1.アドベント第二の主の日を迎えて
アドベント第二の主の日を迎えています。週報に記してありますように、昨日は富山三教会の中高生クリスマス会が当教会で行われました。また先週は、礼拝に集えない五人の方々の所を訪ねて、訪問聖餐が行われました。明日も二人の方を訪ねます。今週の金曜日には市民クリスマス、土曜日には子どものクリスマス会が行われます。水曜日にはアドベント祈祷会も行われます。毎日のように、クリスマスを喜び祝う集いが行われていきます。毎年この時期になると思うことですが、クリスマスの喜びは12月の25日まで待っていなければいけないというものではない。アドベントの日々、私共は、まだクリスマスは来ていないけれど、既にその喜びの中を生きている。そして、このあり方こそ、イエス様が再び来たり給うを待ち望む私共の姿なのです。再臨のイエス様はまだ来ていない。しかし、その日を待ち望みつつ、既にその喜びの中を生きている。それは、救い主を待ち望んだ旧約の民も同じでした。
私共はアドベントの日々を歩みながら、壮大な神様の救いの御業の時、大いなる救いの御計画の中を生きているということを改めて思わされるのです。日々の生活の中で、私共は自分の目の前のことにしか心が向いていないという現実があります。忙しければ忙しいほど、大変なら大変なほど、苦しければ苦しいほど、そうなってしまいます。しかし、このアドベントの日々、私共の心はクリスマスに向かいます。イエス様が来てくださったこと、やがて再び来られること、そこに向けられます。そして、そこから射し込んでくる光の中を歩む。昨日、私は「ああ、今年はまだクリスマスカード作りに手も付けていない。こりゃ大変だ。」と思ったりして、慌ただしく忙しいには違いないのですけれど、この忙しさがクリスマスに向けてのことだと思う時、私のまなざしがイエス様に向けられていることを改めて思い、ありがたいことだなと思うのです。イエス様を知らなければ、イエス様の救いに与っていなければ、この忙しさもなかった。喜びの中での忙しさということも知らなかったわけです。本当にありがたいことだと思うのです。
2.イザヤ書における救い主の到来の預言
今年のアドベントの主の日は、イザヤ書から御言葉を受けています。イザヤ書における救い主を預言した箇所として有名な所は、7章14節「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」、9章5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」、11章1〜2節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」といった所があります。これらの箇所は新約聖書にも引用され、讃美歌で歌われ、私共には馴染みが深い所です。これらについては二年前のアドベントの時に見ましたので、今年はそれ以外の所にしました。今挙げた三ヶ所は有名ですが、そこだけがイエス様の到来、救い主の到来、神様による救いの御業を預言しているわけではないのです。幼子が生まれるというような表現はなくても、神様の救いの御業を見ている所はたくさんあります。今朝与えられている御言葉は、その中の一つです。
私共が旧約は苦手と思う理由の一つは、それが語られた時代背景がよく分からないということがあるかと思います。まず、その辺りのことを少しお話しいたしましょう。
イザヤが預言者として召されたのは、紀元前740年頃と考えられています。それから約40年間、イザヤは預言者として活動しました。この時代、アッシリア帝国がメソポタミアに興り、それによってイスラエルが滅ぼされるという、大変な危機の中でイザヤは預言者として召され、神様の言葉を告げました。少しややこしい話になりますが、イザヤ書の39章までは今申し上げた時代なのですが、40章以降はそれから150年くらい後の時代となります。当時この地方には、アッシリアに代わって興ったバビロニア帝国が迫っておりました。同じような危機の時代ですけれど、具体的な相手が違う。39章まではアッシリアですし、40章以降はバビロニアです。それは時代が違うからです。ですから、39章までを第一ユザヤ、40章以降を第二イザヤと言ったりします。
3.イザヤ書2章が告げられた歴史的背景
今朝与えられておりますのは、第一イザヤの時代です。当時イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しておりました。ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル王国は、ソロモンの後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまったのです。紀元前922年のことです。それから200年後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされました。紀元前722年のことです。そして、アッシリアの大軍は更に南に下り、エルサレムを囲みました。紀元前701年のことです。もう、エルサレムは風前の灯火です。この時の南ユダ王国の状況は、イザヤ書1章4〜9節に記されているとおりです。