富山鹿島町教会

礼拝説教

「天を裂いて降られる神」
イザヤ書 63章15〜19節
マルコによる福音書 13章28〜37節

小堀 康彦牧師

1.アドベントを迎えて
 今日からアドベントに入りました。このアドベントの時、私共は、救い主の到来を待ち望んだ旧約の民の歩みに思いを馳せると共に、イエス様が再び来られることを待ち望む信仰を新たにします。旧約の民は救い主の到来を待ち望みました。そして、新約の民である私共は、救い主イエス様が再び来られること、救いが完成される日を待ち望んでいます。救い主の到来。神様が私共の歴史のただ中に来てくださる。私の人生に介入してくださって出来事を起こしてくださる。そのことを信じ、待ち望みつつ、私共はこの地上の生涯を歩んでいます。
 旧約の民には、預言者が現れて悔い改めを求めると共に、救い主が現れることを告げました。旧約の民はその言葉を信じ、その希望の中で歩み続けました。長い長い間待ち続けました。待ち続けることが出来ました。どうしてでしょう。それは、旧約の民はあの出エジプトの出来事を経験しておりましたので、神様は生きて働き、出来事を起こし、神の民を決して見捨てたりなさらないということを信じることが出来たのです。新約の民である私共とて同じです。イエス様が既に来てくださった。私のために十字架にお架かりになり、私の一切の罪を贖ってくださった。復活されて永遠の命の道を開いてくださった。そのお方が、再び来ると約束してくださった。だから待つのです。待つことが出来るのです。私共は何の根拠もなく、当てもなく、ただ待っているというのではありません。神様は、神の民の歴史に既に介入し、出来事を起こされました。神の民はそのことを知っています。だから、その神様の愛と真実と力を信じ、神の民は待ち続けましたし、私共も待っているのです。

2.イザヤ書の時代背景
 今年のアドベントは、旧約のイザヤ書から御言葉を受けてまいりたいと思っております。イザヤ書には、救い主イエス様の到来を預言している所が幾つもあります。今朝はその内の一つである、イザヤ書63章15節以下の御言葉を聞いていきたいと思います。
 イザヤ書は、その書かれた歴史背景や時代から前半と後半の大きく二つに分けられると考えられています。1章から39章までと、40章以降の二つです。前半の39章までの部分は、アッシリア帝国によって北のイスラエル王国が滅ぼされる、そういう時代です。これを第一イザヤと呼んだりします。西暦で言えば紀元前の8世紀頃です。そして、後半の40章以下は、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされる、そういう時代です。これを第二イザヤと言ったりします。西暦で言えば紀元前6世紀頃のことです。ですから、前半と後半とでは150年〜200年くらいの時代の隔たりがあります。
 今朝与えられている御言葉が告げられた背景には、エルサレムを都とする南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされて民がバビロンに連れて行かれてしまった、あのバビロン捕囚という、まことに辛い悲しみの現実がありました。神の民は、世界帝国のバビロンによって滅ぼされて祖国を失い、信仰の要であったエルサレム神殿も破壊され、自分たちはこれからどう歩んでいけば良いのか分からない、ただただ嘆きの中で途方に暮れている。そのような現実の中で、イザヤはこの言葉を告げたのです。

3.神の民のために、神の民に代わって祈る
 ここでイザヤは、途方に暮れる神の民に代わって、彼らのために神様に祈っています。預言者と言えば、神様の御心を神の民に向かって語ることが主な使命です。しかし、ここでイザヤは、神の民に向かって語るのではなくて、神様に向かって祈っています。深い嘆きの中で途方に暮れる神の民のために、彼らに代わって、彼らを代表して祈っているのです。それは、神の民に祈ることを再び教えるかのようにです。祈りを回復させようとするかのようにです。
 神の民が最も苦しい時、それは祈ることさえ出来なくなってしまう時でしょう。神様は自分をお見捨てになった。神様はもう私のことなど愛しておられない。神様は私のために何もしてくれない。そんな直接的な言葉にはならなくても、本当に苦しく辛い時、私共はそのような思いを抱いてしまうものです。そしてそのような時、いくら祈れと言われても、いくら祈らなくてはいけないと思っても、祈りの言葉さえ出てこない。祈れなくなる。そのようなことがないでしょうか。このような時こそ、神の民にとっての最も危機的状況と言って良いでしょう。
 イザヤはここで、神の民に代わって祈った。そして、そのことによって、神の民に祈ることを教えているのです。目に見える希望を全く持てないような状況の中で、いや、そのような時であるが故に、目の前の現実の向こうにある神様の救いへと、天におられる神様へと目を向けることを、神の民に教えているのです。それは、イエス様が主の祈りを私共に与えてくださったことに似ています。

