富山鹿島町教会

礼拝説教

「十戒 〜ただ主なる神だけを拝む〜」
出エジプト記 20章1〜17節
マルコによる福音書 12章28〜34節

小堀 康彦牧師

1.十戒の第一戒と第二戒について
 今日は11月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。10月の最後の主の日は召天者記念礼拝でしたので、9月からの続きとなりますが、2ヶ月前ですのでもう覚えていない方もおられるかもしれません。前回は、十戒の序文と第一の戒から御言葉を受けました。今日は、第二の戒と第三の戒から御言葉を受けたいと思います。
 第二の戒は「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」、そして第三の戒は「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」です。
 さて、第二の戒ですが、これを私共は第二の戒と言っておりますが、ローマ・カトリック教会やルーテル教会では第一の戒に含んでおります。十戒の全体としては同じなのですけれど、この第二の戒は第一の戒に含まれると数えるわけです。そうすると十にはなりませんので、私共の十番目の戒を二つに分けて、数を合わせることになっています。つまり、出エジプト記20章17節の言葉を、第九戒「隣人の家を欲してはならない。」、第十戒「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」とするわけです。
 私共はわざわざそんなことをしなくても良いのにと思いますけれど、そこには第一の戒と第二の戒はそれほどまでに一体となっている、結び付いているという理解があるからです。そのように考えること自体は間違っていないでしょう。自分のために刻んだ像を造らない、これを拝まないということは、第一の戒である「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」を具体的に展開したものだと受け取ることは出来るでしょう。確かに第一の戒は大切です。第一の戒なのですから、まさに第一に大切なことです。しかし私共は、この第一の戒は、第二の戒を飲み込んでしまうことによってそれで終わりというのではなくて、第二から第十のすべての戒が第一の戒の展開だと理解します。ですから、第二の戒は第二の戒として、しっかり心に刻んでおかなければならないと理解するのです。

2.画像論争
 実際には、ローマ・カトリック教会においては、第二の戒が第一の戒に飲み込まれることによって、第二の戒が失われてしまった、そういう現実があると私は思います。それは、礼拝堂を一目見れば分かることです。私共の礼拝堂には、殺風景と言えるほどに何もありません。きらびやかな像も無ければ、絵もありません。装飾らしいものは何もありません。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝堂に行けば、正面には十字架にお架かりになったイエス様の像がありますし、その他にもマリア像や聖人たちの絵があったりします。この違いは、十戒の第二の戒をどう受け止めているのか、そこから来ているのです。私共、改革派・長老派の教会は、この第二の戒を最も真面目に、まともに受け止めている教会と言って良いと思います。
 この絵や像についての論争は昔からあります。東のギリシャ正教と西のローマ・カトリック教会が分かれた時も、この論争がありました。東の教会は、この第二の戒の「造ってはならない」と訳されている言葉は直訳すれば「刻んではならない」という言葉なので、立体的なものはダメだ、しかし絵なら良いということで、イコン(聖画と訳すのでしょうか)、絵という形で表現することを良しとしました。ですから、東方教会の礼拝堂に行きますと、正面はイコンの絵で埋め尽くされた壁(イコノスタシスと言います)になっていて、その壁の向こうで聖餐の用意がされて、司祭がそれを持ってこちらに出て来る。イコンの壁が、この世と神の国の境を意味するものになっています。東の教会は、ローマがイエス様の像を造ることは、この第二の戒に対する違反であると激しく反対したのです。
 一方、ローマ・カトリック教会は、このイエス様の十字架像は伝道するために必要なものだと主張致しました。そして、イエス様は神様なのだから、神様以外のものの形を刻んで拝めば第二の戒の違反になるが、イエス様の十字架像はそれに当たらないと反論しました。
 今、東方教会と西方教会において為された画像論争についてお話ししましたけれど、絵にせよ、像にせよ、これは人間というものが如何に見えるものを拝みたがるか、そのことを示しているのでしょう。見えるものを拝みたくなる。それは人間の根っこにあると言ってもいいほどに根深いものだと思います。私は、ここには人間の根本的な罪があるのだと思っています。天地を造られ、私共の理解を超える大いなるお方、形を持たず、いつでもどこにおいても私共の上に臨み、すべてを支配しておられるお方、生ける神。それを、自分の理解出来る方として、自分の想定の範囲内に捕らえようとする。それが像を造るということでしょう。
 私共に言わせれば、絵も像もどっちもダメということになるかと思います。神様は、この第二の戒において私共に何を求めておられるのか。そのことをきちんと受け止めなければなりません。