「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民、悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。何故、お前たちは背きを重ね、なおも打たれようとするのか、頭は病み、心臓は衰えているのに。頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、包まれず、油で和らげてもらえない。お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で異国の民が食い尽くし、異国の民に覆されて、荒廃している。そして、娘シオンが残った、包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑の見張り小屋のように。もし、万軍の主がわたしたちのためにわずかでも生存者を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう。」
ユダの人々は神様に頼らず、自分の策略で何とかこの危機を逃れようとしました。弱い者は虐げられ、神の民の倫理は地に落ちました。偶像に頼り、生ける神に背を向けました。兄弟の国である北イスラエル王国は、南ユダ王国と同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしました。しかし、南ユダ王国は応じません。北イスラエル王国は、それならばとシリアと手を組んで南ユダ王国を攻めます。これがシリア・エフライム戦争です。この時、南ユダ王国は、何とアッシリアに援軍を要請したのです。アッシリアは堂々と、南ユダ王国を助けるという名目でシリアを、そして北イスラエル王国を滅ぼしました。しかし、アッシリアの野望はそこで止まるはずもなく、アッシリア軍は更に南ユダ王国にも迫ってきたのです。南ユダ王国の町は次々とアッシリアの手に落ち、町は焼き払われ、畑は踏みにじられました。そして、ただエルサレムだけがポツンと残されました。そのエルサレムをアッシリアの大軍が幾重にも囲みます。第一イザヤが預言者として召されてから40年。第一イザヤ晩年の預言が1章、2章には記されています。今までイザヤは、「人に頼るな。偶像に頼るな。神の民として、生ける神にのみ頼れ。」そう語り続けてきました。しかし、人々はイザヤの声に耳を貸すことなく、アッシリアが台頭すればこれに頼り、アッシリアが攻めてくればエジプトに頼りました。イザヤは言いました。2章22節「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。」しかし、人々はイザヤの言葉に耳を貸しません。そのような状況の中、イザヤは神様から一つの幻を与えられました。それが今朝与えられている御言葉です。
4.イザヤに与えられた幻
イザヤが与えられた幻は希望に満ちていました。しかし、それは「終わりの日」の幻です。確かにこの時エルサレムを囲んだアッシリアの大軍は、イザヤ書の36〜37章にあるように、一夜にして18万5千人が神様に撃たれ、アッシリアは敗走しました。何が起きたのかは具体的には分かりません。
ここでイザヤが告げた預言は、このアッシリアの敗走を告げていると言う人もいます。それもあるでしょう。しかし、それだけではなかったと思います。イザヤが告げたのは「終わりの日」のことです。イザヤの幻は、三つの場面を重ねて見ていると思います。一つは近未来的なアッシリアの敗北、二つ目はイエス・キリストの到来による平和、そして三つ目はまさに終末において実現される平和です。私共は二つ目のイエス様によってもたらされた平和を知っています。しかしまだ、三つ目の終末において実現される神様の平和を見ていません。
2章2〜3節の幻は、世界中の人々がエルサレムに大河のように続々と集い、神様の言葉、神様の教えを聞くようになるというのです。ここで、具体的なエルサレムという町がそのようになると考えることはありませんし、ユダヤ民族の復興というユダヤ民族主義の下に読んではならないと思います。そのように読む人にとって、先週のアメリカのトランプ大統領による、エルサレムをイスラエルの首都と認めるという発言は大喜びでしょう。しかし、イザヤが見ていた幻はそんなものではありません。
イザヤはこう続けるのです。4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」もはや戦うことを学ばない、戦うということさえ考えなくなるのです。人間の知恵で、努力でそうなるでしょうか。世界に平和が来るでしょうか。そうはならないと私は思います。ある人がこう言いました。「原爆は、核兵器は、軍縮によって世界から無くなるか?無くならない。何故なら、すべての国が核を放棄した時、放棄しない一つの国が最も強くなるからだ。」きっとそうなのだと思います。トランプ大統領の発言によって、中東に平和が来るでしょうか。この預言の成就ならば、そうならなければならない。しかし、そうはならず、新たな火種を生むだけでしょう。
