富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしを救う希望」
詩編 62編2〜9節
ローマの信徒への手紙 8章18〜25節

小堀 康彦牧師

1.礼拝における眼差し
 主の日、私共はここに集う度毎に、眼差しを天に、そしてやがてやって来る終末へと向けます。日々の生活を営む中にあっては、私共の眼差しは、この地上での出来事と現在の身の回りのこと、将来と言ってもせいぜい10年後、20年後といった自分の目の黒いうちのことに向けられています。しかし、主の日にここに集う度に、私共は本当に見るべき所がどこであるのかを知らされます。それは天です。天は神様がおられる所、イエス様がおられる所、御心が完全に行われている所です。そして終末。それはイエス様が再び来られる時であり、救いが完成する時であり、御心が天で行われる如くに完全に行われるようになる時です。私共はそこに眼差しを向け、そこに向かって今という時を生きている。そのことをはっきりと知らされるのが、この主の日の礼拝の時です。
 私共は皆、歳を取ります。去年まで出来ていたことが今年は出来ない。それは辛いこと、悲しいことです。しかし、そうであればこそ、私共はどこを見ているのか、どこに向かって歩んでいるのか、そのことがとても重要になってきます。
 私共がこの礼拝において見上げる天、眼差しを向ける終末。ここに私共の希望の源があります。ここから、どのような状況の中に私共が置かれようと決して失われることのない希望がやって来ます。この希望に生きることが出来るようにしていただいた者。それがキリスト者です。  しかし、すべてのキリスト者がその希望に生きているわけではありません。自分に与えられている希望が何であるのかよく分からず、それ故、目の前の困難に押しつぶされそうになっている人もいます。キリスト者となったということがどういうことなのか、まだよく分からないからです。私も長い間、よく分かりませんでした。信仰を与えられ、洗礼を受けたその時から、このことがよく分かっているというキリスト者は、多分一人もいないでしょう。私共の信仰は、少しずつ成長していくものなのです。信仰の成長というと、私共はどこか「キリスト者らしくなる」ということをイメージしがちですけれど、そうではありません。私共に約束されている救いの恵みの大きさが分かっていく、それが私共の信仰の成長なのです。それは、少しずつ少しずつはっきりしてきます。主の日の礼拝に集い続ける中ではっきりしてくる。そして、私共に与えられると約束されている救いの恵みの素晴らしさが、私共に希望を与え、生きる力と勇気を与えます。

2.現在の苦しみ
 そのことを使徒パウロは、今朝与えられております御言葉、ローマの信徒への手紙8章18節において告げています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」
 「現在の苦しみ」これはすべての被造物が味わっている苦しみです。確かに、具体的な苦しみは人それぞれ違います。話を聞くだけで心が痛くなるような悲しみ、苦しみを人は抱えています。自分の苦しみや嘆きを語り始めると、人は雄弁になります。話し始めたら止まらなくなるほどです。私共の眼差しは、何故か喜びや祝福よりも、悲しみや苦しみや嘆きの方に向けられるようになっています。そして、自分の悲しみや苦しみや嘆きは、誰よりも大きいかのように思えてきます。そのような思いを受け止めてもらえないと、自分のすべてを受け入れてもらっていないかのような気持ちになります。そして、そのような中で私共は自分のことしか考えられなくなります。そのような時、私共はとてもわがままになります。それが私共です。悲しみの中で、苦しさの中で、私共は自分のことしか考えられなくなり、わがままになるのです。
 パウロがここで言う「現在の苦しみ」とはそのような、人それぞれが抱えている悲しみや苦しみや嘆き、或いはそのような事柄にばかり目が向いてしまう傾向、そしてその中でわがままになってしまう自分、そのすべてを含んでいます。それは、罪の現実としての苦しみです。まことの光である神様を知らず、神様から離れて自分の力だけで生きているかのように思い違いをしてしまう私共が、必然的に抱え込んでしまっている苦しみです。罪の闇の中にある苦しみと言っても良い。それは、例外なく誰もが抱え込んでいる闇であり、苦しみです。それは、とても力が強く、私共から生きる力も勇気も奪っていくほどです。しばしば、私共はこの闇の力に支配されて、心も体も疲れ果ててしまいます。明日への希望が持てない。生きる意味が分からない。光が見えないのです。パウロはそのような私共の現実をよく知っています。だから、パウロは私共に、見る所を変えよ、眼差しをここに向けよと告げます。