3.生ける神を拝む
 第一にそれは、私共と契約を結んでくださる方として神様を拝むということです。私共に語りかけてくださるお方を、生きて働く、人格を持ったお方として拝むということです。人格を持つということは、自由なお方であるということです。形なんて無いのです。そのお方が私共と契約を結んでくださった。言葉と出来事をもって私共の上に臨んでくださった。私共はこの、言葉と出来事をもって私共にその存在を現されるお方、私共と契約を結んでくださるお方を拝むということなのです。
 私共は主の日の度毎に、ここでそのお方を拝むのです。見えません。しかし、ここに臨んでおられます。私共はそのことを、どこで確認するのか。それは御言葉です。聖書の言葉をもって私共に語りかけてくださる。この語りかけを聞くことによって、私共は見えざるお方がここにおられることを知るのでしょう。
 そして、出来事です。十戒をいただいた時、イスラエルの民は出エジプトの旅において多くの出来事を目の当たりにしました。海の水が右と左に分かれる出来事、天からのマナ、岩からの水、火の柱・雲の柱による導きなどの多くの出来事によって、神様が生きて働いて自分たちを守り、導いてくださっていることを知らされました。そして、私共は、神の独り子イエス・キリストの誕生、十字架、復活、昇天という出来事をもって、神様が私共を生かし、救ってくださることを知らされました。もちろん、それだけではありません。私共が今朝ここに集っている、この当たり前の主の日の歩みのために、神様が生きて働いて、ここに集うことが出来るようにすべてを備えてくださったことを知っています。この生ける神を私共は拝むのです。

4.神様を愛し、信頼し、従う
 第二に、私共はこの見えざるお方を拝むが故に、この方を愛し、この方を信頼し、この方に従うということです。私共は、この方が聖書の御言葉を通して私共に語りかけるお方であり、出来事をもって私共に臨まれるお方であることを知っています。そして、この方は、その言葉と出来事をもって私共を愛し、私共を救い、私共を招いておられることを知らされます。そのことを知らされた私共は、この方を愛する。誰よりも愛する。この方を信頼する。誰よりも信頼する。そして、この方に従って生きる。他の誰よりもこの方に従って生きる者となる。
 この方を拝むということは、この主の日の礼拝の時に拝むというだけではありません。この言葉と出来事をもって私共の上に臨まれる方を、いつでもどこでも誰よりも、愛し、信頼し、従う者として生きるということです。絵だろうと像だろうと、それを造りそれを拝むということは、いつでもどこにでもおられるお方をそこに固定する、限定するということになります。神様はそれを拒否されたということです。私共は、いつでもどこにでもおられるお方を拝むが故に、いつでもどこでもこのお方の御前に生きるということになります。どういう礼拝を捧げるか。それは、どういう人間として生きるかということと一つなのです。

5.神様「だけ」を拝む
 私共は、確かに神様の絵や像を持ちませんし、これを拝んだりしません。それは、この日本という国で生きる上で、「こんな場合はどうするのか。」という問いを与えられることになります。特に、家族の中で一人だけキリスト者である人にとって、それはなかなか厳しい状況があるだろうと思います。私は牧師ですので、家族や周りの人もそう見てくれますので、比較的楽です。しかし、信徒の方は大変な時が少なくないだろうと思います。それぞれの置かれている状況が違うのですから、「この場合はこうすれば良い。」とは簡単に言えないと、私は思っています。例えば、葬式に行く時どうするのか。数珠は持たないのか。焼香はどうするのか。他人の葬式ではなくて、家族の場合はどうなのか。いろいろあるでしょう。或いは、家にある神棚や仏壇をどうすればいいのか。こうすればいいと簡単には言えません。それぞれが置かれている状況の中で、「ただ主なる神様だけを拝む」ということを心にはっきり刻んだ上で、出来ることを出来るようにするしかないと思っています。
 もっと大切なことは、見える絵や像の問題ではありません。神様以外のものを神様にしてしまう。それは、神様以上に愛し、神様以上に信頼し、神様以上にこれに従うものを持ってしまうということです。これは見えざる偶像と言っても良いでしょう。それは、時には国家であったり、その時代の思想であったり、大好きな趣味であったり、仕事であったり、富であったり、社会的な地位であったり、周りの人々の目であったり、自分の健康であったり、家族であったりするかもしれません。私共は本当に易々と、神様以上に愛し、神様以上に信頼し、神様以上に従ってしまうものを持ってしまうのです。
 私共は何気なく「健康第一」と言ってしまいますけれど、皆さんには「健康第二」と言って欲しいと思います。第一は神様ですから。

