され、双方からのスケールの大きな礼拝となりますね。」という言葉です。私共からの去年のクリスマス・カードには、私の母と私共夫婦とちょうど旅行で来ていた妻の両親とが写っている写真を付けましたから、それでこのような言葉をくださったのです。何と素敵な、慰めに満ちたクリスマスの便りかと心に響きました。
 私共のこの礼拝は、天上の礼拝と響き合っているのです。先に天に送った愛する者たちも、代々の聖徒たちと共に、天上の礼拝において、父なる神様をほめたたえている。私共の賛美は、天上の賛美と一つになって、父なる神様に捧げられているのです。

9.飼い葉桶は私自身
 イエス様は飼い葉桶に寝かされました。宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所がなかったからですが、この飼い葉桶は私共自身を指し示しているのでしょう。私共の心は、まことに我が儘で、自分勝手で、神様を敬うことも畏れることも知らない傲慢に満ちていた。まさに、見るべき所など何一つない、貧しく、汚く、臭い心です。しかし、そんな私共の中にイエス様が宿ってくださる。そして、愛の灯を点けてくださり、私共のまなざしを天に向けさせてくださる。神様の愛の中に生かされている喜びで満たしてくださる。まことにありがたいことです。この救いの恵みを与えてくださった神様を、イエス様を、共々にほめたたえたいと思います。 

[2017年12月24日]

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