3.将来の栄光
 こことは、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」です。「将来」とは終末です。イエス様が再び来られる時、私共の救いが完成する時です。その時、どのような栄光が私共に現されるのか、そこに眼差しを向けよと言うのです。では、その時どのような栄光が私共に現れるのでしょうか。それは、一言で言えば、「復活する」ということです。イエス様が復活された、その復活の体を私共も与えられる、永遠の命を与えられるということです。イエス様の持つ、良きものすべてを与えられるということです。全き愛、全き平安、全き喜び、そして父なる神様との全き交わりです。それが、私共に与えられることになっています。パウロは、そこに眼差しを向けよと言うのです。そうすれば、現在の苦しみは取るに足りないことだと分かる。現在の苦しみに飲み込まれて、それがすべてであるかのように思うことはないと言うのです。この「将来わたしたちに現されるはずの栄光」から光が射してきます。ここに希望の源があります。
 この栄光は、今、私共が見ることが出来るようなものではありません。ですから、信じるしかありません。希望とはそういうものです。

4.見えないものへの希望
 パウロは、24節で「見えるものに対する希望は希望ではありません。」と告げます。これはすごい言葉です。私共は見えないものへの希望という「本当の希望」を知っていたでしょうか。私は幼いときから、この「希望」という言葉が分かりませんでした。
 皆さんも幼い時、大きくなったらこうなりたい、そんな作文を書かされたことがあるでしょう。私も小学校6年生の時に書きましたけれど、正直な所、私には、こんな職業に就きたいとか、こんな人になりたいという思いは、何もありませんでした。でも、卒業文集のために書きました。「三浦雄一郎のようにプロスキーヤーになりたい。」と書きましたけれど、そんなものになれるはずもないし、なりたいと本気で思っていたわけでもありません。将来への希望というのが無かったし、分かりませんでした。ずっとそうでした。高校に入ってからもそうでした。ですから、大学受験の時に困りました。周りの人たちは、志望校とか、将来の職業とか、次々決めていくわけです。しかし、私は何も決めることが出来ませんでした。それで、絶対合格しない大学を受けました。そうすれば、決めることを一年間は先延ばしにすることが出来るからです。「何になりたい」以前に、どう生きていけば良いのか、全く分からなかったのです。それで、18歳の時、教会に行きました。20歳でイエス様に出会って、この方に従っていけばいい、というものが出来ました。そして、洗礼を受けました。でも、まだそれが本当の希望につながるということはよく分かっていませんでした。そもそも、希望ということが分からなかったのです。小学校で作文を書かされた時と同じように、「将来の希望」と言えば、どんな仕事をするとか、どんな生活をするとか、そんなことぐらいしか考えつかず、そしてそれに対しては何の希望も持てなかったのです。それは見えるものに対しての希望でしかなかったからです。それしか知らなかったからです。しかし、見えるものに対する希望は希望ではないのです。
 ですから、希望というと、何か淡い、不確かな、あるかないか分からないような、フッと息を吹きかければ消えてしまうような、頼りないものというようなイメージしか持てなかったのでしょう。しかし、キリスト者として歩み続ける中で、希望とは、そんな小さな、頼りないものではないことを知るようになりました。私共に生きる力を与え、勇気を与え、困難にも立ち向かうことが出来るようにするほどのものです。まことの希望とは、圧倒的な栄光に輝く、光に満ちた将来からやって来ます。その希望の光は、現在の苦しみという現実をすっぽり飲み込んでしまうほど、力に満ちたものなのです。
 イエス様が再び来られる時、私共は栄光に輝く体、復活の体を与えられ、神様との全き交わりに入れられます。その日に向かって、私共はこの地上の生涯を歩む。どんな職業に就くとか、収入は幾らだとか、そんなつまらないことではないのです。それはどうでも良いとは言いません。しかし、それは与えられた仕事を与えられた場で、自分に出来ることを出来るように精一杯やる。それしかありません。自分がなりたいものに皆がなれるわけでもありません。大切なことは、何をするにしても御国を目指して生きるということなのです。

5.産みの苦しみ
 もちろん、そのような歩みの中においても苦しみはあります。悲しみも嘆きたくなることもある。しかし、それは「産みの苦しみ」だとパウロは言うのです。出産の苦しみは大変なものでしょう。男である私にはよくは分かりませんけれど、大変痛いし、苦しいと聞いています。しかし、この産みの苦しみは、他の苦しみと違う所があります。それは、新しい命の誕生のための苦しみだということです。出産の痛みは、人間が味わう痛みの中で最も大きな、激しいものだと言われます。しかし、その痛み苦しみはずっとは続かないし、何よりもその苦しみの後には、新しい命が誕生するわけです。だから、皆この苦しみを避けることなく出産するし、この苦しみに耐えることが出来るのでしょう。
 二人、三人と子どもを産んだお母さんに聞いたことがあります。「出産の痛みってすごいのでしょう。それなのに、どうして次の子も産もうと思ったの?」すると、聞いたお母さんはみんなこう答えました。「出産の時の痛さはもの凄いわよ。でも、忘れちゃうのよね。そして、出産する時になって、痛い、ああもうやだーって思うの。それに、子どもが生まれることは本当に嬉しいことでしょう。それが、出産の痛みを忘れさせるのよね。」
 パウロは、私共のこの地上の生涯における苦しみは、「産みの苦しみ」だと言うのです。それは、この苦しみの向こうに、栄光に輝く、終末における救いの完成が待っている。その日を目指して、苦しみの現実を忍耐して歩み通す。この終末の希望が、苦しみの中にある現実に耐える力を与え、生きる勇気を与えるのです。
 24節の「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」とはそういうことです。希望の源は、この地上にはないのです。目に見えるものは過ぎ去り、滅んでいくからです。どんな立派な会社も組織も、国家であっても、やがては消えていくのです。私共の肉体もです。「見えるものに対する希望は希望ではありません。」と言われている通りです。しかし、決して消えない希望の源がある。それが、終末における救いの完成です。

