富山鹿島町教会

礼拝説教

「来たるべき方は」
イザヤ書 35章1〜10節
ルカによる福音書 7章18〜30節

小堀 康彦牧師

1.アドベント第三の主の日を迎えて
 アドベント第三の主の日を迎えています。来週の主の日には、クリスマス記念礼拝、祝会、キャンドルサービスと続きます。いよいよクリスマスが間近になってまいりました。クリスマスと言えば、子どもたちのページェント(降誕劇)を思い起こします。昨日は「子どものクリスマス会」があり、教会学校の子どもたちによるページェントが行われました。その台本は、毎年子どもに合わせて教会学校の先生が書いています。子どもが少なくなり、今年は羊飼いに天使がイエス様の降誕を伝える場面だけのものでしたが、子どもたちは良くやってくれました。多くの教会で行われている「子どものクリスマス会」は教会学校の生徒のクリスマス会です。しかし、私共の教会の「子どものクリスマス会」は、教会学校の子どもたちが、教会に来ていない子どもたちを前にページェントをしたり、ミュージックベルの演奏をしたり、腹話術があったりと、子どもを対象にした伝道集会というようなものになっています。以前に比べますと子どもたちの出席は少なくなってきてはいますけれど、いつもは教会学校に来ていない子どもたち、そしてその保護者の方々に、クリスマスの喜びを伝える大切な時です。ここから教会学校やあいあいの会に集う子が起こされることを願っています。

2.洗礼者ヨハネ
 さて、この子どもたちが演じるページェントにおいて、洗礼者ヨハネのことが出て来ることはまずありません。しかし、四つの福音書は、イエス様のことを語る前に必ず、洗礼者ヨハネの誕生や活動について記しています。洗礼者ヨハネ抜きに、いきなりイエス様の話をしてはいないのです。中でもルカによる福音書には、イエス様の誕生、クリスマスの出来事に先立って、洗礼者ヨハネの誕生の出来事が記されているほどです。1章はヨハネの誕生、2章がイエス様の誕生となっています。
 これは、イエス様の誕生、イエス様の存在、そしてイエス様の活動というものが、洗礼者ヨハネと繋がっている、そのことを福音書は意識しているということでしょう。どう繋がっているかと申しますと、イエス様がメシア、救い主であり、洗礼者ヨハネはその道を備えるために先に遣わされた者という関係です。これは、預言者たちによって預言されていたことでした。救い主はいきなり来るのではなくて、その前に道備えをする者が遣わされる。そう預言されていました。つまり、四つの福音書は、イエス様の誕生、救い主の到来というものが、旧約の預言の成就であり、長い長い神様の救いの御計画の成就であると告げているのです。
 この洗礼者ヨハネですが、イエス様に先立って、人々に悔い改めるように求め、ヨルダン川において洗礼を授けるという、ユダヤ教の信仰刷新運動を展開しておりました。イエス様もまた、このヨハネから洗礼を受けました。それで「洗礼者ヨハネ」、或いは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるわけです。彼は、ガリラヤの領主ヘロデによって殺されます。領主ヘロデ、これはイエス様がお生まれになった時に二歳以下の子どもたちを殺した、あのヘロデ王ではありません。このヘロデ王はヘロデ大王と呼ばれる人です。一方、洗礼者ヨハネを殺した領主ヘロデはその息子です。この領主ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であるヘロディアと結婚しまして、そのことを洗礼者ヨハネは、道から外れていることだと批判致しました。そのことによって、洗礼者ヨハネは領主ヘロデによって牢に入れられてしまったのです。その牢の中から、自分の弟子たちをイエス様の所に遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねさせた。それが、今朝与えられている御言葉の場面です。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデの誕生日の宴の席で、ヘロディアの娘の舞の褒美に首をはねられてしまうのですが、それはこの後のことです。

3.洗礼者ヨハネ、主イエスに問う
 洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授ける時に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに。」(マタイによる福音書3章14節)と申しましたし、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(マタイによる福音書3章11節)と申しました。彼は、自分がイエス様に先立って遣わされた者であるということを自覚していました。しかし、牢に入れられると、弟子を二人遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(19節)と尋ねさせたのです。イエス様が誰であるかを知っていたはずのヨハネが、どうしてこのような質問をイエス様にしたのか。二つの理解が出来ます。一つは単純に、ヨハネといえども牢に入れられて不安になった、というものです。もう一つは、先生が捕らえられて不安になっているヨハネの弟子たちのために、自分はイエス様の前に遣わされた者であって、本当にお前たちが仕えなければならない方はイエス様なのだということを教えようとした。どちらも考えられます。「来たるべき方」というのは、神の民を救うために来られる方、救い主のことです。洗礼者ヨハネは、イエス様に、「あなたが救い主、メシア、キリストですか。」と弟子たちに尋ねさせたのです。