4.イザヤの祈り(1)
 イザヤの祈りは、少しも言葉を飾ったりしません。15節「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていて、わたしに示されません。」イザヤの目の前にあるのは、破壊されたままの神殿であり、荒廃した祖国であり、途方に暮れて、生きる力も勇気も失い、祈ることさえ出来なくなっている神の民です。それを眼前に見据えて、神様に訴えるのです。「どこにあるのですか、あなたの憐れみは、あなたの愛は、あなたの力強い救いの御業は。わたしには見えません。どうして、あなたは神の民に対する熱情を抑えたままにしているのですか。天から見てください。あなたの愛する神の民の現実を見てください。」イザヤは知っています。神様がすべてを御存知であることを。しかし、言わざるを得ないのです。「どうか、天から見てください。この現実を見てください。これを放っておかれるのですか。」イザヤは神様の前に立っています。弱り果てた神の民の先頭に立って、神様と相対しています。イザヤは一歩も退きません。

5.イザヤの祈り(2)
 そして、告げるのです。16節「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」あなたは父ではないですか。わたしたち神の民の父ではないですか。誰が何と言おうと父だ。アブラハムが知らないと言おうと、イスラエルが認めないと言っても、そんなことは関係ない。あなたは父だ。わたしたちの父だ。だから、あなたの子であるわたしたちをこのままに捨て置かれるはずがない。そんなことはあり得ない。
 私共もまた、神様に向かって「父よ」と祈る者とされました。それ故、私共もこのように祈ることが出来るのです。あなたは私の父です。誰が何と言おうと父です。私はあなたの子なのです。
 「あなたはわたしたちの贖い主。わたしたちの一切の罪を赦し、御自分のものとしてくださる方。わたしたちはあなたのものです。」そう告げる。贖うというのは、奴隷を、その代金を支払って、或いはその借金の肩代わりをして、自分のものとするということです。神の民は、すべての負債を神様に肩代わりしてもらって、神様のものとしていただいた者です。イスラエルはエジプトの地で奴隷でした。そこから解放してくださったのは神様です。ですから、神様は神の民の贖い主なのです。これは昔からそうだった。イザヤがこれを語っているのは、出エジプトの出来事から七、八百年後のことです。神の民は出エジプトの出来事以来、ずっと神様に贖われた。神様のものとされた民だったのです。
 私共もそうです。イエス様の十字架によってすべての罪を贖われた者、神様のものとしていただいた者です。この方以外に私共の主人はいません。
 イザヤは、神様の今までの神の民に対する関わりを根拠に、神様の前に立っています。そして、17節「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために。」イザヤは、神の民がこのような状況に陥ったのは、神の民が神様から離れ、神様を信頼せず、自分を頼みとし、偶像に頼ったからであることを知っています。だから、彼は「悔い改めよ。」と告げ続けてきたのです。しかし、イザヤはここで、「私共は悔い改めますから助けてください。」とは言わないのです。自分が○○をしますから助けてください。そんなことではないのです。イザヤは、「立ち帰ってください。わたしたちのもとに立ち帰ってください。わたしたちと共にいてください。」そう乞い願うのです。「神様、あなたがわたしたちから離れてしまわれたから、あなたがわたしたちを敵の手に渡されたから、祖国はバビロンに滅ぼされました。わたしたちはあなたから離れたことが、罪であることを知っています。しかし今、どうか立ち帰ってください。あなたが共にいてくださらなくて、どうして私共が立ち直ることが出来るでしょうか。」そう訴えるのです。