6.第三戒
 神様以外のものを神様としてしまう時、私共は第三の戒、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒をも犯しているのです。
 この第三の戒は、十戒の中でも説明されないとよく分からない戒ではないかと思います。ユダヤ人はこれを文字通りに受け取って、聖書の中にある神様の名を記した所を、すべて「主(アドナイ)」と読み換えることにしたほどです。旧約聖書の中で「主」と訳されている言葉は、すべて神様の名を記した四文字が記されています。エホバという言い方は、この四文字に主という意味のアドナイという言葉の子音を付けて読んだもので、これは全くの誤訳です。
 この戒が言おうとしているのは、要するに、神様を自分のために利用するなということです。自分が得ようとするものを手に入れるために神様を利用するということは、イメージとしては、魔術師たちが神様の名を使って何かを実現するようなことです。神様を自分のために利用するということは、結局の所、神様を自分の召使いにする、自分が主人になるということですから、神様と私共の関係が逆転してしまうことになります。
 しかし、これは自分の願いや他の人のために神様に祈ることが禁じられているということではありません。私共の神様は父なる神なのですから、私共は神様の子として、まことに自由に神様に祈ったら良いのです。願ったら良いのです。これは祈って良い。これは祈ってはいけない。そんなことを考える必要もありません。
 ただ、ここで気を付けなければならないことが一つあります。それは、「神様は、きっとこれをこうしてああして、このようにしてくれるはずだ。」とストーリーを作らないということです。私共は神様に祈り願うだけです。それを神様が聞いてくださって、どのようにされるか。それは神様がお決めになることです。神様は自由なお方であり、すべてを御存知であり、私共を本当に愛してくださっています。私共の願いはそれとして、それが私共にとって本当に良いかどうか、それを知っておられるのは神様です。私共が作る神様の御業のストーリーは、大体外れます。ストーリーを作るということは、実は目に見えない神様の像を作ることなのです。私の願い、私の理解の中に神様を当てはめることだからです。私共は真剣に神様に願い、求め、祈ります。そして、祈りが神様に聞かれていることを信じます。神様は必ず、その祈りに応えてくださいます。しかし、それがどのような形になって表れるのか、私共は知りませんし、そのストーリーを作ったりはしません。神様が聞いてくださり、生きて働いて、出来事を起こしてくださることを信じて、安んじて待つのです。

7.信仰生活の処方箋:賛美と祈り
 目の前の辛い現実、悲しい出来事が私共に訪れる時、祈っても祈っても不安や悲しみをぬぐえないことがあることを、私も知っています。しばしば、祈ることさえ出来なくなります。そんな時どうすれば良いのか。私は二つの処方箋をお教えしたいと思います。
 一つは、讃美歌を大きな声で歌うことです。讃美歌は私共の心を神様に向けさせます。神様の約束、神様の御業に向かわせます。イエス様の前に立つのです。そこで私共は、いかなる刻まれた像を拝むよりも、大いなる方の御前に立つ事になります。
 そしてもう一つ。それは、自分のためではなくて、他の人のために祈ることです。私共は、辛い厳しい状況にあると、それがすべてであるかのように思ってしまい、それに自分のすべてを飲み込まれてしまいます。そこに希望はありません。しかし、他の人のために祈る時、私共の中に愛が宿ります。神様からの愛です。この愛が、私共のまなざしを自分から神様に向かわせます。
 この二つの処方箋は、十戒の第二、第三の戒から生まれてくるものです。十戒は、何かいかめしい、これをしたら神様の罰が当たるからしないようにするというようなものではなくて、神様との愛の交わりの中に生きるために、神様が私共にあたえてくださった愛の道しるべなのです。この十戒によって私共は、神の国への歩みを健やかに為すことが出来るのです。
 この一週も、御国に向かっての道を、それぞれ遣わされている場において、十戒に従って、ただ主なる神様だけを拝んで、この方を愛し、この方を信頼して、この方に従って歩んでまいりたいと思います。

[2017年11月26日]

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