4.出来事で答える主イエス
 この時、イエス様は「そうです。」とか「違います。」という言い方でお答えにはなりませんでした。そうではなくて、「わたしによって為されている業をヨハネに伝えなさい。」と答えられたのです。21〜23節「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである。』」ここでイエス様が為さっていた業は、イザヤ書35章5〜6節の成就でした。イザヤ書35章5〜6節には「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」とあります。「その時」「その時」と繰り返されています。「その時」とは「神は来て、あなたたちを救われる」(イザヤ書35章4節)時です。つまりイエス様は、このイザヤの預言通りのことがここで起きていると告げることによって、神様の救いの時が来ている。救い主は来た。そのことを伝えようとされたのです。自分が救い主であると言うだけなら誰にでも出来ます。いつの時代でも、そのように言う人が出て来ます。今の時代にもいます。いわゆる教祖です。しかし、イエス様は出来事をもってヨハネにお答えになった。全能の神様は、出来事をもって私共の上に臨まれるのです。そしてイエス様は、その出来事が預言者の語っていたことの成就であることをはっきり意識してお答えになったのです。イエス様の到来は長い長い神様の救いの御計画の成就であることを、イエス様御自身がお告げになったということです。

5.イザヤ35章の預言(1)
 では、イエス様が救い主であることを告げる預言の一つであるイザヤ書35章を見てみましょう。5〜6節がイエス様の為された奇跡を指し示していることは見ました。このイザヤの預言は、先週も申しましたように、紀元前722年にアッシリアによって北イスラエル王国が滅んでしまう、そういう時代に告げられた預言です。南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされるのは紀元前587年のことです。イザヤはこの二つの大事件、神の民の国が滅んでしまう、そういう現実を見据えつつも、その出来事の向こうにある、神様による救いの到来を告げています。
 1〜2節「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」イザヤの目の前にあるのは「荒れ野」であり「砂漠」です。巨大な軍事力によって踏みにじられ、国を失い、生きる力も希望も失った神の民。もう何も生み出さない不毛の大地。そこに住む者に過酷な生活を強いる「荒れ野」と「砂漠」。生きようとする意志も奪っていくような過酷な状況。しかし、それが変わるという。荒れ野に砂漠に花が咲くというのです。レバノン、カルメル、シャロンというのは、イスラエルの誰もが知っている、肥沃で豊かな土地です。季節になれば花々が咲き乱れる穏やかな土地です。荒れ野も砂漠もそのように変えられるというのです。それは自然にそうなるのではありません。神様がこの歴史の中に介入され、そのように変えてくださるというのです。荒れ野のような人生、砂漠のような人生、それが変えられるというのです。神様によってです。
 3〜4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」神様が来る。そして救ってくださる。だから、「雄々しくあれ、恐れるな。」とイザヤは告げるのです。洗礼者ヨハネは、ヨハネの弟子たちは、恐れていたのかもしれません。彼らだけではありません。イエス様のもとに来た多くの人々は皆、恐れを抱いていた。私共もそうです。生活のこと、健康のこと、子どものこと、最近は北朝鮮の核やミサイルの問題も私共に不安を与えます。しかし、聖書は告げます。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる。」そうです。イエス様は来られた。私共を救うために来られた。神様の救いの時は始まっている。私共はこの方を見る。この方を見なければ、私共は、自分を取り巻く様々な状況の中で、ただ不安と恐ればかりが大きくなってしまうでしょう。イエス様は、不安の中で「来たるべき方は、あなたでしょうか。」と問うヨハネの弟子たちに向かって、「イザヤの預言がわたしによって成就しているではないか。だから、恐れるな。神様の救いの時はもう来た。だから、安心しなさい。」そう告げられた。
 イエス様は来られた。神様の御子が、神様が、この世界に天を引き裂いて降られた。そして、私共の中に宿られた。だから、荒れ野が砂漠が変わる。私共の弱った手も、よろめく膝も、強くされる。希望と喜びを持って生きる者となる。もうダメだと思うような状況の中でも、ダメじゃないと言い切れる。神様が事を起こしてくださるからです。「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」(5節)とイザヤは告げた。これは、肉体の目や耳だけを言っているのではないでしょう。私共の霊的状態をも指しています。私共の目は、自分の身の回りのことしか見えませんでした。しかし、イエス様が私の所に来てくださって、私の目を神様に向かって、神様の御業に向かって、開いてくださった。そして、神様は今、私のために生きて働いておられることを教えてくださいました。私共の耳は、人間の声や自然の物音にしか開かれていませんでした。しかし、神様の言葉を聞くように開かれました。そして、私共の口は神様をほめたたえるために開かれ、神様を賛美し歌うために開かれるようになりました。
 神様の御業を見、神様の言葉を聞き、神様をほめたたえるために喜び歌う。神様の救いは、確かに私共のもとに来ている。神様が私のもとに来て、私を救ってくださった。これは本当のことです。だから、私共はこうして礼拝を捧げています。実に、この礼拝に与る私共こそ、このイザヤが見ていた、神様によって救われた者の姿なのです。もちろん、この救いはまだ完成していません。ですから、私共はしばしば見えなくなるし、聞こえなくなるし、不安や恐れを覚え、不平や不満ばかり言ってしまう。でも、もう神様の救いの御業は始まっています。だから、私共はクリスマスを喜び、楽しみ、待っているのです。