6.イザヤの祈り(3)
 そして、18〜19節「あなたの聖なる民が継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってからわたしたちは久しい時を過ごしています。」というのは、実に当時のユダ王国の状況をそのままに言っていることです。
 そして、19節の最後、「どうか、天を裂いて降ってください。」と乞い願うのです。神様は今、天におられる。そこから見ておられる。しかし、それではダメなのです。出エジプトの時、神の民と共に歩まれたように、神の民の上に出来事をもってその御臨在を示されたように、天の高みから降ってきて私共と共にいてください。全能の御力をもって私共の歴史に介入してください。そうイザヤは乞い願うのです。この祈りは激しい。神様がおられるのは天、人間がいるのは地です。これは天地が創造された時からの秩序です。聖なる神様と罪に満ちた人間との間にある、決して誰も超えることが出来ない壁である「天」。それを裂いて地に降って来てください、とイザヤは願うのです。そんな祈りが許されるのでしょうか。
 許されるどころか、何と神様はこの祈りを受け取り、それに応えてくださったのです。「天を裂いて降ってください。」このイザヤの祈りが出来事となったのがクリスマスです。神様は天、人間は地。この天と地の隔たりは無限です。聖なる世界と罪に満ちた世界。この天と地の間には、越えることの出来ない罪という壁があります。しかし、神様はこの天と地の境を自ら引き裂いて、愛する我が子を人間として生まれさせられた。まさに、天を引き裂いて、神様自らが地に降って来られたのです。それがクリスマスです。実に、このクリスマスこそ、神様の私共への憐れみ、熱情、力強い御業が現れた出来事です。これほどまでに神様は、私共を愛してくださっている。その証しです。
 このイザヤの祈りは神様に届き、神様はこの祈りに応えて、イエス様を送ってくださいました。しかしそれは、イザヤの祈りから六百年も後のことでした。神の民は待ち続けたのです。

7.N・S姉妹の逝去
 さて、マルコによる福音書13章28〜37節において、イエス様は、再び来られること、しかしそれがいつかは誰も知らないし、突然来られると告げられました。神の民であるキリストの教会は、このイエス様の言葉を信じて、イエス様が再び来られるのを待っているのです。私共が地上の生涯を閉じるまでの間には来られないかもしれません。しかし、たとえ私共の地上の生涯が閉じられるまでにイエス様が来られないとしても、それで終わるわけではありません。イエス様が来られる時、先に眠った者も共に復活の恵みに与り、イエス様に似た者として共に永遠の命に与るからです。
 週報にありますように、N・S姉妹が、11月29日の朝、天に召されました。御遺族の意向で家族葬で行うということで、混乱してはいけないと思って連絡も回しませんでした。N・S姉妹の所には、先週の礼拝の後で訪問聖餐に行きました。その時は、痩せてはおられましたけれども頭もしっかりしていて、声にはなりませんでしたけれど讃美歌を一緒に歌われたので、こんなに早く亡くなるとは思いませんでした。苦しむこともなく、痛がることもなく、静かに息を引き取られたということです。延命処置はしないということになっていましたので、自然死に近いあり方で召されました。葬式に際して、私はいつものように、「N・S姉妹は地上の生涯は閉じられたけれど、これですべてが終わったのではない。」ということを何度も告げました。それは、イエス様が再び来られるからです。その時、天も地もすべてが新たにされ、先に地上の生涯を閉じた者も復活の体をいただき、キリストに似た者として、主をほめたたえることになるのです。N・S姉妹が葬式で読むように指定された聖書の箇所は、マタイによる福音書28章20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」でした。この地上の生涯だけではなくて、死んでもなお、イエス様は私共と共にいてくださるのです。N・S姉妹はそのことを知り、信じる者としてこの地上の生涯を歩み、そして天に召されたのです。
 N・S姉妹には双子の息子さんがおりましたが、数年前に二人とも先に亡くなられました。母としてのN・S姉妹の嘆きは本当に深いものでした。しかし、そうであるが故に、N・S姉妹はいよいよ、主が再び来たり給うを待ち望む信仰を確かにされたのではないかと思うのです。主が共におられる。そのことにすがる思いだったのでしょう。指定された讃美歌は21-434番「主よ、みもとに近づかん」でした。私共の生涯は、死も含めて主の御許に近づいていく、そういう歩みなのです。

私共は今から聖餐に与ります。天を裂いて降り給うた主イエス・キリストの体と血とに与ります。この聖餐は、キリストの教会が、その初めの時から今に至るまで最も大切にしてきたものです。それは、この聖餐に与ることによって、私共の信仰が弱くならないように、私共のまなざしが、一度来られたイエス様、今共におられるイエス様、そして再び来られるイエス様にしっかり向けられるようにされるのです。この聖餐は、終末においてイエス様と共々に囲む食卓を指し示しています。今、この聖餐に与り、主の再び来たり給うを待ち望む信仰をいよいよ確かなものにされたいと思います。

[2017年12月3日]

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