イザヤが告げているのは「終わりの日」の幻です。私共は、この「終わりの日」が始まっていることを知っています。イエス様が既に来られたからです。「終わりの日」は始まっている。しかし、完成されていません。この「終わりの日」を、世界で最初のクリスマスの日に天使たちも見ていました。そして歌った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)
5.銃剣を鋤にして
イザヤ書2章4節の言葉に一つの思い出があります。先の大戦の時、東京神学大学の旧約の先生であった松田明三郎(まつだあけみろう)さんは、学校の宿舎に住んでおられました。当時、誰もがしていたことですが、その小さな庭に芋を植えていました。そして、その畑を木の棒に縄で巻き付けた銃剣で耕されたそうです。その父の姿をはっきり覚えていると、娘さんから聞いたことがあります。幼い娘さんは、どうしてあんな不便な道具で畑を耕すのか分からなかったそうです。キリスト教が敵性宗教と言われていた時代です。東京にも空襲が来るようになる中で、一人の旧約学者は、銃剣を鋤にして畑を耕した。来る日も来る日も耕した。彼は、このイザヤの言葉を信じ、この世界を支配しているのは天皇でも大統領でもない、ただ独りの神、主イエス・キリストの父なる神だ。この戦争はいつまでも続くものではない。必ず平和が来る。主の平和が来る。そのことを自分の心に刻むように、自分に語るように、そうされたのではないかと思うのです。
6.その日に向かって歩む
「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」という平和は、単に戦争がないということではありません。「もはや戦うことを学ばない」のです。戦うということを考えることさえしないということです。私共は、そのような世界をまだ見ていません。残念ながら、クリスマスの時に天使が「地には平和」と歌った「平和」はまだ来ていない。しかし、その平和はもう始まっている。イエス様が来られたことによって始まっている。まだ完成してはいないが、必ず完成する。そのことを私共は信じている。それが、イザヤが5節で告げた「主の光の中を歩もう」ということです。光はこの終わりの日から射し込んできます。国も民族も、男も女も、文化も、生まれも、社会的立場も、富んでいる人も貧しい人も、障害のある人もない人も、老いも若きも、一切の壁が取り除かれ、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う世界が来る。必ず来る。イエス様が再び来られて、その世界が実現される。それがいつなのか、私共には分かりません。しかし、その日が来ることを信じて私共は生きる。その日を信じて、キリストの教会は歩み続けてきましたし、今も歩んでいます。その日に向かって、その日に備えて、為すべきことを為して一日一日生きる。クリスマスに向かって一日一日を歩む私共は、この希望に生きる者の姿、そのものなのです。
イエス様はそのような歩みをする私共のために、祈りを教えてくださいました。「主の祈り」です。その中でイエス様は、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えてくださいました。この祈りは、人間の罪が我が物顔に跋扈する、このどうしようもない現実の中を生きていく私共の祈りです。私共は、御心が天においては完全に成っていることを知っています。そして、その御国が来ることを信じている。だから、その日を目指してこの祈りを祈る。「マラナ・タ」主よ来てください、という祈りも同じです。
私共は、自分の力でこの世界に平和をもたらすことは出来ないかもしれない。私共はまことに小さく弱い者です。しかし、神様は大きく強いのです。マリアはイエス様を身に宿して、こう歌いました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(ルカによる福音書1章46〜48節)クリスマスを迎える者の心。それは主を大きくし、自分を小さくする心です。「主をあがめ」と訳されている言葉は、直訳すれば「主を大きくする」です。主を大きくする。それは、主に期待するということです。私共は自分に期待するのではなく、主に期待するのです。主が与えてくださる終わりの日の平和を待ち望みつつ、主が必ずその平和を与えてくださることを信じ、その日に向かって歩む。そのことが求められているのです。それが、主の光の中を歩むということです。
イザヤは、もう滅んでしまうかもしれない祖国の現状を見ながら、しかしその現実を突き抜けて、神様の与えてくださる平和を見た。神様の愛を信じ、神様が事を起こしてくださる、その神様の御業を信じるようにと幻を与えられた。そして、その幻を神の民に告げて、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」と促したのです。光などどこにも見えないと嘆く神の民に向かって告げたのです。「主の光の中を歩もう。」この光はどこにあるのか。神様の御手の中にある将来、やがて来る神の国、救いの完成。そこから光が来ます。どんな暗い現実によっても消し去られることのない光がそこにはある。私共もこの光の中を歩んで行く者として召されているのです。
[2017年12月10日]
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