6.聖霊を与えられて
 では、そのような見えない将来の栄光をどうして私共は信じることが出来るのか。それは、私共に聖霊が与えられているからです。聖霊が与えられることによって、信仰が与えられたからです。
 聖霊が与えられている。それは、私共が神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことが出来るという所に、その証拠があります。聖霊は神の子の霊です。イエス様の霊です。神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのは、本来イエス様だけです。イエス様だけが、神様を「父よ」と呼ぶことが出来る、まことに親しい交わりを持っておられる。三位一体の神様だからです。しかし、私共は神様に向かって「父よ」と呼んでいる。これは本当に不思議なことです。
 私共は、どんなに親しい近所のおじさん、親戚のおじさんでも、「お父さん」とは呼ばないし、呼べないでしょう。「お父さん」と呼べるのは息子と娘だけです。ですから、イエス様が神様を「父よ」と呼ぶことに不思議はないですが、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶのは少しも当たり前のことではありません。神の御子であるイエス様の霊である聖霊が私共に宿り、その聖霊によって私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る。そして、この聖霊によって神様との親しい交わりを与えられ、私共は信仰を与えられました。この聖霊なる神様によって与えられた、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る信仰の現実。それをパウロは「”霊”の初穂をいただいている」(23節)と言っているわけです。「初穂」というのは、その年の収穫の最初のものということです。私共は、聖霊によって神様を「父よ」と呼ぶことが出来、それによって終末において与えられる完全な神様との交わりを、既に味わい始めているということです。
 聖霊が与えられている。信仰が与えられている。それが私共に与えられている初穂です。ですから、終末の救いの完成とは、イエス様と父なる神様との交わりのような、神様との完全な交わりを私共も与えられるということです。私共は既に初穂を与えられていますから、収穫を疑うことはありません。聖霊が与えられているということは、私共の救いの保証、手付金ということです。

7.希望に生きる
 私共キリスト者は、終末の希望に生きる者とされました。そうであるが故に、救いが完成する時のことを思うと、今自分が生かされているこの現実とのギャップに気付かざるを得ません。何故、戦争があるのか。何故、飢えがあるのか。何故、不当な差別があるのか。何故、互いに赦すことが出来ないのか。このような何故は、次々に挙げることが出来ます。終末の希望の中で、私共の罪の現実、愛の無さを知ることになります。光を知るが故に、闇が分かるのです。そして、私共は仕方がないと諦めるのではなくて、そこで祈ることを教えられています。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りです。この祈りと共に、私共は希望の中で、なおこの世界に主の愛が満ちていくように、神様の愛の道具として歩み出していくのです。
 その歩みは、「焼け石に水」のようなものでしかないかもしれません。しかし、自分たちのしていることが、たとえ焼け石に水であったとしても、私共は水をかけ続けます。この水をかけ続けることが、産みの苦しみであることを知っているからです。私共の愛することは徒労に終わるかもしれない。御心の天になるごとく、地にもなるようにと励む歩みは、全くの徒労のように見えるかもしれません。少しも成果が上がらないということもあるでしょう。しかし、まことの希望に生きる者は、それが無駄ではないことを知っています。イエス様が私共の歩みのすべてを見ていてくださり、終わりの日に、「忠実な僕よ、よくやった。」と声をかけてくださる。そのことを知っているからです。誰も評価してくれなくても、大したもんだと言ってくれなくても、神様は見ていてくださる。私共の為す業が神様への心からなる捧げ物であることを、神様は知っていてくださる。ここに私共の平安があります。喜びがあります。希望があります。
私共は、まことの希望を知るということがどういうことなのか、それを自分の生涯において証ししていく者として立たされています。そのことを誇りとして、今週も、それぞれ遣わされた場において、為すべき業に励んでまいりたいと思います。

[2017年11月19日]

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