6.イザヤの預言(2)
 イザヤは、この救いに与った者たちの群れが大きな道を歩いて行くイメージで語ります。8節「そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。」この「大路」とは、広い大きな道ということですが、ここでのイメージは戦いに勝利した王が堂々と大軍を率いて通る凱旋道路のことです。凱旋パレード用の道ですね。古代、戦いに勝利した王は必ず凱旋パレードをしたのです。その為に道が造られたのです。幅5メートルや10メートルの道ではありません。幅50メートルにもなるような、広く大きな道です。野球やサッカーで日本一になったチームがパレードをしますけれど、その何十倍という規模のものをイメージしていただければ良いと思います。このパレードの先頭には「主御自身がその民に先立って歩まれ」ます。私共は既にこのパレードの中に入っています。パレードを見物しているのではなくて、パレードの列に加わって、先立つイエス様の後について歩んでいるのです。
 9節「そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。」この道は、主が先立ってくださるから、安全この上ないのです。確かに、この地上の私共の信仰の歩みの上では、様々な誘惑があります。しかし、この先立ち給う主の後に従って行くならば、私共は必ず救いの完成へと導かれていくのです。先立ち給う主に付いて行かず、自分で道なき所へと行って、この主の道から迷い出てしまわない限り、私共は大丈夫です。私共は救いの完成へと向かう、聖なる道を歩んでいるのです。その道は細く暗い、でこぼこした道ではありません。一人でとぼとぼと歩く道でもない。神様が敷いてくださった広く大きな道です。
 9節b〜10節「解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」その道をイエス様が先頭に立ち、イエス様に従う私共、イエス様によって一切の罪を赦していただき、罪の縄目から解き放たれた私共が、鹿のように躍り上がりながら、主をほめたたえる賛美を口にしながら、みんなで歩んでいくのです。この「シオン」とは、エルサレム神殿のある丘を指す地名ですけれど、これは聖書においては、救いが完成されること、或いは神の国を指す言葉として用いられます。
 「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」これが、救いの完成において私共に与えられるものです。荒れ野や砂漠と思われていた私共の人生から、嘆きと悲しみが逃げていくのです。喜びと楽しみに満たされるのです。その全き命に向かって、私共は歩んでいる。この命はイエス様の復活の命であり、永遠の命です。それが既に私共に注がれている。来たるべき方が既に来られたからです。どこに。ここにです。私共のただ中にです。イエス様が来られたとは、そういうことです。クリスマスは確かに二千年前の出来事です。しかし、イエス様は今も生きて働いて、聖霊なる神様として私共一人一人の人生のただ中に入ってこられ、出来事を起こし、私共を救ってくださった。ですから、もう恐れることはありません。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる。」

[2017年12月17日]

メッセージ へもどる。